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トライアングル16

第九章 センチメンタルジャーニーと、一人の夜 2 <side カオル>

 駅へ向かう終バスは、すでに出たあとだった。午後五時が最終って何だよ、と怒りたくなったが、昼間の利用状況からすれば仕方ないことだろう。
 運よく、ドライブ帰りのカップルの車に乗せてもらうことができたが、僕たちの神妙な雰囲気に「まさか駆け落ちじゃないよね。ヘンなこと考えてないよね」と、心配されてしまった。親切な彼らにお礼を言って、「ヘンなこと」を考えないように約束させられてから彼らと別れ、駅前に唯一あったファミレスで晩ごはんを食べた。家に帰るには、そろそろ電車に乗らなければならない時間だった。
 でも、桜子の話はまだ終わっていない。二人に「帰る」という選択肢はなかった。確認しなくても、考えていることがわかる瞬間というのは、確かにあるものだ。
「泊まるとこ探さないと」
 僕は言った。
 ビジネスホテルとか、シングルが二つ取れればーー」
「そうだね。でもムズカシイと思う」
 シングル二つとか、それだけ言うにもドギマギしてやっとの僕に対して、桜子は落ち着いたものだった。
「予約もしてない未成年を泊めてくれるとこなんて……」
 果たして彼女の言う通りだった。僕たちも名前を知っているチェーンのホテルのフロントで、一人ずつチャレンジしたけど玉砕した。それどころか家出少年として通報されそうな勢いだったので、仕方なく「家へ帰ります」と退散するしかなかった。
「どうしよっか」
 結局帰るしかないのかなと僕が思いかけた時、
「フロントを通さないで泊まれるところがあるけど」
 平坦な声で桜子が言った。
「行ったこと、ある?」
 挑むような表情で彼女は言う。
「ないよ」
 僕の答えを聞くと、彼女は先に立って歩き出した。駅の裏あたりにそれらしいネオンが誘うように光っている。桜子と並んで、僕は黙って歩いた。


 その室内は、想像していたよりずっとシンプルだったので、何だかほっとした。ただ、ベッドが丸いのと、バスルームがガラスばりなのには、やっぱりちょっとぎょっとしたけれど。
 僕がもの珍しげにきょろきょろしていると、桜子はコーヒーを入れてくれた。インスタントじゃなくて、ちゃんとバリスタマシンが置いてある。
「聞かないの?」
「?」
「こういうとこ、来たことあるの?って」
「ああ……」
 さっきの僕への問いかけの続きだった。
「女の子に、そういうこと聞いちゃいけないんじゃないかって思ってさ」
 桜子は笑った。硬かった表情が緩んで、彼女の顔が優しくなる。
「いいヒトだね、カオルくん」
「ホメ言葉に聞こえない」
 僕が拗ねると、彼女はもっと嬉しそうに笑った。だから、からかわれたような気がするけど、赦すことにする。
「何回か来たよ。知ってる人もいれば、あんまり知らない人もいた。同じ年のコもいたし、年上のひとも」
「なんで?」
 僕はその答えをわかっていたけれど、彼女が吐き出したがっているのがわかるので敢えて聞いた。
「もう、何でもよかったから」
 当たらずとも遠からずの答えを吐いて、彼女は急に僕に背を向けた。
「先にシャワー使っていい?」
「あ、うん」
 展開に付いて行けずに曖昧に返事を返すと、彼女はもうそこに居なかった。
 ソファからガラスばりのバスルームが死角になることを確認すると、僕はソファに倒れ込んだ。初めてこういうところに足を踏み入れた緊張と、なにやら駆け引きめいた桜子とのやり取りで、僕は予想以上に疲れていた。
 誘っているともとれるような、桜子の言動が気にかかる。わざと悪ぶってるような、それでいて気にかけてほしいような。
 スマホを見ると、LINEが二件。夏原と、トモからだった。

 お前、どこに居るの?
 トモが電話してきて、お前が誰と出かけてるか知らないかって。ていうか、俺と一緒だと思ってたみたいよ? テキトーに合わせといたけど……
 いいかげんにしろ!

 夏原のLINEには怒り心頭のスタンプが二つ。やばい、友だち無くすかも……
 一方、トモからのメールは短かった。

 何時頃帰る? 遅いから時間だけ聞いときたくて

 けれど、たった二行の文章は、僕の心を揺さぶるのに十分だった。送信時間は三十分ほど前。桜子とここに入った時間くらいだ。マナーにしていて気がつかなかった。

 連絡しなくてごめん。電車がなくなったから今日は適当に泊まる。カギかけて寝ろよ

 送信したら、ちょうどバッテリーが切れた。「充電してください」の画面を見ていたら、トモを断ち切ってしまったような後ろめたさが襲ってきた。
 ウソついてゴメンな。でも、僕は知りたいんだ。いろんな本当のことを。お前に繋がることを。
 僕がシャワーから出てきたら、桜子はソファに足を投げ出してテレビを見ていた。僕に気付くと、座りなおして片側を開けてくれる。二人がけのカウチソファだ。僕は黙ってそこへ座った。
「なに見てたの?」
「ドラマ。先生と生徒がカケオチするの。バカみたい、教師と生徒なんて数年我慢して卒業すれば、あとは好きにやれるのに」
「その数年が待てないんだろ」
 僕は、彼女をなだめるように言った。
 付き合っているわけじゃないひとたちとこういう所へ何度も来て、それでも"好きになってはいけない人"を忘れられない。帰る家はあっても居場所はない。そんな彼女にとって安いドラマは陳腐なだけだというのはわかる。でも、僕はそんな彼女が痛くてたまらなかった。坂崎春菜や高木容子と桜子は何が違うんだ? その違いが痛いんだ。
 僕がそんなことを考えていると、桜子はテレビを消して、人が変わったように明るく言った。
「じゃあ、話の続き、しようか。そのために泊まったんだもんね」
 カラ元気だ、と思った。僕はもうごまかされない。
「智行の子どもの時の話も聞きたいよね」
 彼女は僕の顔を覗き込む。
「でもね、あんまりっていうか、ほとんど知らないの。イトコとはいっても年に数回会うだけだったし」
 桜子は一たん言葉を切って、ミネラルウォーターを口にした。
「智行は小さい頃から本当に綺麗な男の子だった。なのに、いつも難しい顔をしていて、笑ったらいいのにって、あたしはいつも彼のことが気になってたの。それで、一度あたしから話しかけたことがあったんだけど、お母さんたちにすごく叱られて」
 もう遅かった、と言った桜子の呟きが頭をかすめたけど、僕は気付かないふりをした。なのに。
「今から思えば、あたしはもうあの頃から、智行のことが好きだったのかな……」 
 語尾は紡がれず、代わりに沈黙が訪れた。
「好きになってはいけない人」
 その沈黙を、桜子は自分の言葉で破る。僕はぎゅっと目を瞑った。
「驚かないの?」
「驚いてるよ」
 もしかしたら、とは思っていたけれど、改めて彼女の口からそれを聞くと、やっぱりショックだった。嫌悪とかそういうことではなく、叶わなかった兄と妹の思いが、まるで桜子を呪っているかのように、また繰り返されたことに。
「……でも、智行が朝比奈を出てから、もう会うこともなくなって、きっとそれで終わるはずだった。なのに、あたしは智行を見つけちゃったの」
 けれど、桜子の声は震えてもいず、必要以上に感情を殺すでなく、落ち着いていた。
「中等部の一年の時に、友だちと第一中の学園祭に行って、そしたらそこに智行がいたの。一目でわかった……運命だ! なんて一人で盛り上がっちゃってね。あたしのことを知れば、避けられるのはわかってたから、ずっと遠くで見てるだけだったけど、それでもよかった。いつか気付いてくれるかもって、毎日幸せだった」
 幸せ、それは今の桜子からは発せられそうにない言葉だった。
「だって、知らなかったのよ」
 うつむいて、声が頼りなくなる。縋るように僕の腕を掴んだ指が震えている。「知らなかったの。きょうだいだったなんて」
 桜子は繰り返す。何も言えなかった。言葉がみつからない。
「知らなかったの」
 彼女はもう一度繰り返した。
「きみが……悪いんじゃないよ」
 やっと言葉を発した僕は、知らず、トモを慰める時と同じことを口にしていた。「大丈夫」
 大丈夫なんだ。何も悪くない。桜子だけでなくトモにも語りかける。僕を通じて、ふたつの哀しい点が結ばれる。まるで三角形のように。
 その短い言葉は、思いのほか彼女を癒したようだった。次に顔を上げたときの彼女は、幾分穏やかだった。きっと、彼女は始めてこの事実をひとに告げたんだろう。僕がそうだったように。告げてしまえば、心はその分軽くなる。長い間囚われていたことから解放されて、軽くなるのだ。もちろんそれは、受け皿によるものだけれど。
 僕は、桜子の受け皿になれたのかもしれない。
「あたし、こんな風に慰めてもらったことって、初めてだな」
 彼女は少し笑ってみせた。まだぎこちない笑顔だったけれど、それは確かに笑顔だった。
 じゃあ今までどんな風に慰められてきたの? と心の中だけで尋ねて、嫌な気分になる。知ってるひとも、あまり知らないひとも、同じ年のコも年上のひとも、と彼女は言った。つまりはそういうことだ。僕が包むように手を握ると、彼女はまた、安心したように話し始めた。
「智行をずっと見てたらね、彼の側には、いつも男の子が一人いることに気付いたの。そのコはね、智行のすることを喜んだり怒ったり、笑ったり困ったり、表情がくるくる変わるの」
 桜子の口調が明るくなった。
「そのコの前では、いつもクールな智行が違う顔をするの。なんて言うのかな、あったかい、リラックスした顔。智行にこんな顔をさせるなんて、どんなひとなんだろう、ってすごく興味がわいて」
 彼女はソファの上で膝を抱え込んだ。そのまま、何だか遠い目をして話し続ける。
「それがね、この一年くらいで智行の表情がもっと……本当に、本当に変わったの。あのコが変えたんだって思ったら、居ても立ってもいられなくて。智行に近付けないなら、彼に近付きたい。彼の側なら智行と繋がれる、そう思ったの」
 桜子は僕の顔をゆっくりと見た。
「あたしは、あなたになりたかったんだと思う」
 喉がつまって声がうまく出せない。僕の声はきっと、つぶれて変な感じだったに違いない。
「僕に……なったって何も変わらない。結局はトモを好きになって苦しむんだ」「ーー気付いてたよ」
 桜子は、うつむいた僕の前髪を指で掬った。
「いつから?」
「男の子が好きなんだって聞いたときから。これはもう智行しかないって」
「一緒だね」
 僕は、ため息という名の息を吐きながら言った。
「僕と、きみと、同じヤツを好きだった」
 僕が結んだ三角形の頂点は、トモだ。僕と桜子が底辺の角からトモに向かって一生懸命、手を伸ばしている、不完全な三角形。


「智行と、寝たいって思う?」
 二人で仰向けにベッドに寝転んでいたら、不意に桜子が言った。
「ごめん、変なこと聞いて」
 聞いた側から、桜子は慌てて打ち消してきた。
「そりゃ思うよ。好きなヤツと二人っきりで住んでるんだし」
 僕は笑って返した。
「だからこそ、辛いんだけど」
「でも、まったく望みがないわけじゃないよ」
 桜子は大胆なことを言った。
「あたしよりはね」
 どんな顔をしてそんなことを言うんだろう、と横を向いたら、彼女は寂しそうだけど穏やかな顔をしていた。
「無理だよ」
 僕はもう一度上を向く。天井に鏡がなくてよかった、と変なことが頭をよぎる。「例えば僕たちが友だちだったら、可能性はゼロじゃないってこともあるかもしれないけど、僕たちは家族だから……」
 だから何だ。もし越えてしまって僕を受け入れられなかったら、やっと手に入れた今の家族のかたちを、僕のせいでトモは失うことになる。だからそれが何だ。いい加減にきれいごとを言うのはやめろーー
「でも、僕はやっぱりトモが欲しいよ」
「そう言い切れるだけ、羨ましいな」
 桜子は天井を見つめたまま言った。
 それから僕たちは、どちらからともなく、ぎこちなく抱き合った。
 こんなことをしたら、今まで桜子と一緒に、こういうところへ来たやつらと一緒になってしまう、と思った。でも、一緒じゃないよと桜子は言う。似てると思うなら、あたしを智行だと思っていいよ、と。
「違うだろ。きみはきみだし、トモはトモだよ。そんなこと言ったら怒るから」
 似てるから惹かれたのは僕だったのに、僕はそんな正論を吐いた。
「じゃあ、カオルくんだって今までのあたしの相手とは違うよ」
 噛み合ったような、噛み合わないような理屈を並べて、僕たちはゴネ合った。二人とも理由が欲しかった。
 こうなる理由。
 桜子の身体は、折れそうなくらいに細かった。それは、何度か服の上から感じた、トモの身体よりもずっとずっと頼りなくて、見上げる瞳もトモのものとはもちろん違う。 
 何度か、身勝手な想像の中で触れた、トモの身体とはもちろん違うのだ。そんなことに今更気付く。
「似ててごめんね」
 桜子は荒い息で言った。
「今日で最後にするの。次に好きな人ができるまでは、もう誰ともしないーー」
 何か言わなきゃと思ったけれど、波が押し寄せてきて何も言えなくなった。耳の奥で、桜子が僕の名前を呼ぶのを聞いたような気がしたーー


トライアングル17に続く


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