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「いたれりつくせりにしない」とはどういうことなんだろう

ここで書く内容は、正直あまり整理できていないと思う。
タイトルもひらがなの羅列だし、、、(関係ないけど笑)。難しい内容です。

以前訪ねた建築や、聞いた講義、最近読んでいる本、訪ねた展示などの断片的なものが最近積み重なって、アハ体験の、、、予感。

青木淳『原っぱと遊園地』を読んで

以前にも読むことに挑んだが、途中で断念しちゃった「原っぱと遊園地」。
時間があるので、再び挑戦!

特にpg85からの「PLACE 動線体への道程」のところが面白く、考えさせられた。ものごとを違う観点で考えるきっかけになった・なる気がする。

「PLACE 動線体への道程」

ざっくり説明。
そもそもこの本を青木さんが書いた発端は、ある廃校を美術館にリノベした展示と、美術館として設計された美術館の展示を訪ねた時に、前者の美術館の方が美術館として優れているように感じた疑問から始まっている。
それは、美術館として設計された美術館は、作品展示や美術鑑賞が前もって計画されている、想定されているように感じ、廃校展示は未知なるポテンシャルを作品展示や美術鑑賞に与えてくれているように感じたかららしい。

つまり、<空間>が作品展示や美術鑑賞という<行為>を先回りしているという指摘

人が「ここ、何する場所、、、?」ってなる空間がいいのかな

読んでいくと、青木さんは劇場について話す。

ここで思い出したのが、以前訪ねた仙台メディアテークまつもと市民芸術館
それに加えて、最近座・高円寺で行われている伊東さんの公共建築の展示(確か8/16まで!)でみた、写真や利用者の声。

この2つの建築を訪ねた時は、両方ともあまり人がいないタイミングだった。建築の細部をみたり、色々うろちょろするには良かったけど、展示のイベント時の写真を見た時に、自分はあの建築のもつ場の可能性を最大限には体験することができなかったなと思った。

両方の建築も大空間が設けてあり、正直がらんどうな印象をもった。(私の下調べ不足も多いにあります)特にメディアテークの一階部分は高さ7m(かな?もっとかも)ぐらいあって、且つ空間を区切るのはあの特徴的な構造体のみで、「ここどうやって使うんだろう」と思ってしまった。

けど、実際使われている様子を写真で見ると、多種多様な使われ方をしているようで、空間がとても柔軟に作用していて、行為と空間が呼応しているってこういうことなのかなと思った。

長くなってきたので、ここでひと段落!



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