トライアングル23
第十一章 十日間 3 <side トモ>
身体に重みを感じて目が覚めた。
半分うつ伏せみたいになって寝ているカオルの左腕が、横向けの俺の背中の上に乗っかっている。もともと肩を抱いてたのが、眠っているうちに滑り落ちてここで止まったという感じ。その腕から泳ぐみたいに這い出ると、カオルは小さく身じろいで頼りなくなった腕を自分の胸に引き寄せた。
こんな仕草なんか子どもみたいに可愛いのに、俺に触れる時のカオルは、ものすごく男だった。優しいかと思えば荒々しくて、歯止めが効かなくて突っ走る。カオルを欲しいと思っても最後にいいようにされてしまうのは、いつも俺。
なのに。俺は小さく息をついた。最近のカオルは俺から触れようとすると逃げ腰になる。結局は抗えないくせに、桜子を盾にとって逃げようとする。俺はそれが気にいらない。見せ付けてやればいいのに。俺たちの間には誰も入り込むスキマがないんだってことを桜子にわからせてやればいいのに。
抱かれることは、安心できて気持ちがいいんだと俺は覚えてしまった。でもそれは全てをあずけられるカオルだからこそ、だ。そんなことくらいわかっているのに、それが恋なのかと聞かれればイエスと言えない自分がいる。そしてカオルは言葉を欲しがっている。でも俺はその言葉を口にするのが怖い。そこから全てが始まるとは思えないのだ。発したが最後その言葉に縛られて、がんじがらめになるに違いないのだ。俺はきっとそれしか見えなくなって、その結果「何か」が起こりそうで怖い。そんな言葉に彩られた気持ちに負けて、一線を踏み越えてしまった男と女の子どもである自分が。
「好きになってくれるひと」は見つけた。でも「好きになれるひと」とはいったい誰なんだろう。結局俺は、身体で自分の気持ちを測ろうとしてるんだろうか。
ふっと手を掴まれた。
「おはよ」
カオルは、掴んだ俺の手のひらにキスをした。
「いいモン作ってやるよ」
メープルシロップがしみこんで金色に光るトーストに、俺は目を奪われた。
「フレンチトースト?」
喜んでいる俺を見て、カオルは満足そうに笑う。
「すっげー」
「玲子母さんがよく作ってくれたよな。ずっと自分でも作りたくて、ネットで調べたりしてたんだけど納得いかなくてさ。でも、究極に求めていたレシピに出会ったの」
「そんなの母さんに聞けばいいのに」
まあそうなんだけど、僕のオリジナルにしたかったの、とカオルは言う。これからカオルバージョンにアレンジするんだと。
「どこで出会ったの? 究極のレシピ」
最後の一切れを名残惜しく頬張って、行儀悪いけどフォークについたシロップを舐める。
「ーー桜子」
少し間を貯めて、思い切ったようにカオルは言った。
「桜子に聞いた」
俺はフォークを置いた。美味けりゃそれでいいんだ。フレンチトーストに罪はない。
「美味かったろ?」
「そりゃあ……」
こんなことでカオルを責めるのは、とても大人げないとわかっている。でも、桜子に教えてもらったフレンチトーストがこんなに美味しいってことが悔しい。カオルは、そんな俺の顔色をうかがうように言った。
「なあ、桜子とさ、もうちょっと打ち解けられないかな。トモのこだわりはわかるけど、自分でもあのコが悪いわけじゃないって言ってただろ。その……」
カオルは言葉を詰まらせて続けた。
「イトコなんだし」
残酷なカオル。俺を食べ物で懐柔しようとして。性欲の次は食欲かよ。笑えないよ、まったく。
「だから、その血が繋がってるってことが嫌なんだって。俺の産みの親に繋がる人間だってことが嫌なんだよ!」
「でも、そんなのは彼女の責任じゃない」
カオルは、どこから突っついても綻ぶことのない正論をぶつけてきた。
「そんなことはわかってるって言ってるだろ? でもどうにもできないから、みんな悩んだり苦しんだりするんじゃないの?」
カオルはめずらしく、きつい目で食い下がった。
「僕だって、男のお前を好きになって苦しんだよ。けど、認めて前へ進まなきゃいけないこともあるだろ?」
「つまりお前は」
俺は、座っているカオルを見下ろした。きっと、すごく冷たい目をしていたと思う。
「自分の気持ちに妥協したわけだ」
「違う! そんなこと言ってない。それに僕たちの話じゃないだろ。お前と桜子の話をーー」
「一緒だよ」
自分でもぞっとするほど嫌な口調だった。まるで黒板に爪を立てたみたいな響きだと思った。
「受け入れるのが苦しいものを受け入れろと言うんだろ。どんなプレイだよ」
リビングのドアの向こうで物音がした。でも、カオルは気付いていない。
「朝比奈のあいつを受け入れるということは、俺にとって両親を受け入れろと言うのと同じことなんだよ。それに、お前知ってるんじゃないのか?」
俺が詰め寄ると、カオルは身体を引いた。
「何を?」
「あいつ、本当はイトコなんかじゃなくて、俺の双子の片割れなんじゃないのか?」
ずっと心に引っかかっていたことをついに口にした。俺を苛み、縛ってきたこと。解放すれば暗い淵に引き込まれてしまう。それがわかっていたから、ずっと封印していたのに。
カオルは思っていることや気持ちが顔に出やすい。昔からそうだ。
「なんでそんなこと言うの?」
「あいつは、お前にはなんでも話すみたいだから」
「もし、そうならどうする……」
必死で動揺を隠そうとして、うろたえるカオルを、俺は確かに「愛しい」と思う。俺の秘密を守ろうとして一生懸命なカオル。けれどこの愛しさは恋なのか? 情なのか?
「どうもしないよ。ただ、もっと桜子を受け入れられなくなるだけ。そうだよ。俺は自分もあいつらと同じことをするんじゃないかって自分が心配なんだよ」
リビングの向こうで息を潜ませていた気配が凍り付いているのを感じる。まるでテレパシーだ。確かにその、感情の波が動くのを感じる。
「違う! トモはそんな風にならない」
そんなことを言って、桜子が俺の妹だと肯定していることにすらカオルは気付いていない。
「僕が、ならせない」
「なあ、カオル」
俺はカオルの目から零れた涙を指で掬った。
「お前は言えるの? 俺を好きだって。男同士で、しかも義理の兄弟でこういうことしてるって、みんなに知られてもいいの?」
はっきりと言ってほしかったのに、カオルは「うん」と言ってくれなかった。「言えるよ」と言ってくれなかった。俺はその事実を、ナイフで刺されたみたいな痛みをもって受け入れるしかなかった。
「一緒だろ? 人に言えない関係なんだろ? 俺の親とどこが違うんだよ」
こんなにカオルを苛めてなんになる? 自分を追い詰めて、カオルを追い詰めて、でも俺はこの時、嫌というほどわかってしまった。好きだよ、カオルのことが好きだ……。
自分の気持ちから目を背けていたのは、カオルが自分の気持ちに翳りを持っていることを知るのが怖かったからだ。それなのに、きっと俺はカオルしか見えなくなって……。
固まった表情のカオルを立たせて、抱きしめてキスをする。呆然としたカオルはされるがままに口を開き、舌の侵入を許した。
「んっ……」
甘い吐息を漏らしたカオルをそのまま抱きとめて、カオルの肩越しに、俺はリビングの外で息を潜めている気配に呼びかけた。
「いい加減に出て来いよ。立ち聞きなんて卑怯だろ」
カオルがドアの方を振り返る。観念したようにドアが開いて、桜子が入ってきた。
最近、見たくない夢を見るようになった。きっと桜子がこの家にいるせいだ。
夢の中で、俺は九歳の子どもだった。どこか知らない、旅館みたいな一室で、俺は父親と、知らない女の人と一緒にいる。「お母さんが待っている」と言われてここに来たのに、母さんはどこにも居なかった。ただ、その女の人にいきなり抱きしめられて、泣かれて「会いたかった」と繰り返し名前を呼ばれた。
「だれ……?」
その顔を見たことがあるような気もするし、初めて見たような気もする。女の人はふわりと笑った。
「わからなくても仕方ないわよね。あの時、あなたは生まれたばかりの赤ちゃんで……ああ、本当に智行なのね?」
女の人は、また俺を抱きしめた。女の人の勢いに押されて俺は身動きできなかった。強く抱きしめられて居心地が悪かった。急に怖くなった。このまま逃げられなくなるのではないかと、反射的に俺は女の人の腕から体を離した。
「智行……」
女の人は、哀しそうに俺にまた手を伸ばす。その手を父さんが掴んだ。
「もう、いいだろう」
女の人は父さんを見上げた。蕩けるような目だった。まるで見てはいけないものを見たように、俺は身震いした。
「時間がなくなる」
頷いて、女の人はまた俺の手をとった。
「長いあいだ放っておいてごめんね。でも、これからはずっと一緒よ。博行と私と、智行と」
その吸い込まれそうな目に、さっきの蕩けた目が重なった。
「いや!」
とてつもなく怖くて、俺はその手を払いのけた。
「どうして? やっと一緒に行けるのに! そんなにあの女のところがいいの?」
あの女? 確かめる間もなく、女の人はいきなり俺の肩に手をかけた。やせた小さな人なのに、食い込む赤い爪が痛くて俺はもがいた。
「やめないか!」
父さんが女の人を制して、そのまま子どもをあやすみたいに抱きしめる。父さんの腕に抱かれながら、女の人は俺に向かって叫んだ。まるで、血を吐くみたいに叫んだ。
「あんたたちなんか、やっぱり産まなければよかった!」
押さえ切れずに思いのままに吐いた言葉が、どんなに吐かれた相手を傷つけるかなんて、きっと彼女にはわからなかっただろう。それなのに俺は言い返すこともできないほど小さな子どもで、その言葉のもつ容赦ない刃に、ただ傷つけられるしかできなかったのだ。
「そうすれば、博行と引き離されずにすんだのに……」
女の人は泣き崩れた。きっと、もう俺のことなんか目に入っていなかった。
「連れて行くから。あんたのことも博行も連れて行く。玲子には渡さない……!」
血走った目で、女の人は母さんの名前を口にする。
「もう、休もう」
父さんはそう言って、女の人に錠剤と、グラスに入った赤い飲み物を渡した。そして、俺にも同じように錠剤を渡そうとして、もう一度数を数えた。
「飲みなさい。よく眠れるから」
父さんに渡された錠剤を俺は見る。見て、目を背ける。首を振る。飲んだらダメだと本能が叫んでいる。
「母さんのところへ連れていって……」
父さんに哀願するけれど、父さんは優しく微笑むだけ。父さんがこんなに優しく俺に笑いかけるのはこれが初めてだった。女の人はそんな俺たちを、獲物を逃がすまいとするような、獣みたいな目で見ている。
どうしようもなかった。その場から逃れるには、言うとおりにするしかなかった。
「さあーー」
父さんに促されて、女の人の視線から逃れるように、俺は錠剤を口に含んだ。飲み込んだ水と一緒に、異物が喉を通っていく。
「いい子ね」
女の人がそう言った。
夢はいつもここで終わる。
嫌な汗をかいて、それでも前みたいに取り乱さずにいられるのは、きっとカオルが隣にいるからだ。