「間違ってました」が言える雰囲気
議論の引き際に悩んでいます
最近、働いているときに感じるのが、「上手な議論の幕引きができるようになりたい。」ということです。自分と上司の意見が対立したときに上司のコメントに対して自分の意見を再度説明したら、「そんな反論されても困るよ。今までやってきたやり方があるのに、なぜ変更するのか?」と言われています。そう言われると自分の意見を伝えるっていうのがしづらいなと思っています。かといって、「では上司の意見で行きましょう」というと、自分の考えを折れなくてと言われ、進みも戻りもできないな。。ともやもやするときがあります
理想的には…
社会人として利用的なことを言うと対応としては理想順で次になると思っています。
1位:上司の意見、私の意見の両方を満たす落としどころが見つかる。
2位:上司の意見を満たす落としどころが見つかる。
※セキュリティ的にどうしてもNGの場合を除く。
会社組織で責任を持っているのは上司なので、最終判断は上司の意見を優先すべきだと思います。私だけが納得できる意見を採用してもらうというのは間違っていると思います。そのためには私は自分の意見を訂正する必要があります。今の課題としてはこの訂正がしづらい環境だということだと思っています。
訂正可能性
最近見た動画や書籍で「訂正」がトピックとなっているものがありました。
動画:【坂井風太】「生存者バイアス問題」と若手の不本意離職を防ぐには【ReHacQキャリア塾】 (youtube.com)
書籍:「訂正可能性の哲学」/東浩紀著
「なぜ野球を一塁から走るのか?と言われて、そういうもんだとしか回答ができない。」ようにシンプルなことでも原理的には訂正の可能性がある。 複雑な現実課題においても常に訂正可能性があることを意識しておくべき。ということが前半部で記載があります。ただし、ラフプレーが正式なルールになるように訂正という言葉は共同体の内外の境界を揺るがし、今まであった正解を変化することにつながる契機となるということがあります。
これからの対応
正直、上司に「今までのやり方がある」「でも君の意見もおるべきではない」というどっちつかずの意見をされるたびに、もやもやする気持ちがあります。自分の意見を出さないほうが仕事が進むのかなと思ってしまう時もあります。ただ、どんなシンプルな課題でも、現実の複雑な課題でも常に訂正可能性があります。だからこそ、100点の答えがないとあきらめた上で、それでもコメントをすることが大事なんだと思います。中途半端な立場でもモノをいうからこそ、ルールが変わることもあると信じて。