楽しくて嬉しくて疲れて寂しい
昨日は高校時代の友人たちと横浜に集合。
予約してくれたタイ料理店のテラス席で、ぱらつく雨と強風にあおられながら4時間おしゃべりした。
満員のテラス席はどんどん人がいなくなった。だから4時間も居座るオバサンたちを放っておいてくれたのだろう。
強風で看板が倒れる。
メニュー表が飛んでいく。
パクチーが舞う。
そんなことも笑えて楽しい、久しぶりに会う友人たち。とはいえ2年ぶりくらいか。
なかなか都合が合わなくなった。
皆それぞれ面倒が増えていくし、体力は落ちていく年齢だ。
近況報告を聞くだけで小さな事件だし、意見の交換をすればまったく噛み合わない。
高校が同じだったというだけで、道は交わることなく、共感しあうこともなく、ここまできた。
依存のない自立した関係、といえば聞こえがいいが、単に冷めてるんじゃないのか。
高校時代の友人たちは優秀だ。きちんとした家庭に育っている。きちんとした道に進んだ。
やることをやる。すべきことをする。
ひとに流されない。感情に流されない。
高校生のときからそうだった。
そしてそんな級友たちに、私は馴染めないまま(どうにかこうにか)卒業した。
卒業してからも付き合えているのは、その【依存のない自立した関係】だからなのだろう。
結婚や子供の有無、経済格差、環境や状況を【自分は自分】と切り分けられるから、気まずくなることもないのだ。
ありがたく、素晴らしく、尊敬できる仲間だ。
4時間は楽しくて嬉しくて、タイ料理もビールもおいしかった。
…なのに家に着いたらグッタリで、
朝起きてもグッタリで、二度寝をしてますますグッタリだ。
横浜の人混みに疲れたのか。しゃべり疲れたのか。強風にさらされすぎたのか。
心の底にある【ちょっと寂しい】きもちに気が付く。
私は彼女たちのように自立した精神を持っていない。
自分がそうなのだろう。少しダメな人間や、クセのある人間に興味をもつ。
ムダなこと、ムダな時間に意味を見出だすタイプだ。
たとえば一緒に部活をサボるとか。
たとえば泣き止むまで付き合うとか。
たとえば一緒に海を見ながら2時間沈黙とか。
そんな記憶が、高校時代にはない。
みんな大人だった。割りきれていた。合理的だった。現実的だった。
そこに私は、寂しさを感じていたのだと思う。
だから、テキパキとこなすだけの仕事や、割りきりすぎた職場の関係が苦手なのだと思う。
だから、面倒くさいと思いながらも、面倒くさい仕事に足を突っ込んでしまうし、面倒くさい人間関係を切れずにいたりもするのだと思う。
私は
さみしがり屋さんなんだな。
構ってちゃんなんだな。
構いたいんだな。
ずいぶん、面倒くさいんだな。
きもちわるい、オバサンだな。
オエーーーッ!!(吐)
半世紀生きてやっと自覚した。
ああ、寂しい。
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