最愛のじーじのことを想う
2024年6月ごろ、突然発覚した祖父の病気、白血病。
なかなか風邪も引かなければ、よく食べよく飲み、お酒もほどほどにしなさいと言われるくらいの、元気なじーじ。
私もよく、「飲み過ぎてばーばを困らせないでよ!!」と電話越しに話して、その度に少し困ったのと笑ったのと混ざった声で、「はいはい、わかったよ」と言っていた。
私にとって、じーじはとても大切な家族の1人だった。
小さい頃から、家がそこそこ近かったこともあり、よく遊びに行った。
小さい頃は、家で絵を描いたり、新聞紙を丸めて剣を作ったり、ソフトボールでキャッチボールをしたり、近くの公園で鬼ごっこをしたりして遊んだ。
畑では色んな野菜や花々を育てていて、たまーに一緒に収穫したりもしていた。
小さい頃の私にとっては、そんな野菜たちのことよりも、畑の脇に生えているミントを摘んで、水と混ぜて「ミントジュース!」なんて遊んだりしていた。
そういえば、駐車場のコンクリートのところに、チョークで丸をたくさん描いて、ケンケンパとかやったりなんかもしたなあ。
お正月には必ず集まって、ご飯を食べるんだけれど、じーじはお酒を飲むと調子が良くなるから、ちょっとだけめんどくさいとかも思ってたかもしれない。
私が中学生になると、部活の演奏会やコンクールには欠かさず足を運んでくれた。
じーじは昔、トランペットをやってたみたいで、私が吹奏楽部に入ったことがとても嬉しかったらしい。
部活はとっても真剣にやっていたから、会う時間はたしかかなり少なくなってしまったけれど、本番には必ず駆けつけてくれていた。
当たり前に来てくれるものだと思っていたから、チケットは、必ず出欠確認前に取っておいていた。
高校生になると、もっと本格的に楽器をやり始めたので、アルトサックスを自分用にプレゼントしてくれた。
楽器なんて、安いものじゃないことはよくわかっているし、今考えたら何よりも大きなプレゼントだけれど、なにも躊躇わず、喜んで贈ってくれた。
そんなこともあり、私は大学生まで約10年間、楽器を続けてこれた。
社会人になり、私は東京に就職した。
地元から離れた事で、気軽に会えなくなってしまったけれど、定期的に畑の野菜を送ってくれた。
一人暮らしにはそれがとてもありがたくて、とても嬉しかった。
たまに、地元へ帰ったときは、必ず会いに行った。
そうすると、何よりも喜んでくれて、「おお!!はーちゃん!よく帰ってきたなあ」と安心する声で、歓迎してくれた。
帰って特に何をするでもないけれど、一緒にご飯を食べたり、昼寝したり、何でもない話から人生の話まで色んな話をしたり、落ち着く温かい部屋で、過ごした。
段々と会うたびに、見た目は老いを感じたけれど、それでもずっとずっと元気なじーじだった。
6月、突然母から連絡が来た。
「じーじ、血液のがんの可能性が高いです」
少し前から、食欲不振、微熱など、体調が悪かったみたいだけれど、そんな事だとは思わず驚いた。
何より、その時からお酒が不味く感じるようになったらしく、とても嫌な感じがあった。
7月半ば、精密な検査結果が出て、MDSと診断があった。
白血病の、手前の病気らしい。
その頃は、家族みんながまだ希望を持ちながら、なるべく白血病に移行しないよう、治療を頑張っていた。
でも、
10月頭、「じーじが急性白血病になってしまいました。明日から3週間入院です」と、ままから連絡があった。
3週間入院。
やはり受け入れがたく、とても悲しかった。
じーじはとっても病院が嫌いで、何がなんでも自力で治してきた人だったから、家から離れて3週間も病院でいるなんて、本当に辛かった。
きっと本人が1番辛かった。
でも、いつも前向きに、頑張っていた。
入院してから、初めて面会に行った日、病院のベットに腰掛けて、点滴がいくつもついているその状態に、涙が止まらなかった。
じーじはそんな時も、「おお!はーちゃんか!よく来たなあ。ありがとうな」と、私を気遣い、「ちゃんと食べてるか、じーじ頑張るな」と弱音を吐かずに笑顔で話してくれた。
その後も、会いに行くたびに笑顔で、私の方をポンポンと叩き、「よく来たなあ」と笑顔で迎えてくれた。
10月末、1週間ほど退院の許可がおりて、じーじは自分の家に帰った。
そのタイミングで私も帰省ができたので、じーじの家に向かった。
その頃のじーじは、病気が進み、もう立ち上がったり歩いたりすると腰に激痛が走るようになっていたらしい。
それでも、弱音は吐かずに「はーちゃんよく来たなあ!」と笑顔で迎えてくれた。
2階の日差しがたっぷり降り注ぐ部屋で、一緒に昼寝をした。
食事は、ほとんど食べられなくなってしまっていたけれど、軽井沢のお土産で買ってきたりんごは、「お、これは美味しい」と少しだけ食べてくれた。
そこから、あっという間だった。
11月12日の夕方、妹から電話があった。
「じーじ、結構厳しい状態かもしれない」
周りの人に無理を言ってすぐに駆けつけると、呼吸器を付け、痩せ細り、もう歩くこともできなくなってしまったじーじが病室で寝ていた。
「じーじ、はーちゃん来たよ」と伝えると、ぱっと目が開き、「おお、はーちゃんか、よく来たなあ」と言ってくれたような気がした。声はかすれていたけれど、きっとそう言っていた。
変わってしまったその姿に、なんともいえない悲しさと驚きと色々な感情の混ざった気持ちが込み上げて、涙が止まらなかった。
ただ、その日は、力強く手を握りしめてくれた。
苦しそうな息遣い、途切れ途切れの意識をどうにか掴んで、私の帰りを喜んでくれた。
そして、その次の次の朝。
病院に到着した午前7時頃には、もうほとんど意識が無くなってしまっていた。
でも微かに、私や、他の家族の到着をわかってくれたような反応があった。
呼吸が荒く、とても苦しそうだった。
命の最後の瞬間だった。
手先や足先は冷たくなってきていたけれど、まだ腕は暖かかった。
何かを伝えたそうに、喉が動き、腕が少し上がった。
家族はみんなが、とても感謝していた。
ありがとう、じーじ、ありがとう、お父さん、ありがとう、とうさん
呼吸が一度止まり、少しして一度吹き返し、そしてその後は、もう吹き返すことはなかった。
人の最後の呼吸と、続かなかった呼吸を、初めて目の当たりにした。
とても苦しそうだった音が消えて、無音になった。
少しすると、看護師さんや担当医の方が入ってきて、瞳孔の動きと心臓の音を聞いた。
確かに、反応がなく、呼吸や心臓の音もなかったらしく、「8:43ご臨終とさせていただきます」と、先生が言った。
さっきまで、生きていたじーじが、死んだ。
そこにいるじーじは変わらないのに、全く動かなくなってしまったじーじは、じーじじゃないみたいだった。
それから息をつく間もなく、通夜、葬式、火葬が行われた。
たくさん親戚が集まり、みんなが悲しんでいた。
じーじが死んでしまった、とそんな現実は、ふわふわと宙に浮いてしまっているようだ。
「おお!はーちゃん!よく来たなあ」と、また元気な笑顔で迎えてくれる気がしてならない。
目の前にしたじーじ、じーじだった体、死体、遺体、それすらもよくわからない感覚で、触ってみると冷たかった。
あっという間の半年間だった。
まだ、何かを受け入れた、ということもない。
だからと言って、受け入れられないわけでもない。
私の日常は、ひたすらに進んでいる。
軽井沢へ向かう帰りの車内。
その中の私は、書くたびに涙が溢れるけれど、いったいなんの涙なのかわからない。
じーじがいなくなってしまったこと、もう一生会えないこと、そんな実感はしようと思ってできるものでもない。
離れて暮らしているからこそ、またしばらく経ったら会えるような気がしてならない。
そんな甘えたようなことを思っている。
ただ一つ、遠くに住んでいる中でも、その中でも頑張って何度も会いに行けたことが、本当によかった。
私の中で、それだけは後悔がない。
3年半くらい前、大切な愛犬が死んでしまった時、確か猛烈に後悔をした。
その気持ちがあって、多少の距離や時間や金銭的に無理をしてでも、会いに行ったこと、最後まで会えたこと、それが本当によかった。
今思えることといえば、それだけ。
きっとこれからたくさん、じーじのことを思い出して、涙すると思う。
大切な人も、永遠ではないことを、改めて思った。
月が綺麗な夜、松本あたりを通過する車内で、そんなことを思っていた。
いつもは、前向きな言葉くらい言えるんだけど
今日は何も言えない。
相変わらず、窓の外の月が美しい。
一昨日満月だった月は、少し欠けているのかもしれないけれど、とても美しい。
じーじ、次は、いつ会えるかな