トライアングル8
第七章 その先にあるもの 1 <side カオル>
四月になり、僕たちは高校二年生になった。
新学期をはさんでトモは十七歳になり、僕は十六歳になったけれど、トモが言うところの「誕生会」は前倒しで母さんがやってくれたので、自分たちでは特に何もしなかった。普段はできるだけ家で食事を作っているけれど、お互いの誕生日に、奢り合って外食したくらいだ。
「来年はケーキ買うかなあ」と僕が言うと「ケーキはお前が買いに行けよ」とトモは言った。
「トモってさあ、よっぽどケーキ買いに行くの嫌なんだよな」
本当は好きなくせに、と僕が言うと、トモは少しふくれてそっぽを向いた。
トモとの二人暮らしが始まって、もう三ヶ月がたつ。最初の頃にいろんなことがあって、長かったようにも短かったようにも思うけれど、僕はニアミスにひやひやしながらもなんとか自分の気持ちを抑え、苦しくはあったけれど、その苦しさにも慣れつつあるような気がしていた。
学校では僕たちのクラスは離れていたけれど、選択教科でトモと夏原が同じになり、二人はよく話すようになったらしい。
「お前んとこのトモユキ、感じ変わったよな」
……お前んとこのトモユキ。夏原の表現がくすぐったい。
「変わった?」
「うん。なんつーか、前はもっと怖い感じだった。ちょっと柔らかくなったっていうか?」
確かにそれはあるかもしれない。僕に対して自分の弱さをさらけ出したトモは、少し心が軽くなったのかもしれなかった。以前よりも僕の前で無防備な顔を見せることが多くなって、あれから、あの時のように崩れ落ちるようなことはなかったけれど、強がりのマスクは少しずつはがれるようになっている気がする。
そして、そんなふうに柔らかくなったトモを周りの女の子たちが放っておくはずがない。以前よりも、トモの前とは違う笑った顔を見たくて一生懸命な女の子たちが増えた。
でも、本当の意味でトモの表情が変わったことに驚いているのは、たぶん坂崎ハルナだろう。ちょっと、彼女と話してみたい気もしたけれど、そんなことは調子が良すぎるだろうと思ってやめた。彼女が今も僕のことを好き……というのは考えられないし、どうあっても僕は彼女に応えることはできないし。
僕は、他の女の子たちのように思いが通じる可能性は皆無といってよかったけれど、それでもある意味、僕はトモのいろんな表情を独り占めできる。僕にしか見せない顔もあることを知っている。結局、自分の中に沸き起こる、あれやこれやを押さえ込むという爆弾を抱えてはいたけれど、取り合えず僕は、僕に許されたその場所を誰にも渡さないよう守るしかなかった。
そして、そんな毎日の中で、僕はトモの抱くコンプレックスに気付くようにもなった。無防備な時のトモは、時折、自虐的な言葉をぽろぽろと零すようになったのだ。それが、慰めてほしくて、あるいは「そんなことないよ」「トモは何も悪くないよ」と言ってほしいのがわかるので、僕は、そんなトモを甘えさせてやる。あの時のように、抱きしめることはできないけれど。
トモは、産みの親の関係が実の兄妹であることに、嫌悪感を抱いていた。いくら、本当の親は今の両親だと思っていても、どうしても割り切れないところがあるようだった。そしてそれは、ふとした言葉のはしばしにも現れる。「きょうだい」という言葉に敏感なのだ。例えばテレビで仲のよさそうな兄妹が出てきても嫌そうな顔をする。「気持ち悪い」と言う。
僕が気付かなかっただけで、今までもトモはそうだったのかもしれない。だから僕を弟とは思わないと言ったのかもしれない。たまたま僕は同性であったけれど、血の繋がりというものに不信感が拭えないんだろう。きょうだい間で愛し合ってはならないという倫理観は、僕の中に常識として存在している。余りにも常識すぎて、そのことをまともに考えたことすらない。むしろ、もう一つの常識が気になった。
男が男を好きになるということ。僕がトモを好きだということ。受け入れてもらえるとは思っていないけれど「気持ち悪い」と言われたら、かなり辛い。
そんな日々を過ごしていた、ある日のこと。
「あれ?」
僕はふと視線を感じて振り返った。
「どした?」
夏原と一緒に、駅前のファミレスで英語の宿題をしていた時だった。
「ん、今、誰かに見られてたような気がして……この頃、よく視線感じるんだよな」
夏原は黙って、じーっと僕の顔を見る、おいおい突っ込んでくれよ、と思いつつ僕は言った。
「いやいや、自意識過剰?」
「いやあ、案外そうでもないかもよ?」
夏原は何かを含んだような言い方をした。
「何?」
「うーん、ちょっとした噂を聞いてんだけど、はっきりしてないからお前には言ってなかった」
「だから何? 話が見えないし」
「星心女学院てあるじゃん? 究極のお嬢様学校。そこの女の子がお前のこと聞いて回ってたんだってさ」
「何それ。トモの間違いじゃないの?」
「いや、確かにお前。この前、星心女子の制服着た子が一人でうちのガッコの門の前で立ってて、"二年の岸本くんの名前を教えてください"って言ったんだって。通りすがりのヤツにだぜ? いやあ、お嬢様って時に大胆だよねー」
「だからそれ、トモのことなんじゃないの?」
「まあ、謙遜するなって」
夏原は面白そうに言った。
「聞かれたそいつもトモのことだと思ってさ、トモユキの名前を言ったら、その人じゃない、もう一人いるでしょうって言ったんだってさ」
「へえ……」
自分の知らない所でそんなことがあったなんて変な感じだった。
「でも、聞かれたヤツはトモの名前は知ってたけど、お前の名前は知らなかった」
夏原はにやりと笑う。
「どうせ」
「まあ、トモユキは有名人だし気にすんな。で、その聞かれたヤツが"二年のもう一人の岸本"の名前を調べに走ったという……」
「わざわざ?」
「まあ、可愛いコだったんじゃないの? 聞かれたヤツは男だったから」
「ふうん……」
思ったより僕の食いつきが悪いので、夏原は少々面白くないようだった。
「なに、その気のない反応は。星心女子の子がお前のこと好きかもしれないのに」
悪い気はしないけれど、僕にとっては別にどうでもいいことだった。知らない女の子に好かれたって……一番欲しいものは手に入らないのだから。
「カオルさあ……」
夏原は一転して、真面目な顔で言った。
「好きな子いるの? だから他に目が向かないとか? 坂崎とも結局付き合わなかったし」
坂崎さんの名前を聞くと、今でもやっぱり胸がざわつくが、務めて何も気にしない様子を装う。
「いないよ。ただ、どうもそんな気になれないだけ」
「近くにトモみたいなヤツがいると、反動でそうなんのかね? もったいないよ。取り合えず付き合ってみればいいのに」
夏原はため息まじりに言った。
そういえば、トモにも以前同じようなことを言われた。「好きな子がいる」と言えば、誰なんだという話になるだろう。夏原はいいヤツだけれど、実は男が好きだなんてさすがに言えなかったし、適当にごまかせるほど自分の中で消化もできていない。結局、この思いに出口はないんだと思い知らされるばかり。
夏原がバイトの時間だと言って先に帰ってからも、そんなことをぐるぐると考えてしまい(悪いクセだ)帰る気になれなくて、そのまま窓の外をぼうっと見ながら座っていた。氷が溶けて薄くなったドリンクを飲みながら、行き交う人たちを眺め、考える。
こんなにたくさんの人が街にあふれているのに、その中でたった一人を好きになるって、どういうことなんだろうな。特別な人とそうじゃない人との区別ってどこでつけるんだろう……僕は、一番簡単なはずの、性別というボーダーラインさえ曖昧なのに。この人たちにもそれぞれ好きな人がいるんだろうけど、ペアになってる人とそうじゃない人の違いは何なんだろうな。やっぱ、運命ってやつか?「
「あの……すみません」
不意に声をかけられて、僕の思考は打ち切られた。聞きなれない女の子の声に振り返ると、僕は一瞬固まって、動けなくなってしまった。
すごく、驚いた……
そこに立っていたのは、赤いリボンの制服を着た、髪の長い女の子だった。前髪の下の瞳をちょっと潤ませて、緊張した声で、そして僕がとてもよく知っている面差しで、彼女は口を開いた。
「突然でごめんなさい。第一高校の岸本カオルくん……ですよね」
無言でうなずくと(本当は、びっくりしすぎて声が出なかったのだ)彼女はちょっと笑顔になった。
「私、星心女学院二年の朝比奈桜子……って言います」
向き合う僕と彼女。
何かが始まろうとしていた。
さっきまで夏原が座っていた向かいの席に、彼女は静かに座った。
アサヒナサクラコ……
もちろん僕はその名前を聞くのは初めてで、彼女に会うのも初めてなのに、説明によれば、彼女は僕の事を探していたのだと言う……さっき夏原に聞いたばかりの、突拍子もない話だった。
「去年、うちの学園祭に来てたでしょう?」
細いけれど、良く通る凛とした声で彼女は言った。
「あ? そういえば……」
行ったかも……と僕は曖昧な記憶をたどった。
「確か、学校の帰りに……」
接点はどうやらそこらしい。あの学校の学園祭は十二月だ。クリスチャン系の学校だけあって、クリスマスの頃に学園祭がある。ちょうどその日は二学期の終業式で、夏原に引っ張られて行ったんだっけ。
「で、その時にどこかでお会いした……のかな?」
相手に漂う上品なオーラに、僕は思わず妙な敬語を使う。
「私、実行委員だったから」
だからなんなんだろう……彼女は多くを語ろうとせず、会話が途切れてしまった。
どう考えてもしっくりと来ない話だ。全然知らなかった相手に突然「あなたを探していました」と言われてもよくわからない。でも僕は、降って沸いた非現実的な出来事よりも、彼女の顔の方が気になっていた。僕をどこで見たとか、突然会いに来たとか、それよりも目の前にいる彼女の顔の方が……。
「あれから、どうしてもあなたに会いたかったから……いろいろ聞いたり調べたりして、それで、この駅を使ってることがわかって……」
少しの気詰まりな沈黙ののち、彼女は再び口を開いた。
「はあ……」
僕はなんと言っていいかわからず、間の抜けた返答をする。
「本当に、驚かせたと思います……ごめんなさい」
「あの、いや、そんな謝らなくてもいいよ。っていうか、なんで僕に会いたいって思ったの?」
我ながら、空気の読めないセンスのない問いだったと思う。トモならば、女の子にそんなこと言わせるなんて……って呆れるところだろう。
そんな僕の不躾な問いに、彼女は俯いていた瞳を上げ、まっすぐに僕を見た。僕の胸が不用意に跳ね上がる。この顔、こうやって僕を真っ直ぐに見るところ……「ただ、とにかくあなたに近づきたいって思ったの……こういう事に理由なんてないと思う」
「……ごめん」
彼女の真っ直ぐさに気圧されて、今度は僕が謝ってしまった。謝るのが適当だったかどうかもわからないけど、僕は彼女の表情に落ち着かなくて、かなり動揺していたのだった。
(似てる……)
僕は目のやり場に困って視線を逸らした。彼女がまだ僕を真っ直ぐに見ていたからだ。とにかく、目の前のこの状況を整理せねばならなかった。
このコは……トモに似てる。そっくりと言うわけではないけれど、全体的な顔の雰囲気とか、ちょっとした表情とか。
……しっかりしろ、カオル。
目の前に、好きなヤツによく似た女の子が現れて、僕にずっと会いたくて探していたのだと言う。この状況はなんだ? こんなことって偶然にしてもアリなのか? 誰かが、僕をからかってハメてるんじゃないだろうか?
思考をぐるぐるさせて僕が黙ったままなので、彼女は心なしか肩を落として目の前の紅茶をじっと見ている。テーブルのふちに触れた手が、少し震えているように見える。
勇気が、いったよな。
僕はここで初めて、彼女の状況を思いやるに至った。
「あの……」
何か言わなくちゃと声をかけると、彼女はなんとも言えない目で僕を見た。沈黙が破られたことへの安堵と、僕がなん言うのかを危ぶんだような頼りない表情。
うわ……トモが困った解き、不安な解きによく見せる表情と同じだ。
僕は、何かに引っ張られ始めていた。おそらくそれは、彼女へと引き寄せられる引力のように、じわじわとーー。
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