雑記|言葉の力を信じて詩人になり、物語の力を信じて小説家になる
言葉は不自由だ。同じ言葉を同じ時に使っても自分が思ったとおりのことを100パーセント誰かに伝えるのはとても難しい。おそらく不可能に近い。
でもそれを短いフレーズやテンポ、たとえなどあらゆる技術をギュッと詰め込んで、ドモホルンリンクルの一滴を見守るように搾り出して、自分の世界を誰かに見せてあげようと試みる人のことを詩人と呼ぶのだと思う。
言葉は覚えてくれなくてもお話は覚えられる。そらで桃太郎の話を話せる人はとても多い。物語の力は(良くも悪くも)強力だ。人物とイベントと関係性と、記憶に残りやすい要素を、一流のシェフが注意深く組み合わせるように、自分の見えている世界とメッセージを伝える人のことを小説家と呼ぶ。
あとは言葉でなくて音楽や映像、絵画など媒体は違えど、世界や物語を伝えようともがく人たちをアーティストと呼ぶんだろう。
僕は小学生のときに自由研究で小説とは名ばかりの宗田理(ぼくらの七日間戦争が流行りだった。宮沢りえ初主演映画もよく覚えている)の劣化コピーをだしたり、兄貴に押しつけられたアコースティックギターで、槇原敬之の劣化コピーの歌を自作したり、ストリートダンスで自分を表現しようとしたりした。(半分以上はモテようと思って)
でも僕はアーティストにはなれず、日曜の朝妙に早く目覚めてこんなことを考えている。どうせ雑記なのでオチも用意がなかった。コーヒーを淹れてヨガでもしよう。