見出し画像

短編小説|『とぅあるぽぽ』

 とぅあるぽぽ。
 こんな音が聞こえるようになったのはいつからだっただろう。
 それは水よりも重くなめらかな液体が注がれるような音。

 ある日、その音が聞こえた。
 名前を呼ばれ振り返ると、それは彼から発せられているようだった。

 とぅあるぽぽ。

 心地のいい音が私を包んだ。それと同時になにか苦いような甘い香りがするりと通っていった気がした。

 彼とつきあい始めてから、それは毎日のように聞こえた。
 彼が私と会ったとき。
 彼が私を見つめたとき。
 彼と手をつないだとき。

 とぅあるぽぽ。とぅあるぽぽ。とぅあるぽぽ。

 そうして私たちは大学を卒業すると一緒に暮らすことにした。
 しあわせだった。
 あさ、目が覚めると、彼がそばでぐっすり寝ている。
 私は無防備なその姿に自然と笑みをこぼす。
 一緒に暮らしても、あの音は毎日聞こえていた。

 はじめはきれいな輪郭をもって鳴っていたその音は、次第に鈍く変化し、小さくなっていった。
 そして、しまいには聞こえなくなった。
 ある日、彼から「別れよう」といわれた。
 気がついていた。あの音が聞こえなくなって、きっとそういうことなんだろうと。

 そうして私たちは別れた。

 彼の荷物がなくなって、なんだか部屋までも半分になった気がした。
 それを埋めようと掃除をしてみたり、模様替えをしてみたり、甘いお菓子を作ってみたりしたけれど、まったく効果はなく部屋はやはり半分のままだった。

 ぽっかり空いた穴は何で埋めればいいんだろう。
 道路だったら簡単だ。
 砂と砂利、水にセメントをまぜて固めればいい。
 ぬいぐるみだったら綿を入れて針と糸でちくちく縫えばいい。
 そんなことを考えながら歩いていると、今では珍しくなった自然の土がむき出しの公園を見つけた。
 子どもが遊べるような玩具が何も置いていないから、公園というより野原に近いかもしれない。
 もうしわけ程度にベンチだけがぽつりとあった。
 日暮れまえにひときわ明るくなった夕陽で野原は少し明るく見える。
 誘われるようにベンチに近づくと、なにかに足が取られてすっころんだ。

 穴だ。

 土がえぐられているところにちょうどつま先が引っかかったらしい。
「もうっ」
 社会人になってそれなりの服を着ていたのに土がついてしまった。
 なんだか自棄やけになって、手が汚れるのも構わずあたりの土をかき集めてその穴に押し込む。
 思いのほか土は柔らかく、湿り気を帯びて冷たく心地よかった。

 その感触が、小さかった頃を思い起こさせた。

 土をほり小さな落とし穴をつくって草で覆い隠したり、山をつくってトンネルを掘ったりしていた頃を。

 あの頃は、共働きをしていた両親の代わりに、おばあが私の世話をしてくれていた。おばあは一緒に暮らしていた母方の祖母だ。
 朝起きるとおにぎりが二つお皿に乗り、その隣には黄色いたくあんが添えられていた。
 両親はすでに仕事にでかけ、私とおばあだけの食卓。

 おばあが握ってくれたおにぎりはまだホカホカしていて、塩の加減が絶妙だった。
 私の食べる量に合わせて自分のおにぎりより少し小さめに作ってくれた。
 私のためのおにぎり。
 そしておばあの隣には、私のための小さな座布団が用意されていた。

 学校から帰ってくるとおばあが「おかえり」と言ってくれた。
 抱きつくと、おばあの匂いがした。
 なんとも形容しがたい、誰もが懐かしさを感じる匂い。

 それももう今では嗅ぐことができない。

 私が中学に入ってすぐ、おばあが倒れた。くも膜下出血だったため昏睡状態がつづき、話ができないまま別れを迎えてしまった。

 またおばあの匂いを嗅ぎたい。

 思わず深呼吸をしたけれど、今はただ排気ガスくさい空気と湿った土の匂いがしただけだった。

 急に猛烈な孤独感がおそってきた。

 気がつけば自分の目から流れた雫が、埋めた穴の上に黒い染みをつくっていた。
 彼と別れてから泣いていなかった。
 泣いてしまえば自分が一人であることをよけい感じてしまうから。それでも今は止めることができなかった。
 穴の上に両手をついたまま、行き場のないどうしようもない想いが、静かに自分の中でマグマのような熱となって渦を巻いて圧縮していく。
 このまま爆発してしまうんじゃないかと思った。
 まるで名もない小さな星が人知れず爆発するように。

 その時、ふわりと腕に温かく柔らかいものが触れた。

 目を開けるとそこに黒い猫がいた。
 まったく見ず知らずのその猫は、慰めるように私に体をこすりつける。
 そして、カンロ飴のような深い金色の瞳で私を見ると、みゃあん、と鳴いた。

 その猫は、部屋の明るい照明の下で見ると、黒猫ではなく甲斐犬のように深いこげ茶と黒のまだら模様をしていた。
 コーヒーの色みたい。
 そう思いながら足の先をみるとそこだけ白かった。
 真っ白というよりちょっと温かみのあるミルクみたいな色。
 触るとふにふにして柔らかかった。
 私がそこを触ると、猫はみゃあ、と鳴いた。その反応が可愛くて私は何度も触り、そのたびに猫は律儀に返事をした。

 私はその猫を「みゃあ」と名付けた。
 みゃあは、すぐに私の部屋になじんだ。
 居心地のよさそうな場所にクッションを置くと、鼻をこするように点検し、納得したのかクルリと丸く横になった。
 それからそこがみゃあの場所になった。
 
 近所の動物病院で健康診断をしてもらうと、みゃあは1~2才のオスだった。
 勝手にその鳴き声の可愛さからメスだと思い込んでいたけれど、もう「みゃあ」は「みゃあ」だったのでそのままにした。
 みゃあは日中、日当たりのいい出窓で過ごし、私が外から帰ってくると玄関で出迎えてくれる。
 ただいま、となでると満足したようにさっさとクッションに戻った。
 
 食事をしていると私の隣に座りじっと見つめるが、手は出してこない。向かいに置いてあるテレビを見ている時もある。
 猫ってテレビなんか見るのかな、そう思いながらみゃあの視線を確認すると、画面の動きを追っているようだった。

 お風呂に入っているときは、ドアの前でちょこんと座っている後ろ姿がガラス越しに見える。
 お風呂から出ると半乾きの足にすり寄るものだから自分も少し濡れるらしく、あとで必死に毛づくろいをしている。
 すり寄らなきゃいいのに。
 私が呟くとチラリと視線をよこし、また毛づくろいに戻るのだった。

 彼が出て行ってから半分になっていた部屋は、いつの間にかちゃんとした円のように一つの部屋になっていた。

 ある日、いつものように「みゃあ、ごはんだよ」と呼ぶと、あの音が聞こえた。

 とぅあるぽぽ。

 振り返ると、みゃあが飴色の瞳をこちらに向けてちょっと首をかしげるように私を見上げていた。
 私は嬉しくなってみゃあを抱き上げ
「みゃあ?」
 と話しかける。

 とぅあるぽぽ。とぅあるぽぽ。

 ふふ。と声にならない笑いを鳴らしながら、私はみゃあを抱きしめてクルクルと部屋の中を踊った。

 会社帰りにペットショップへ立ち寄り、今日はミルクも買ってみる。
 喜ぶかな。そう考えながらお店を出ると、彼にばったり会った。

 ふたりで近くのカフェに入ると、チェーン店で有名なそこはどこに行っても似た雰囲気を漂わせ、安心感と気軽さがあった。
 私たちはかつてと同じ飲み物を注文し席につくと、どちらからともなく近況を訊ねたりしながら、お互いもう戻ることのない関係を肌で感じとっていた。
 今なら訊けるかも。と、あの時はっきり訊かなかったことを口にしてみる。
「あのときさ。何で別れようって言ったの?」
 彼は少し驚いた顔をした。
「何でって。もう俺を愛してなかっただろ?」
 今度は私が驚いた顔をしていたと思う。

 カフェを出て、彼と別れたあとも私は考えていた。
 彼を愛してなかった?
 私が? 彼が私を、じゃなくて?
 私は記憶を辿ってみる。
 そういえばあの音が聞こえなくなる前。
 彼のLINEに知らない女の子からのメッセージがあった。
 彼は単なる友達だと言っていたけれど、芽生えてしまった疑惑は私の中で根を張っていっていた。
 彼が別れた理由をああ言ったということは、あの女の子は本当にただの友達だったのだろうか?

 じゃあ、あの音が聞こえなくなったのは?

 家に帰るといつものようにみゃあが玄関で待っていた。
 そして可愛い声で、みゃあん、と鳴く。
 私を迎えてくれるその声に愛しさを感じながらなでると、あの音が聞こえた。

 とぅあるぽぽ。

 これは、私の音?

 みゃあはどうしたの? というように見上げると体をしなやかに私の足に絡ませた。
 そのまましばらくみゃあのコーヒー色の体をなでていると、みゃあはするりと離れ、バッグに潜り込んだ。
「ミルク飲む?」
 私は買ってきたばかりのミルクを取り出すと、皿に注いだ。
 みゃあは美味しそうにミルクをなめる。

 中学に上がるころ、私はおばあに朝食をパンとコーヒーにしてほしいと頼んだ。たぶんちょっと大人な気分に浸りたかったんだろう。
 用意してくれたコーヒーを飲んでしかめた私の顔をみて、おばあはそっとミルクを注いでくれた。
 とぅあるぽぽ、と音を立てながら。
「これなら苦くないだろ? これから先、つらいことがあっても、ちょっとしたことで飲めるようになるんだよ」
 そう言ったおばあは、あのとき自分の寿命がわずかだと感じていたのだろうか。
 苦いコーヒーは、おばあの手でまろやかに美味しいものへと変わっていた。

 おばあの注いでくれたミルク。

 あの頃、両親がいなくても淋しくなかった。
 おばあがたくさん注いでくれたから。

 みゃあの体をなでると、手のひらに小さな生き物の体温を感じた。
 いつの間にか私も注ぐ側になれていたんだろうか。

 みゃあはミルクを飲み終えると私の膝の上に乗ってきた。
 抱き上げると、みゃあの体に耳をあてた。

 小さな鼓動が聞こえてくる。

「みゃあ」

 私は愛しいその存在の名前を呼ぶ。

 あの音を鳴らしながら。

 いつまでも。

(了)




最後まで読んで下さりありがとうございました✨

この作品は、2021年第18回坊っちゃん文学賞に応募した作品です。
(noteに投稿するにあたり、どうしても不要だと思った二文を削除し、語尾を推敲し直しました)


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?