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余命推定0秒

永遠の生、すなわち不死を手に入れたら、
好きな時に死ねる世界になったら、どうなるのだろうか。

村田沙耶香さんの「殺人出産」の中の「余命」という作品を夕方に読み終えてから5時間ほど、考え続けている。

というのも、わたしは何かと「いつ死ぬのかわからないのに」と考える癖がある。人はいつでも余命推定0秒だと思っている。死期なんていつくるかわからないからだ。
例えば、このままやっていればいつかできる、という確証のない希望を持って、やりたいことができないまま、知りたいことを知れないまま死んでしまうのが心底悔しいのだ。

人は簡単に死ぬ。
それを幼いわたしは嫌というほどにわからされた。それもあってこのような思想が余計に強いのかも知れないが、わたしが人生について考えるとき、わたしはいつも死と隣り合わせでいるし、それが基盤として在るおかげで決断できた経験も少なくないのだ。
一見、死への恐怖に突き動かされているように見えるが、死に頼っているのかもしれない。
いつ来るかわからないその時、終わりを見ることで生きている自分を動かしているのだから。

そんなわたしにとって、死のない世界というのは、ある種救いのない世界だ。
すべての決断の言い訳を死になすりつけられないわけである。困った。
死にたくないのに死がなくなったら困るだなんてなんとも矛盾した自分勝手な人間だが、自分勝手上等である。だっていつ死ぬかわかんないもん。

でも、わたしの「死にたくない」は「まだやりたいことがあるのにそれを残して死にたくない」という意味で、要するに心残りがあるまま逝きたくない、ということである。実体がなくなってしまう恐怖、忘れられる恐怖、死後の世界への恐怖より、悔しさが勝る。図太い。

そうなってくると、満足してしまえばいつでも死んでいいということになる。
でもこれは自分が一人で生きている場合の話だとわたしは思う。

残酷にも、
人は皆一人で生きていながら、一人では生きていけないのだ。

家族や友人、恋人、、、自分にとって大切な人から
「なんかもう結構満足してるし明日あたり死ぬわ、ありがとね」
なんて告げられたら。
死が自由になっている世界なのだ。別に悪いことでもなんでもないはずである。
そしてそもそも、自分の人生なんだから自分の好きにしていい。
それでも多分、止めたい気持ちになって、わたしは涙を流すだろう。

死とは、一人のものではない。
一人で生きている人などいないからである。
本人はもちろんだが、残された側にもそれは色濃く残る。
だから、もしかしたら大切な人からそれを知らされたときの「嫌だ」はその人のことを考えての感情ではないのかもしれない。
「置いていかないで」これが残された側の気持ちの大部分であるとわたしは思う。
自分本位な感情なのかもしれない。

こういうと、なんだか今の世の中で自分の死期を決めることも悪くないと言っているように聞こえるが、それとこれとは全くの別問題である。
今の世の中でのそれは、ほとんどが生きることと死ぬことを天秤にかけた上でマシな方を選択した場合の結果だ。つまり相対的であり、消去法。
大して不死の世界でのそれは、満足したから、という理由以外ない。つまり絶対的である。
まあ、前者のそれを無責任だと思うとは言え、わたしは大して悪いことだとも思っていない節はあるのだが、その話はまた機会があればしようと思う。

あとなんだ、そういう世界になった場合、永遠に働くのかな。
定年退職とかないのかも。そう考えるとちょっと歪にも思える。
200歳と27歳が一緒に働いていると考えると面白いかもしれないけれど、逆にその歳まで働く可能性があるのはだいぶしんどい。

大して何か新しい発見に出会えたわけではないのだが、もしも話を脳内で完結させるのは勿体無い気がしてこうやって書いている。
たまにはまとまりもオチもない話もいいかな。

「殺人出産」。本編も常識や当たり前の倫理観をぶち壊す説得力のある刺激的な作品だった。
興味が湧いたら是非手に取ってみてほしい。


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