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療育通いに必死すぎた思い出


  息子が2歳の時に療育の必要性が見えてきました。当時、夫は仕事で忙しく、平日はお互い寝ている顔を眺めるだけのような毎日でした。いわゆるワンオペ育児をしながら、息子の2歳年下である娘も連れて、必死に息子を療育に通わせる日々が始まりました。娘はまだ腰も座るかどうかといった赤ちゃんで、そんな娘を抱えながらの療育通いとそれに合わせた事前準備は精神的なプレッシャーも大きかったです。


 私が療育通いに必死だったのは息子が2歳から5歳にかけての頃でした。この期間、私たちは引っ越しを3回経験しています。住む土地が変わっても息子のための療育を優先し、同じ民間の児童発達支援に通い続けるために、車で高速道路を走って遠距離通いをした時期もありました。….最近のような雨だと良く思い出します。子供乗せ電動自転車の前と後ろに二人の子供を乗せ、嫌がる雨カバーを何とかかけ、私はフルカバーの雨ガッパを着込んで。視界の悪い中、人にも車にもぶつからないように、転ばないように、大汗かいて自転車を漕いだこと。児童発達支援では母子分離を息子が嫌がることも多く、最初は無理やり連れて行くことに心が痛んでいたような気がしますが、そのうち何も感じなくなりました。「一回でも多く療育に通わせることが大事」と信じて疑わなかったし、「私の方がずっとしんどい」「少しの間ゆっくりさせて」と心底思っていました。


 息子の気分が乗らない日は、療育での活動が実質何も出来ないこともしばしばありました。そんな日が続くと、私は療育に「通うこと」に必死なあまり、ひどい虚しさを感じて腹立たしくなります。今となれば産後うつもあったのかな…。常に何かに追われて、慌てたり、怒ったり、なんにも上手くいかない、誰にも代わってもらえない。あんまり当時のことはよく覚えていないのですが、一度どうにもこうにも涙が止まらなくなった時があって、自分でもどうなってしまうのか分からなくて、自治体の保健師さんに電話したことを鮮明に覚えています。可愛い盛りの2人の子ども、楽しいことも嬉しいこともいっぱいあったはずなのに、写真を見ないと思い出せません。療育に通うことで何かが変わるはずだと思っていた私は、家の中で息子と向き合う精神的・肉体的な余裕を完全に失っていました。ただ、療育に通うことだけが息子のためにできる唯一のことだと思い込んでいたのです。


 今振り返ってみると、私は息子の障害を本当の意味で受容できていなかったのだと思います。療育に通えば「治る」わけじゃないとは分かっていても、療育の時間だけが改善策だと思っていました。


 療育に通うことはもちろん大切で、数をこなしたことは息子にとってプラスなのは間違いありません。だけど、やっぱり一番重要なのは何でもない日々の生活なんです。今となれば分かることも、あの時の私はただ必死で、息子も自分も蔑ろにしていた。「誰が悪いわけでもないし、そんなに必死にならなくても大丈夫。たまには休んだら」そう伝えたい気持ちです。一方で、あの必死さがなければ今の私もないと思うのです。療育に行ってさえいれば何とかなる、出来ることは全力でやっている、でも私もっと何か他のことができたんじゃないか?そういう自問自答を繰り返してきた時期があるからこそ、ようやく今私は息子の障害を本当の意味で受け入れつつあるんだと思っています。

 
 今あの時の自分と同じような親御さんを街で見かけることがあります。直接声はかけないけれど、「よく頑張っててすごいよ」「一息つける時間があるといいな」と心の中で応援しています。