がんばっても報われない社会が待っている


土曜の朝飛び込んできたこの挨拶。何とも言えず、感情の整理が難しかった。

そうか。20年経っても変わらないんだな。

若い頃から今に至るまで、後輩女性から様々な相談を受けてきたが、こういう類の相談のときにいつも意識しているのは、自分の体験ベースで語らないこと、自分の思い込みを意識的に極限まで無にすること。悩んでいるのは相手だからその気持ちに寄り添うことが一番だと思っている。

ただ、ここでは誰かの相談にのっているわけではないので自由気ままに書いてみたい。


男女不平等を意識せず育ててもらった。母は自身が不平等を感じてきた経験からか、私と妹をとにかく「明るく元気に強くたくましく」育ててくれた。女性らしさ/男性らしさを意識せずに育ち、特に男女差を感じることのない中高でのびのびと過ごし、最初に違和感を覚えたのは大学のときだったと思う。そこで感じた違和感がその後社会で生きていく上で私を少なからず支えてきてくれた、と肯定的に思っていた。

就職先に外資系の会社を選んだのはとにかく1人でも強く生きていけるための何かが欲しかったから、力をつけて誰かを幸せにできるようになりたかったから、、、でも、心のどこかで少しばかり男女平等な環境を求めたからだったのかもしれない。その後いくつもの職場を経験したが、外資系の会社でも、日本でなくても、イギリスやアメリカでも、男女比トントンくらいの古き良き日本の会社でも、日常的に男女不平等だと感じることはなかったけれど、ただそれは全くなかったわけではなかった。正直に言うと、慣れてしまっていて、最終的にはそれに不満を感じることも、それについて考えることもなくなってしまっていたことに気づかされた。そして、それはもしかしたらこの問題を良くする流れに多かれ少なかれ逆行してしまっていたのかもしれない、と思った。

ただ、改めて上野さんの挨拶を読んで、何だか今まで自分でしまいこんでいた何かが心の中で動くのを感じている。男女不平等というよりかは、●●ハラに近いのだが、完全に忘れていたことが走馬灯のように思い出された。

出産後に職場復帰して、毎日生きてるだけで精一杯だったときに、当時信頼していた上司から「女なのになんでそんなにがんばってるんだ。子どもがかわいそうだと思わないのか」と言われた。トイレに駆け込んでむせび泣いたことは今も昨日のことのように思い出される。職場で泣いてしまったのはそれが初めてだった。

先輩ワーママから「今はこんなにいい時代なのに何を贅沢言っているのか」と言われたこともあった。私の時代のママと今の時代のママを比べて不平等だ、今のママは恵まれすぎている、というのだ。

「私が出来ているんだからあなたもできるはず」という言葉を実家で子育てをしてもらっている方から突き刺されたこともあった。ワンオペもなかなか大変なのだが。

話がそれてしまったが、不平等はそう簡単にはなくならない。それは社会、中でも職場にフォーカスされやすいと思うが、チクッと何かが刺さる思いをしたことがあるのはそれに留まらない。

友人、知人、はたまた彼氏だったり、親戚、家族かもしれない。人がいる場所があればそれに出くわす可能性はある。職場なら変えることもできるが、親戚や家族だったらそれは永遠に続く。そして、それの根源は1人1人の価値観だったりするから、きっと世代を、もしかしたら世紀をまたぐくらいまでは変わらないんだろう。

「あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。」

上野さんの言葉が心にずきゅーんと差し込んできた。

何と強く優しく力強いことか。弱者が弱者のままで尊重されるってすごくいい。そのままでいいんだよね。強くなくてもいいんだよね。何だかホッとした。相談してきてくれた子たちに、がんばれって言わなくてもいいんだ。

でも、その子たちを私はこんなに力強く抱きしめてあげることはできていなかった。これからは少し違ったアプローチができるかもしれない。

ただ、自分自身のことを言うと。私はなぜか強く生きなきゃという性分だったりして、世の中を少しでも笑顔の多い場所にできたら嬉しいし、少しでも困っている人を助けられたら幸せだなと思ってしまうので、これからも走り続けてしまうのかなと思う。

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