長い正月2025
明けましておめでとう御座います。
今年もどうぞよろしくお願いします。
さてさて、昨年のお正月に上演された「長い正月」が再配信されております。
🎍再配信チケットはこちらから🎍
生まれた時から祖父が亡くなるまで、
お正月は佐賀の母の実家で過ごしてきました。
お年玉がお兄ちゃんよりも少ないと泣き喚き、
おじさんが毎年おもちゃの福袋を買ってくれるんだけど、毎回欲しいものは入ってなかったり、
みんながお正月で囲めるテーブルをいとこ達と歌いながらぐるぐる回ったり、
お正月の片付けをおじいちゃんに「お前は女なんだから手伝え」と言われて頑なに手伝おうとしなかったり、
佐賀のおじいちゃんが亡くなって、
札幌のお家でお正月を過ごすようになってからは、
兄が荒れたり、弟が荒れたり、わたしが鬱だったり。
兄が結婚して、甥っ子と姪っ子が生まれて、
おじいちゃんちで過ごしていたような賑やかなお正月が帰ってきたと思っていたら、
父の不倫が発覚して、
とんでもない雰囲気でお正月を迎えたり、
いろんなことがあったけど、
とにかくお正月は家族で過ごすものだったし、
家族のものだと思っていました。
だから昨年、公演のためにお正月を人生で初めて1人で過ごすことになって、
どこかで「お正月は家族と過ごさなければならない」って思ってたのかもしれないなと気づいたのでした。
今年は公演があったわけでもないし、
仕事の休みを取ろうと思えば取れたのだけれど、
なんとなく、昨年と同じように1人で過ごしてみようかなと思いこれを書いています。
昨年弟が結婚し、それはとてもとても喜ばしいことなのだけど、同時に、ああ、わたしの家族はもういないんだな、と思ってしまったのです。
もちろん両親は健在だし家族なんだけど、
みんなそれぞれ新しい家族を作り、
そこで新たなお正月を過ごしていく。
それが自然の摂理で当たり前なことなのに、
わたし1人がずっと時間の流れが止まったまま立ちすくんでいるようなそんな感覚になってしまったのです。
数年前に、ああやっとわたしも幸せになれると掴んだ小さな種が、
あっという間に砂になって、さらさらと、
わたしの手のひらからこぼれ落ちていき、
それをなんとか拾い上げてなくてはと必死になっていたけれど、
もうそれはすでに終わってしまったことなのだ、と気付いて離れた昨年1年間はとても辛いものでした。
だからこそ1人時間が止まったまま、
新しい家族に紛れて新しいお正月を迎えることがわたしには出来なかったんだと思うのです。
お昼に近所の小さな神社に初詣に行ったら、
たくさんの人たちが参拝するために並んでいました。
小さな子供たちは境内を走り回り、
腰の曲がったおばあちゃんは、柱や塀に捕まりながらゆっくり列を進んでいる。
列の途中には犬を連れた夫婦がいて、その犬を可愛いですね、女の子ですか?と声をかける男性2人組は、もしかしたらカップルだったのかもしれません。
生命のありとあらゆる連なりがそこにはあって、
見上げると、神社と、その神社を訪れる人たちを100年以上見守ってきたであろう大きな樹木が、ニコニコ笑っているような気がしました。
「長い正月」は1つの家族の100年の歴史を描いています。その視点は、わたしが今日感じた、樹木の目線と似ているのかもしれません。
悲しみも苦しみも、ずっとそこにはとどまらない。
過ぎ去っていく時間の中でそれらは優しく光に還っていく。
だから握りしめたりしないで、
そのまま時間の流れるままにゆだねて生きていけばいいのだと思うのです。
「長い正月」はとても優しいお話です。
なにもドラマチックなことは起きないけれど、生命のきらめきが確かにあるんだと感じさせてくれる物語です。
どうか、どうか観ていただきたい。
まだ間に合います。
そしてこの生命のきらめきが理不尽に失われることがないように、祈りながら今年も大切に過ごしていきたいと思います。