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「あなたは恵まれてる」という言葉の呪縛/日常の幸せを感じ取れることは、豊かさでありスキル。無理に感じなくてもいい

一例。

「ご飯を食べられない子もたくさんいるんだから、ちゃんと全部食べようね」

「家がない子供たちもいるんだから、感謝しようね」

この言葉、よくききますよね

間違っていません。その通りです

しかし、

①幸せ、ありがたみを感じられるのは、豊かさであり、スキルであり、真の意味で世界を感じられたときに起こるもの。

つまり、思えなくてもそれはその人が「悪い」わけではないということ。

正直、本当の部分ではしあわせを感じられていないけれど、教育的に使っている人が多いのではないでしょうか

私は小学校のときによく感じていました

道徳の時間に、
ひとつのこたえに導こうとする先生

「いいこと」を感じさせる、
「とりあえず授業をこなす」、
「悪い」発想は封印させる、、

そんなやり方では、
みんなが心の底から感じたことを言えなくなって、根本的なところでお互いに対する真の理解を促せなくない?、と。🥐

「ありがたいな」「これを幸せと言うんだな」

そんなふうに心から思えるタイミングというのは各々によって違います

色々ないろんな経験をして、ようやくわかった些細なことのありがたさ。

そんな風にして多くのひとは、
小さな小さなことを、
幸せと気づいていくのではないでしょうか

それを強要するのは、
むしろ反発を促す行為なのではないか…と思うのです

そして、その「しあわせ」を実感させるために、

②他人と比較する

考え方もいかがなものでしょう

「○○ちゃんにはお父さんがいないんだよ。働いてくれるお父さんがいることに感謝しようね」

…意地が悪いわけではないと思います
おおくは純粋な感謝なのだと思います

けれど、この考え方は「そんな相手はしあわせじゃない」ことが前提になっています

貧しい子供たち、
職を失った大人、
恋人との関係が上手くいかない人、、

「不遇」な人たちと自分たちをあえて比較して、
「しあわせだ」と実感することは、
そのひとたちのその状況が「ふしあわせだ」と言っているわけですね

とんでもない勘違い、
エゴだなぁとたまに思います💭

その方たちにも幸せはあって
もちろん、感じにくい場面はあると思いますが
それは私たちも同じですね

分かりやすい「不幸」と、
外から見て分からない「不幸」もあります

そして、その「不幸」も、時が経てばその人にとっての「宝」になるかもしれない

人の不幸せを人が判断するものではないですね


*

どんなものであれ、
あなたの感覚を、信じてください✨️

それは、今のあなたの場所を教えてくれる的確なコンパスですから🧭‎💐

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