それは振り子で、鉄で、実体がなくて
寝る時以外はずっと何かを考えている。生まれてからずっとそうだったのか、それとも何かの拍子にいつからかこうなってしまったのか、今ではもう思い出せない。ただ、ずっと考えている。考えているから、身構えるから、割と恥の少ない人生を歩んできたと思う。死にかけることもあまりなかったと思う。考えすぎる先に、自分なりの思想や哲学が生まれればそれでいいのだが、私の思考はあまりに軟弱で、振り子のように揺れ動く。
私はこう思います。これが私の中の正義です。そう胸を張って主張できたならば、もっと多くの物事を自分で取捨選択し、もっと多くの世界を見れたかもしれない。
私はこう思います。そっか君はそう思うんだね。確かにそれも一理あるな、というかそっちの方がなんだか正しい気がする。
私はこう思います。みんなはどう思うんだろう。聞いてみよう。検索してみよう。この意見よりあの意見の方が圧倒的に多数だな。あっちが正しいんだ。
私は、私は、
私はみんなが正しいと思うことが正しいと思います。
軸という言葉を聞くたびに、小学校の校庭にあった登り棒を思い出す。真っ直ぐに聳え立つ鉄の棒。あれにしがみついて一番上まで登れる子を羨ましく思っていた。手は痛くなるし、高いところは怖いし、私は結局挑戦せずに卒業した。
鉄の棒。そこに確かに存在し、十分に扱うためには扱おうという努力が必要で。その努力には痛さや恐怖を乗り越えることが必要で。
意識。存在するが実体はなく、十分に扱うためには扱おうという努力が必要で。その努力には、実体のない痛さや恐怖を乗り越えることが必要で。
あの時登り棒を登っていたら何か変わっていただろうか。上からの景色はどのように見えたのだろうか。今はもう、その校庭に登り棒はない。卒業してすぐの頃に取り壊されてしまった。見える景色に興味があるのなら、心の中に鉄の棒を建ててあげる他ないのではないだろうか。
私はそう思います。