トライアングル13
第八章 秘密 3<side カオル>
「カオル、いるの?」
トモの声がして、同時にリビングが明るくなった。帰ってきたトモが電気をつけたのだが、急に目に飛び込んできた照明の明るさが痛くて、僕は目をぎゅっと閉じて、そして返事をした。
「いるよ」
「何だよ、電気もつけないで……」
トモは買い物袋を二つ、テーブルの上に置いた。
「メシ買ってきた。今日遅くなったから」
トモの言い訳を聞きながら、今日がトモの食事当番だったこと、そして坂崎と並んで歩いて行ったトモの後ろ姿を思い返した。その残像はさっきからずっと目の前をちらちらし、追い出そうと思っても、振り払っても、またすぐに目を覆う。
キスしたその足で買ってきたメシかよーー
そんなことを考えれば自分が惨めになるのはわかっていたけれど、行き場のないやりきれなさは内にこもって熟成し、怒りへとかたちを変えようとしていた。それでも僕はおとなしく、用意された夕飯を食べた。
僕が何もしゃべらないので、トモも何も話さなかった。というより、僕が怒っているのがわかるので、トモも何も言わなかったのだと思う。そんなわけで、ここ最近の緊張状態はマックスに達した。もはや意地だった。相手より先に口を開いてなるものか。僕たちは黙って夕飯を食べ、黙ってあと片付けをした。
そうして、先に無言状態に耐えられなくなったのは、トモの方だった。
「いい加減にしろ。言いたいことがあるなら、はっきりそう言え」
ソファーに座った僕の前に立ちはだかって、トモは言った。
「もう、こんなの毎日、ガマンできない」
「お前がこそこそ、坂崎と付き合うからだろ」
僕だってこそこそしていたに違いないけれど、そんなコトはこの際、どうでもよかった。
「何度も言おうとしたよ……坂崎だから、お前には言わなきゃって思ってた。でも、俺を避けてたのは、元はといえばカオルだろ」
トモの責任転嫁を無視して、僕は答えた。
「お前の元カノがわざわざ教えてくれた」
「元カノ?」
トモは眉間に皺を寄せた。そんな、ますます気分を苛立たせるような表情にさえ、僕はかんたんに捕まってしまう。だが、そんなトモを見て、身体が甘く疼きながら反応しようとするのを、僕は他人事のように感じていた。この時はまだ、欲情より苛立ちの方が勝っていたからだ。そして、「元カノ」というのが誰を指すのか、トモは瞬時にわからない。僕は、高木容子が可哀想でたまらなくなった。
「高木容子」
僕が告げると、ああ、とトモは小さく言って、今度は反旗をひるがえした。
「話をまぜっ返すなよ。何で怒ってるっていうか、何で俺が避けられなきゃならないんだよ」
僕の気持ちを散々乱しといて、その上また、何で避けるんだと言う。僕の好きな、子どもみたいなまっすぐな目で訴える。多分、玲子母さんの他は僕しか知らない、まっすぐな目で。
「お前が、またあんな所でキスなんかしてたから」
取り合えず、火種を一つ提示した。トモは、申し開きすることなんてあるのか「あれは……」と小さく口ごもった。
「前にも確か言ったよな」
あくまでも飄々と言い逃れをする僕に、トモは口をつぐみ、一瞬の間が訪れた。
スイッチの入る音がした。
スイッチの入ったトモの目は、冷たく、相手を嘲るような暗い光をたたえ、それでもやっぱり綺麗だった。
「カオルだって俺に隠れて、女の子とつき合ってた」
立っていたトモは、ソファの僕の隣に座った。視線が並ぶ。静かに、静かに怒っているのがわかる。
「そんなこと、いちいち報告し合わないだろ? お前だって言わなかった。お互いだろ」
「違う」
「何が」
「カオルは、俺に言えない何かがあったんだ。俺は違う。俺はお前に避けられてたから」
「そんなのないよ」
僕が言えなかったのは、確かに桜子がトモに似てたからだ。だから、ここまで来ても、そのことを明かすわけにはいかなかった。
「何を、どこまで知ってる? 何を知ってて俺に黙ってた?」
「ーー?」
トモがわけのわからないことを言った。何を言ってるのかわからない。だが、彼の中ではちゃんと意味が繋がった問いなのだろう。トモは僕にじりじりと詰め寄ってきた。
「何言ってんのかわからない」
僕は正直に言い、近くなったトモの顔から逃れるように顔を背けた。トモの顔を正視できない何かが、ひっそりと僕に忍び寄り始めていた。
「桜子」
トモは短く言った。
「夏原に聞いた。苗字は? 苗字は何て?」
「何で、そんな風に問い詰められなきゃいけないわけ?」
トモの様子が何だか変だった。ちょっとおかしいと思いながらも、僕は理不尽な詰問に抵抗した。
「朝比奈」
僕の言い分を無視してトモは言った。
「朝比奈桜子って言うんじゃないのか?」
「だったら何?」
投げやりに答えると、トモは俺の肩をいきなり掴んだ。
「ダメだよ……」
「……トモ?」
「もしそれが、俺の知ってる朝比奈桜子だったら、別れるって約束して」
いつの間にか、その目から冷たい光が消えて、ただそこには必死な形相が現れていた。
「なあ、カオル頼むよ、別れるって言ってよ!」
トモは掴んだ僕の肩を揺さぶった。。
「落ち着けよ。何言ってるんだかわからないって!」
僕はトモの手をふりほどく。ふりほどかれた手は、だらんと力が抜けて所在を失った。
「訳はちゃんと話す。ダメなんだ、俺、どうしても受け入れられない……」
トモの声のトーンが落ちたので、僕は子どもをなだめるみたいに語りかけた。「だから、ちゃんと話して? な、僕もちゃんと言うから……」
トモは素直に頷いた。
「そうだよ。名前は、朝比奈桜子。星心女学院の二年生。何か……知ってる子なのか?」
この時、トモの旧姓を僕がちゃんと覚えていたなら、と今でも思う。だったら、僕はもっとトモのことを考えて桜子の名前を告げることができたかもしれないし、そうしたらトモはこんなに取り乱さずに済んで、そしたら僕もまた、我を忘れることもなかったかもしれない。トモと玲子母さんを紹介された時、僕はまだほんの子どもだった。だからその名前は、記憶の隅に遠く追いやられてしまっていたのだ。
……あとで考えると、不思議な気がする。僕がトモにあんな風にしなければ、僕はその後、桜子に会いに行くこともなくて、桜子とそういう関係になることもなかったのかもしれないと考えるとーー
人生は「もしも」の連続だと、たった十六歳の僕も、思わずにはいられない。
僕が桜子の名を告げると、トモはまた、悲壮な表情で僕に詰め寄った。
「ダメだよ。絶対にダメだから」
何かにとり憑かれたような、切羽つまった目で、再びトモは僕の肩を掴んで揺さぶった。実際、何かにとり憑かれていたんだろう……いつもトモを不安にさせる、おそらくは過去にかかわるトラウマ。こんな時、どうしてやればいいか、よくわかっている。優しく肩を抱いて、背中をさすって、大丈夫だと言ってあげればいい。そう、優しく肩を抱いて……さっきの駄々っ子をあやすみたいに、小さい子を安心させるみたいに。
でも、この時の僕は、そんなふうに優しくなんかできなかった。目の前で縋りつこうとする好きな相手を前に、かあっと熱い何かがこみ上げてきて、さっき冷静に見送った甘い疼きが熱に変わって、僕をあざ笑うかのように、身体を支配した。
身体だけじゃない、心も熱くなって、僕はそのうねりに堕ちた。今度は僕のスイッチが入った……
「カオル……?」
僕の身体の下で、トモが困惑の声を上げている。僕は、ソファとトモの背中に挟まれた腕を伸ばして、ぎゅっとトモの頭を抱え込んで抱きしめた。柔らかい髪が鼻先を掠め、たまらなくなってその髪の生え際に、何度も唇を押し当てた。
トモは抵抗しなかった。驚きすぎて動けなかったのだと思う。でも、この時の僕は、そんなことを考える余裕もなかった。密着していたから、反応していた僕の身体にも、トモは気付いていたはずだ。だが、彼は時々戸惑ったような声で、切なげに僕の名前を呼び、その声はますます僕を余裕なくさせた。
「カオル」
何度目か名前を呼ばれた時だった。トモはそれまで投げ出していた腕をためらいがちに僕の背に這わせ、やがて下からしっかりと僕を抱きしめた。
刹那、僕ははじかれたように身体を起こし、僕を抱きしめていたトモの手は、なすすべもなく滑り落ちた。
「カオル?」
トモの不思議そうに歪んだ目が僕を見上げていた。傷ついた小動物みたいな目だった。
「あ……」
僕は頭を抱え込んだ。
今、何をした?
心臓だけじゃなく、こめかみまでどくどくと脈打っている。痛いほどだ。
「ゴメン……」
僕はトモを見ずに言った。とてもじゃないけど、見られなかった。そうしてゴメンを繰り返しながら、僕は立ち上がり、トモを残して部屋を出た。
この場にはいられない。僕は何をした? トモに知られた……!
スマホだけを掴んで、僕は家を飛び出した。
トモを追し倒してしまったーー
いや、それより先に抱きしめてしまった。よく覚えてないけど、あいつの顔に何度もキスしたような気がする。そしてトモは、何度も僕の名前を呼んでいた……
駅に続く道は、コンビニや深夜まで開いてる本屋とかスーパーが立ち並んでいて、夜とはいっても、中途半端に明るかった。そんな町並みは、その場から逃げ出した僕を優しく隠してはくれず、自分がやらかしたことを、みんなが知っているような気がした。
とにかく恥ずかしくて辛くて、いたたまれなかった。今まで大切に守ってきたものをぶち壊してしまった僕は、一時の感情に流されて壊してしまったものの大きさにただ怯え、自責の念に突き動かされて、ただ歩くしかできなかった。
今はとにかく、トモから遠く離れたところへ行きたかった。でも、歩いて行けるところなんてたかが知れている。気がつくと、いつも通学に使っている駅の南口まで来ていた。どうやら、毎日の習慣を身体がしっかりと覚えていたようだった。
足早に歩いてきたので暑くて喉も渇いていた。自販機で飲み物を買って、それから今日どうするか考えようと、カーゴパンツのポケットを探ったが……ない。財布がなかった。咄嗟にスマホだけを掴み、財布は置いてきてしまったらしい。そして、バーコード決済アプリの残高もカラ。
「あーあ」ため息と一緒に声が出た。飲み物どころか、電車にも乗れやしない。となると、最初に浮かんだのは夏原の顔だった。あいつの家ならここから自転車で十分くらいだ。きっと迎えに来てくれるだろう。
いや、やっぱりダメだ。僕は、いったん開いたケータイを閉じた。
夏原のところだったら、トモが連絡するかもしれない。無茶をした挙句にトモを置き去りにしたくせに、トモはきっと僕を探すだろうと思うと、焦燥なんだか、甘酸っぱいんだか説明のつかない気持ちがこみ上げてきて、泣けそうになった。
スマホを開く。着信履歴から、ある名前を引き当てる。泣きたい気持ちを認めたら、桜子に会いたくなった。トモから逃げてきたのに、トモによく似た彼女に会いたくなった。
僕は、けっこうズルイ人間だったんだと思いながらーー