見出し画像

ソフトクリームの雲

毎日通る通勤・通学路。同じ建物に囲まれた空を見て、皆さんは何を考えてますか?そんなこと聞かれても…日によって違うし…。

そうですね、その日の気分、生活上の文脈が違えば、同じ景色を同じ人間が見たとしても浮かぶ感想は変わってくると思います。

午前9時30分ごろ、僕は毎朝坂を上って大学に向かう。街が出す音が嫌いな僕は必ずイヤホンで音楽を聴きながら進む。

ある晴れた日、耳元では Homecomings の HURTS が流れている。少しおセンチな気分で、道端に生え放題になったススキを見ながら、あの人の「メッセージの送信を取り消しました」について考える。ピーカートンもきっと帰ってこれない。

これ撮ったの昼なんですよね…。

次の日、同じように晴れた朝、耳元では Sigala の Brighter Days が流れている。抜けるような空に向かって真っすぐ走る車を眼下に、陸橋を渡る。やっと進み始めた実験の結果について考察したりする。太陽もきっと雲間を割って帰ってくる。

これはイメージです。だって昼間の写真だし…。

僕が写真を撮るのは、単に自分が見つけたきれいな、または、すごいものをみんなに見てもらいたいからです。しかしながらきれいとかすごい、というのはあいまいで、人によっても、また同じ人でもその時の気分によってジャッジが変わってしまいます。

何百年もそこにある山体が被写体でも、その日の気象条件、そこに居合わせた人々、撮影者の意識外の感情…。そういうものをすべて透過して出てきた写真というのは、その場所に再来しても再現できるものではない。そういう唯一性をコレクションできるところに、沼ってしまうんですね。

だから逆に、「こういう事を表現するために、ここであれを撮る」というのは僕はできないのです。「静的なものの前をたまたま通りがかった動体」をたまたま通りがかった自分が揺れ動く心理状態でとらえた偶然の産物に、面白みを感じるから。

偶然の産物

撮るときも、鑑賞するときも、深く長く見たりはしない。どんな景色や作品も、じっと見てれば良いところが浮かんでしまう。自分が楽しむ範囲においてはパッと見て直観でいいと思えるかどうかだと、最近は考えています。

…と、大量のピーマンを切りながら考えていました。要は何も考えていないのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?