テレビにできること、やってはいけないこと

YouTube等のネットメディアが発達し、オールドメディアといわれ始めたテレビは、過酷な競争を強いられていると思う。視聴者に見てもらおうと、気を引く話題が増えていく。
しかし、気を引くことは本来のテレビの役割ではない。

テレビには、ネットメディアにはない、公的放映権がある。だれもが自由に発信できるわけではない。だからこそ視聴者は、それなりの権威あるものとして情報を得る。そこで、偏向報道があってはたまらない。

しかし、テレビが視聴者の気をひこうとすれば、多少の偏向報道が起こりうる可能性は高くなる。テレビはなんのために、誰のためにあるのか。

1998年にカナダで行われた研究で、テレビが家庭に設置されたことによって、より住民の心が隣人に対して開放的になったという結果が出ている。サピエンス全史の著者ハラリが人間は噂話をもとに社会的繋がりを作ってきたというように、テレビはある意味その繋がりを拡大してきた(芸能人の不倫が報道される理由がこれにあたるだろう)。つまり、そもそもテレビは私たちが友達と話すのと同じ役割を担ってきたわけだ。

だが、噂話には「悪役」のいるものといないものがある。不倫した人が責められるものと、オススメのレストランが流れるやつだ。ここでは悪役のいる放送に関して少し話を進めたい。

私たちはテレビなどを見て、何が悪役かを何となく知る。世間の目を知る。そうすると現実でも悪口を言う標的はそれに適った人になる。けれど、本来悪役として生まれてくる人などいない。もちろん犯罪は悪だが、行為が悪なのであって、犯罪者は全員死ねばいいというわけではない。

メディアに作られた悪の像を信じ、自分はそうではないからと他人を責めるのは簡単である。そしてそれは排他的である。ではメディアは悪を作ってはいけないのか。

いろいろ意見があると思うが、私はそう思う。権威あるテレビであるがゆえに、特定のグループ、人、属性などを責めることはあってはならないと思う。特定の行為を悪とすることは構わない。だが、社会的繋がりを強めるための技術なのであれば、それをエンパワーできる、つまり多様な人々を認めることのできるメディアであってほしいと私は思う。不倫はダメかもしれない、でもその後、何でそうなったのか、どう克服しようとしてるのか。

逆に言えば、行為としての悪を伝えるのはメディアの役割だ。けれど、人そのものや属性を責めてはいけない。その境界を、現在のテレビに
持ってほしいと切に願う。