見出し画像

トライアングル 5

第五章 曲がり角<side カオル>

「シアトルに行く」

 僕はとっさに答えていた。
 トモから離れる。離れたい。距離を置きたい。好きなのに? 好きだから。

 疲れたんだ。自分の気持ちを抑えることがこんなに辛いなんて思わなかった。離れたって、トモを忘れられるわけじゃない。何も解決しない。そんなことはわかっている。わかっているけれど……僕は悶々と同じ問いと同じ答えを繰り返した。
 トモはどう思っただろう?
 あいつは、きっとこちらに残るだろうと思っていたけれど、僕の答えに意外そうな驚いた顔をしていたのは気のせいだろうか。もし、僕が離れていくことを少しでも寂しがってくれるなら嬉しい。自分からこんな答えを出しておきながら、そんなことを思ってしまう。
 トモを好きだと自覚してから、僕は自分の嫌なところばかり発見している。心配してくれる人を傷つけ、自分の気持ちを持て余してーーひとを好きになるって、もっと幸せなものだと思っていたのに。
 シアトルに発つのは、年明けすぐになるだろうということだった。それまで、トモが何も言わないでくれればいい。父さんや玲子母さんにも、そっとしといて欲しい。僕はもう決めたんだから。そう思っていたのにーー。


 父さんから海外赴任の話があった数日後のことだった。僕はトモも玲子母さんも避け、二人も敢えて、僕にその話をしようとはしなかったのだが……。
「おい、トモユキ来てんぜ」
 同じクラスの夏原が僕を呼んだ。
「カオル呼んでくれって」
「……居ないって言っといてよ」
 僕は教室の入り口をちらっと見て、小声で夏原に言った。トモが不機嫌そうな顔で廊下に立っている。
「はあ?」
 夏原が聞き返した。
「だから居ないって……」
「誰が居ないって?」
 振り向くと、そこにもうトモが立っていた。夏原が言わんこっちゃない、というように目配せをする。
「見え透いた居留守なんて使うんじゃねえよ。カオル、今日、ウチ帰ったら話があるから」
 トモが僕に話しかけてきたのは何日かぶりだった。そう、僕がトモをマザコン呼ばわりしたあの日から、僕たちは口を聞いていなかったのだ。
「僕は別にないけど」
 僕はトモを見ずに言った。
「俺があるんだよ」
 トモは机の前に回り込み、座っていた僕の前に立ちはだかった。例の、冷たくて射抜くようなトモの視線に見下ろされて、僕は思わず目を逸らす。真っ直ぐに僕を見るその顔に、今自分が置かれている状況も忘れて見とれてしまいそうになる。だから必死で目を逸らした。
 その場から離れるタイミングを失った夏原が、なんだかハラハラして僕たちを交互に見ている。
「逃げんなよ」
 それだけ言うと、トモは来た時と同じように、唐突に教室を出て行った。
 存在感のあるトモは、一瞬で教室の空気を変える。トモが出て行くと、その緊張感が解けて、空気が脱力したような感じに緩んだ。
「何なの? あの迫力」
 歩いて行くトモを目で追いながら夏原が言う。
「キョーダイゲンカでもしてんの?」
「別に……」
 真っ直ぐに見られただけで、こんなにも胸が高鳴っている。僕は、その動悸を夏原に気取られやしないかとそんなことを気にしていた。
「しかし、いちいちカッコええヤツだよなあ。悔しいけどさあ」
 夏原はそんな僕の動揺には気付かず、トモが去った方を見送っていた。
「僕さ、年が明けたら、ここには居ないかもしんない」
「えっ?」
 ぼそっと言った僕の一言に、夏原はびっくりして振り返った。
「なに? どーゆうことよ、おい、カオル?」
 そうだよ、僕は逃げるんだ。だからトモにもはっきり言わなくちゃいけない。本当の理由は言わないけど、僕はお前とここには残らないってことを言わなくちゃいけない。
「おい、おいカオルってば!」
 ずっと呼びかける夏原の声が、遠くで聞こえていた。


 午後九時五十分。
 トモは十時に部屋に行くからと言った。すっぽかしても、結局また一から同じことの繰り返しになるだろうし、僕は覚悟を決めて、おとなしくトモを待っていた。 
 でも、覚悟って一体何の覚悟なんだろう。トモから離れることを告げる覚悟? この選択を通して、自分のトモへの気持ちを痛いほど再確認する覚悟? 
 ……大体、トモらしくないんだ。僕はトモに責任転嫁をしてみる。普段、人のことなんか大して興味を示さないくせに、僕がどうするかなんて放っておいてくれればいいのに……でも、それはトモにとってある意味、僕が特別だからだ。
 ーーだから、カオルのことはスキ。
 あの一言が、今でも甘く甘く僕の心をかき乱す。そういう意味のスキではないとわかってはいるけれど僕はその意味ではもう、満足できないんだよ……。
 トモは、一緒に暮らしてきたからって、義理の兄弟だからって、そんな理由で「特別」を口にするヤツじゃない。それは自惚れでもなんでもなく、トモがそういうヤツだからだ。だからこそこの問題を大事にしてくれているんだ。正面から向き合おうとするトモに対し、卑怯なのは逃げようとする僕の方だとわかっているけど、トモの「特別」は僕を追い詰める諸刃の刃みたいなものだった。
 午後十時、机の上のデジタル時計がカチッと時間を送る。ま、時間通りには来やしないよな。僕は時計を肩越しに見やった。

 
 午後十時七分
「よお」
 足でドアを開けて、両手いっぱいに缶ビールやら何やらを抱えてトモが部屋にやってきた。
「遅かったじゃん」
「そお? 冷蔵庫からビールくすねるのに、母さんの目を盗んでたから」
 トモは鼻歌を歌いながら、床の上にビールやポテトチップスを置いていく。真面目な話というよりは酒盛りといった感じだった。
「僕は飲めないから」
「一本くらいはいけるだろ? これ、チューハイにしとけ。甘いやつ」
 トモは僕に青りんごチューハイの缶を手渡すと、自分はビールのプルトップを開けた。
「そんじゃ、ま」
 トモの差し出した缶ビールに仕方なく僕も缶を合わす。一体、なんのための乾杯なんだ。
「俺がなんの話に来たかわかってると思うけど」
 ビールを飲みながらトモは切り出した。
「うん」
 僕は素直に頷く。
「じゃあ単刀直入に言うけど、俺はシアトルには行かない。ここへ残るって決めてる」
「うん」
「けど、カオルは父さんたちに着いて行くって言う」
「うん」
「で、これは相談なんだ。中学ん時、部屋を分かれることを俺が勝手に決めて、カオルに相談しなかった。俺はあれは悪かったと思ってるから、今度はちゃんと相談してる。それに、今回はあれよりも大きな問題だし」
 トモが急に真面目に話をするので、僕は少々驚いていた。思ったよりも、トモは僕に正面から向き合おうとしている。
「……んだよ」
 僕が無言なので、照れ隠しもあってか、ちょっと不機嫌にトモは言った。
「だって、トモも僕も、もう決めてるじゃん。何を今さら相談なんて……」
 何気に僕は酷いことを言っている。これじゃ、トモにちゃんとした答えを返していない。けれどトモは怒りもせずに淡々と言った。
「俺は、新しい環境で暮らすのは面倒だと思ってる。正直、やっと今の生活で落ち着いたって感じなんだ……母さんの離婚とかでいろいろあったから。だから、母さんを父さんと一緒にゆっくりさせてやりたいって気持ちもあるんだよ。このあたりは、お前にちゃんと話せてないことだけど」
「うん、それはいいんだ」
 お前は、そういうことを無理に聞かないから、そっとしといてくれるから……だからお前がスキだとトモは言ったーー。
 トモは頷くと、話を続けた。
「それにさ、親から離れて一人暮らしできるってのも魅力。これが、俺がこちらに残る理由。カオルは? カオルはなんであっちへ行きたいの?」
 トモはいきなり核心を突いてきた。そりゃそうだ。物事には理由がある。理由を求められるのは当然だ。僕は用意していた「答え」を切り出した。
「僕はトモとは逆で……あっちの生活に興味があるっていうか。これを機会に英語とかも勉強しようかと」
 言葉にしてしまうと、なんとも薄っぺらい理由だった。でも仕方なかった。
「ほんとにそれだけ?」
 一転して、トモがある意味冷たさの篭った、硬い口調で問い返した。僕は一瞬、無様にうろたえる。
「お前、ここんとこ俺を避けてたよな? それとは関係ない?」
「関係ないよ!」
 間髪入れずに僕は言い返した。それは、却って不自然だったかもしれない。
「何かと俺にまとわりついてたお前が急に離れて行って、俺は正直寂しかったんだよ」
 少しの沈黙のあと、トモは下を向いたまま言った。
「え?」
「ちゃんと聴けよ……俺けっこう恥ずかしいこと言ってんだから」
「逆ギレかよ」
「うるさい! それでだな、お前にも遅すぎた反抗期っていうか自立期みたいなのが来たのかもって思って、でも、まさか行くことを選ぶなんて思いもしなかったんだよ」
 明らかにトモは赤くなっている。こいつの性格から言って、こういうことを正面切って言うなんて、よほど勇気のいることなのかもしれない。勢いにまかせて、すでにビールを何本か開けているし。
「トモ……耳まで赤くなってる」
「そんなこと、どうでもいいんだよ!」
 僕の茶々は、トモをますます怒らせた。
「お前が本当に英語勉強したいとか言うんだったら、それはもう俺が意見することじゃないよな。でもな、そんなに深く考えてないんだったら、一緒にこっちに残らないか?」
 ビールのせいか、感情の高まりのせいか、うるんだ目でトモは僕を見た。
 ヤバイ。心臓が不用意にどくんと鳴る。そんな目で見るなよ。たまらなくなって、僕は顔を逸らした。
「もう決めたんだよ……」
 必死の思いで僕は自分の答えにしがみつき、トモはちょっと寂しそうな目で僕を見た。
 なんで今日のトモは、こんなに素直というか可愛いんだろうか。酔っ払ってるから? でもそんなトモは新鮮だった。
「でもよ、考えてみろよ。親から離れて自分たちだけで暮らすのって、なんかワクワクしねえ? それなりにルールとかも必要だけど、食事当番とか買出し当番とかそんなの決めて」
「トモの性格からすれば、一人の方が気楽でいいんじゃないの?」
 僕はもう、トモの顔を見ていられなかった。
「だから、お前とだから一緒に残りたいって俺は相談してんの!」
 トモは駄々っ子みたいな口調だった。僕は思わず逸らした顔をトモに戻す。
「俺が一人で残ることになったら、母さんのことだから同居人募集したり、通いのハウスキーパー頼んだりするよ? 俺、絶対そんなの嫌だもん。カオル以外のヤツとなんて暮らせないし、暮らしたくない」
 そこまで言うと、トモはぐいっとビールを煽った。
 僕はその時、どんな顔をしていたんだろう。きっと、呆けて赤くなって、そして泣きそうな顔をしていたに違いない……。
「わかった」
 今までぐだぐだと悩んでたのが嘘みたいに、僕はさらっと答えを口にしていた。まるで他人ごとのように、それまで悶々としていた僕は、あっさりと答えを出していたのだった。
「……ホント?」
 トモが目を丸くしている。
「ホント」
 僕は大きく頷いた。
「カオルーッ!」
 トモはいきなり僕に飛びついてきた。抱きつくなんていう色っぽいものではなく、子どもがじゃれ合うような飛びつき方だった。飛びついたトモに下敷きにされて、僕は床で背中を打った。けど、その痛み以上に、いきなり飛びつかれたことで身体があちこち触れ合って、そのことで理性を保つのに必死だった。
「離れろって、おい」
 僕はトモの長い手足を振りほどこうと必死だが、トモはかまわずにベタベタくっついてくる。
「触り上戸かよ、おまえ……っ!」
「嬉しいよー」
 酔っているとはいえ、何年ぶりかで見る、トモの満面の笑顔に僕は屈服してしまう。この笑顔を裏切ってはいけない。カオルだから一緒に居たいと言ってくれた、その気持ちを大切にしたい……大丈夫。なんとかなる。いろいろ先走りして考えてしまうのは僕の悪い癖なんだから。
 なんとかなる。なんとかする。この一瞬が、僕をこれからも助けてくれる。


 トモは結局そのまま、酔っ払って寝入ってしまった。なんとかベッドに引きずり上げ、自分はトモとベッドのへりの狭い空間に身体を滑り込ませた。
 好きなヤツと同じベッド。尋常ならざる状況だったが、僕はトモに寄り添いたかったし、それ以上に、手を出すような気分にはならなかった。安らかで、温かで、本当にトモを愛しいと思った。
 言いたいことだけ言って、僕の隣でなんの気構えもなく爆睡しているトモ。久しぶりに見たあどけない寝顔は、いくら見ても見飽きない。たぶん、自分の気持ちを吐き出すには、彼なりに気合のいることだったんだろう。僕は、その気持ちを心から嬉しいと思う。泣きたいほど幸せだと思う。もう決めたと思ったことなのに、トモの一言で覆ってしまう決心なんて、やっぱり僕はまだまだ甘い。でも、今はその幸せに身をまかせ、この選択を信じたい。

 キス、したいな……。

 それ以上は……今日はそれ以上は抑える気持ちがあるけれど、目の前の愛しいものに触れたい。妄想じゃなくて生身のトモに触れたい。浅ましい思いじゃなくて、今日これまでの自分にけじめをつけるために。 
 そんな言い訳すら、やっぱり僕の決心なんて甘いものなのかもしれないけれど、でも……。
 長い睫毛にそっと触れて、寝息をしっかりと確認する。零れた前髪の隙間にそっと唇を近づける。聞こえてくるのは安らかな寝息だけ。
 好きだよ。
 心の中で囁いて、僕はトモの唇にそっと触れるだけのキスをした。


 次の日、ビールを持ち出したことがバレて、トモは玲子母さんにこっぴどく怒られた。僕も飲んだけれど、トモは明らかに二日酔いだったからだ。
「ほんとにもう! これだからあなたを置いていくのは心配なのよ!」
 玲子母さんはめずらしく声を荒げている。
「……そんなキーキー言うなよ……頭に響く……」
 トモは水を飲みながら、こめかみの辺りを押さえて顔をしかめている。
「あ、俺、朝ゴハンいらね……学校休む……」
「お父さんに言って考え直してもらうからね! サラダくらいは食べなさいよ」 
 トモはおとなしく、しかめっ面でぼそぼそとレタスを口に運ぶ。ここは逆らわない方がいいと、言うことを聞いているトモが、文字通り叱られた小さな子みたいで本当に可愛いかった。
「僕も一緒に飲んだんだ。トモだけじゃないよ」
 玲子母さんは、ちょっと当惑したような顔を僕に向けた。
「これからは、そうやって羽目をはずさないようにするから……他のことでもそうだけど、だから僕たちを信用して、こちらに残らせて欲しいんだ」
「僕たち? って、カオルくん……?」
「うん、僕もトモとここに残ることに決めた。ちゃんと二人で話し合って決めたんだよ」
「カオルくん……」
「それから、玲子母さん、今までいろいろ心配かけてゴメン。これからはそっちの方もちゃんとやるから」
 僕は、小さく玲子母さんに頭を下げた。そんな僕たちのやり取りを、トモはレタスをつつきながら、ちょっと嬉しそうに笑って見ていた。

 結局トモは学校を休むことは許されず、玲子母さんに追い立てられて家を出た。クールなトモだけど、結局母さんには頭が上がらないのだ。
「ああ、頭いて……保健室で朝から寝ててやる!」
 トモは不機嫌だったが、久しぶりの二人の登校が、僕は嬉しかった。
「トモって、けっこう酒弱いよなあ」
 意外な弱点を見つけてしまった。
「カオルが強すぎんだよ。飲めないなんて言っといて」
 トモは頭を抱えたまま怠そうに歩いていく。この分じゃ昨日のキスはまったく気付いていないよな、とそっと胸を撫で下ろす。
「なんだよ、今笑った?」
「いや、別に?」
「いーや、笑った」
「トモの寝顔ってさ、久しぶりに見たけど可愛かったよ」
「カオル!」
 好きなコとじゃれ合っている中学生みたいだ。こんなに心から笑ったのは久しぶりだった。
 しかし、この件で悩ませてしまったヤツが一人いた。夏原だ。教室に入ると、夏原が泣きそうな顔で僕に駆け寄ってきた。
「カオル……お前、ほんとにどっか行っちまうのか? 転校すんの? 昨日、何回もデンワしたんだぜ。なのに全然つながらないし……」
 あ。そうだった。そんなこと口走ったかもしれない。
「いやあーソレもう解決したから」
 僕が頭を掻きながら決まり悪く言うと、夏原は文字通り脱力した。
「お前なあ……ただ事じゃない雰囲気だったから、何かあったんじゃないかって心配したんだぞ俺は!」
「悪い」
「何かオゴレよ」
 夏原はふいっと横を向いて言った。
 悪かった。こいつにも心配かけたんだ。僕は自分のことしか考えられず、無意識に傷つけてきた人たちのことを思う。そうだ、彼女にもあやまらなくちゃーー。


 数回の呼び出し音のあとに「カオルくん?」と坂崎ハルナの戸惑いを隠せない声が聞こえてきた。
「うん。急にごめん。この前の着信履歴でかけ直した」
 そういえば、僕たちは電話番号もLINEも交換してなかったのだ。
「この前だけど……心配してくれたのに、ゴメン」
「え、ううん。あたしも出すぎたことしちゃったかなって……」
「僕さ、あの時大分落ち込んでて……でも、もう大丈夫だから。それだけ言いたかった」
「そう、よかった……」
 流れてくる声だけでは表情は読めない。けど、彼女はやっぱり泣きそうな顔をしているのかもしれないと思う。
「ほんとにありがとう。僕なんかのこと心配してくれて」
「うん……」
 彼女と話したのはそれだけだった。もしトモがいなかったら、キミのこと好きになってたかもしれない。彼女には告げないけれど、僕は心からそう思っていた。これから先、女の子と深くかかわることも、ないのかもしれないけれど。


 この時の僕は、本当にそう思っていたのだけれどーー僕たちの、思いもつかない新しい季節が始まろうとしていた。

<トライアングル6に続く>


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?