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【二人のアルバム~逢瀬⑦~霜降月~】

雪が降りそうな暗い朝で、ガラス窓は曇り、霜が降っていた。彼女は横目で柱時計を見た。午前7時だった。

彼を構うにはまだ早いか、と思いつつ、彼女が彼を振り返ると、静寂の中で煙草を吸っていた。細い煙が天井に向かって細長い煙突の様に昇っていた。竜巻を巻き込む様に、天井近くの空気清浄機が煙を吸い込んだ。

気象庁の予報では、午前遅くから午後に架けて、温度は低いモノの、晴れた空に恵まれる、との事だった。

1.朝

ぬくぬくに温まった布団の奥から、裾が乱れた浴衣と自分の両脚を抜いて、膨れて皺々になった布団の上に、白い肢をひっかけた彼女を彼が腕を広げて抱き寄せた。

「寒くないか。脚先冷たいぞ。こっちへおいで」。
「あら。そう?わたしは温かいわぁ」
彼の裸の胸の中に彼女はするりと入って、冷たい脚先を彼の脚に絡ませ、彼女は彼の布団から飛び出ている胸板を撫で上げながら、彼を愛しむ瞳で朝の挨拶をした。彼の瞳が弛んで、おはよう、とこたえた。
「…大鼾おおいびきだったでしょ、私」
「ん、確かに(笑)。久々のあなたのいびき、時々目が覚めたねぇ(笑)。あなたは気持ちよさそうに寝るからね、そんなに煩くなかったよ」
含み笑いする彼に、
「あなたと一緒だと、安心しちゃうの。不眠症なのに、あなたが一緒だと、くっすり、寝ちゃうもん。あなたも大鼾掻いていたわ(笑)。きっとリラックス…だったのかしら」
「あ~」、と彼が意味ありげに彼女の顔を見て、にやりとした。吸っていた煙草を灰皿で圧し潰し、彼女を振り返った。
「確かに。凄く、よく眠れたな。何て謂っても、ココもソコも温かくて、ホカホカぬくぬくして、裏も表も気持ちがイイ人だからね、あなたって人は(笑)」。
「やだぁ(苦笑)」
背中を向けた彼女を背後から手を伸ばして、彼が彼女を自分の方に向けなおし、彼女の上に軽くもたれて口唇を重ねた。
彼の深い口づけは煙の味がする。口唇を重ねた後に彼の唇を彼女が指で辿っていると、彼がため息を吐いた。
「あぁ、このままこのぬくぬくした中にあなたと一緒に溶けちゃいたいよ、俺は」。彼女が彼のくびさすりながらクスッと笑った。
「そうね…時間が止まればいいのにね…」

2.朝膳

朝9時過ぎに女将が声を架けてきた。女中とバイトの女の子が二人で朝膳を運んできた。

昨夜、寝る前に
「朝食は遅くに、昼は要らないんで」、
と彼が女将に謂ってあったので、彼と彼女が二人で朝風呂を軽く浴びている間に女中がバイトの女の子と布団を片付け、掃除を済ませていた。二人は馴れた様子で一緒にぱっぱと膳を並べた。メニューは簡単で粗食だったが、佃煮や煮物、惣菜の一つ一つが皆、丁寧で単価の高そうな食べ物だった。

赤味噌のなめこ汁、白飯、ほうれん草の煮つけを冷やしたもの、漬物、納豆、味海苔、と典型的な朝食だった。

美味いお茶を女将が入れてくれて、二人で今日の行き先を決めて、午前10時半には外出となった。女将が周囲の街角の地図を渡してくれて、近くの散歩道ルートに拡がる、もうすぐ終わる時間の朝市を廻った。この時間帯は安くなると言う女将の話の通り、美味しい麹味噌やら、赤味噌やら、前から欲しかった惣菜を廉価で手に入れて、今後暫く、この日の事を思いながら、互いに同じものを異なる場所で味わう時に、互いを思いあうのだ、と互いに話した。

道の駅に廻って、知人から頼まれた惣菜や家族や友人などへの土産の買物をし、傷むと困るので冷蔵のまま自宅や友人宅などに配送依頼した。結構いろいろな店で味見をしたり買い物をしたので、二人は終いに草臥くたびれてしまい、昼食に寄った和食屋で、彼女が疲れ切ってしまったので彼が彼女を庇って持帰りの弁当を作ってもらい、自室でゆっくり食べる事にスケジュール変更した。ハイヤを呼んでもらってホテルまで送ってもらい、弁当を開いたのは午後3時近かった。

依頼した弁当は想像したよりも大そうな量で、女将が入り口で見かけて、すぐに女中に謂って皿に盛り付けてくれ、小皿に取り置きしながら食べられるようにしてくれたが、二人は半分しか食べていないところで腹一杯になった。残りは冷蔵庫に入れて夜食にしよう、と謂う事になった。

一頻りして階下の地下に行くと、マッサージや本格的なサウナなどがあり、夕方から夜にかけては、二人、お互いに一個人で時間を過ごす事にした。

彼はこの時間帯に仕事の部下と電話で話したり、自宅に連絡したりし、彼女は彼女で、仕事のメッセージを返したり、自分で友人に連絡するなどした。

3.   昔話

マッサージやサウナの後に個室の風呂で、二人で汗を流して、リラックスした服に着替えて一息ついたところで、一昨日の夕方に落ち合った時、駅ビルの玩具屋で、彼が小さなボードゲームを購入していたが、彼がこれを出してきて、風呂の後にお茶を呑みながら彼女と二人で楽しんでいたら、夕膳が運ばれてきた。

「お邪魔いたします」、
笑顔の綺麗な気の利く女将が若女将と襖を開けて、三つ指を着いた。

「あっ、どうも、こんばんは~♬」、
二人で口を揃えてユニゾンで一斉に丁寧に返事をしたので、女将は
「あら、好いお返事ですこと」
と目を丸くして笑った。彼は真っ赤になってはにかんで、下を向いた。彼女はそれを見て、愛おしそうに彼を眺め、嬉しそうに笑った。彼はそれを意識して顔をさらに真っ赤にした。

若女将がニコニコとしながら、淹れたてのお茶とよそりたてのこんもりしたご飯を二人の前に出し、女中達に合図して静かに出て行った。

タイミングがぴったりの二人によくある事だった。
何をしようにも何を考えようにも、彼女は彼といる時、ピッタリのタイミングで、見るからに彼を尊敬していて出過ぎず、彼より目立ち過ぎずに、また邪魔にならずにモノを謂った。彼が話すと、彼女は口を閉じてにっこりしながら愛おしそうに彼を見た。女将は、そんな彼女を見る時、好意がある瞳で見つめていた。

チェックイン後に彼女は、女将を引止め、彼女は素直に女将に昔の話をした。自分の母親を探して涙ぐむ小学生の女の子の事を、女将は彼女を憶えているようだった。食後の話は女将を交えてその話になった。

「憶えていますよ。あなたはあんまりお顔が変わらなくていらっしゃるようなんで、あの時鳴いていたお嬢さんだったってすぐわかりました」
「あの時はお世話になって、有難うございました」
彼女が深々と頭を下げた。
「いえいえ」
「ずっと考えていて…母、誰かと愛し合っていたのかなって。父がいなかったので、長い間…。だから、その間、母も頼る人が欲しかったと思うし」
「あら、そうなのね。気になさらなくて大丈夫。お母様、とてもしっかりなさった方でしたよ。ちょっと自由になりたかっただけですよ。あの後、少し、あなたが安心して寝静まってから、下にいらしてね。お話をお伺いしたんですけどね、あなたのお母様は、キャリアウーマンで、とってもご苦労されていたようで、気分的に疲れちゃっただけ、一人になりたかったの、とおっしゃっていたわ。あの指圧クーポンや、サウナ、お身体が楽になった、っておっしゃって。
…あの頃ね、わたくし、まだ此方に嫁に来たばかりでしたの」
「そうなんですね」
「ええ。本女将である義母ももう床に入ってしまっていて、夜遅かったですでしょ、朝になって色々と対応法を教えて貰いましたが、あの時はお電話されて来たあなた様同様、わたくしも自分の賄う旅館ホテルで迷路に遭ったようでしたわね(笑)。懐かしいわね…。」
と遠い目で笑った。

「ウチは、先ほどまでいた若女将がしっかりしていて、今、とっても助かっているんですよ」
「若女将も女将もお二人ともとてもお美しくて」
「あら、いやですわ、ははは」
女将が口に手を当てて朗らかに笑った。

女将は、東京出身だ、と言った。
「あなたのようにね」。
時間を追うように遠い目で、女将は穏やかで優しい微笑と、まるで母親の様な愛しみを以て、彼女を見つめた。

彼は静かに二人のやり取りを聴いていた。女将が挨拶していなくなった後、寝室への襖を開いて床から枕を手に取り、頭を枕に当てて、横向きに寝転んで寛いでいた。

「すっきりした?」
「ええ」
「女将がいい人でよかったな」
「うん…。一度、お礼言いたかったのよね」
「うん」
「ん~。スッキリしたぁ」
「よかったな」

起き上って布団の上で彼女を迎えた彼の肩に背中からもたれながら、彼女はため息を吐いた。彼の右手の指で遊びながら、彼の背中に甘えた。

「うん。スッキリしたわ。有難う、この旅行に付き合ってくださって」。
「うん」。



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