#1『いたいのいたいの、とんでゆけ』―落とし穴の中に落ちた人へ

 こんばんは、菫乃夜です。

 前回の記事から二日が経ちました。何事も始めたては大事と言いますから、そこで間隔を詰めて注目度を稼ぐのが定石のところ、こうして間隔をあけてしまうあたりが私のサボり症の表れなのだろうなと感じます。とはいえ急いでなにかいいものができるわけでもありませんので、日々マイペースに続けていく所存であります。

 さて、早速、先日宣言いたしました『人格形成に影響を及ぼした作品』シリーズの一本目を書いていこうと思います。

 先に言っておきますと、私の好きな作品はマイナーとは言わないまでもメジャーではない、というパターンが多いです。初回記事というとこで作品の知名度と自分の「好き」度を検討しました結果、一回目に選んだのがこの作品です。

『いたいのいたいの、とんでゆけ(著:三秋 縋 刊:メディアワークス文庫)

(なお、以下あまりネタバレ等気にせず書いております。読みたくてネタバレが嫌だ、と言う方は先に作品を読んでからご覧ください)

 三秋縋先生といえば、『三日間の幸福』をご存じの方はそれなりにいると思います(かくいう私も、『三日間の幸福』で三秋先生を知った中の一人です)。

 『三日間の幸福』をご存じない方の為に軽く説明をします。「自分の人生には、どれほどの価値があるのだろう?」という疑問は誰しも一度は抱くものと思いますが、それに対し「主人公の人生に実際に値段をつけてしまう」というド直球な切り口で挑んだ作品です。

 「人生の価値とはそもそも何なのか?」「値段がつく人生を歩むことが正しいのか?」…などなどの疑問に対して、違った視点から考えるきっかけをくれる、現代社会においてはぜひとも読んでおきたい作品です(と、個人的には思っています)。

(なお、折角なのでこの記事は『Please Mr.Lostman』を聞きながら書いています)

 さて、そんな作品の後に刊行された『いたいのいたいの、とんでゆけ』。本作にもちょっぴり哲学的な「三秋節」が多分に含まれるのですが、その前に一つ注意しておかなければならないことがあります。じつはこの作品…

 めちゃくちゃスプラッタです。

 血であるとか内臓であるとか、そういうワードが平気な顔をして登場します。ついでに言えば暴力もマシマシです。ゲームであればCERO-Z、映画であれば十八歳以上閲覧禁止、テレビでやるなら深夜帯、そのレベルのものだと思っていただいて構いません(苦手な方が読むのは少し辛いかもしれません…)

 ですが、私は、それらの要素はこの作品になくてはならなかったものだと思います。それは決してスプラッタ趣味があるとか、文学に暴力はつきものだ、とかそういう話ではありません。

 そして、先に挙げた点を踏まえても、この作品は誰かに勧めるに値するほどの素敵な作品だと思っています。

 三つほど、この作品の魅力を語ろうと思います。

 一つ目に挙げるのは、先の「暴力」に密接に関係している話です。すなわち、この作品は、「人の根源的な欲求を解放させるのに非常に向いている」。

 あなたは、今までの人生で、誰かに復讐したいと思ったことはありますか。どうしようもなく酷い目に遭って、仕返ししたいと願ったことが。

 けれど、復讐というものは実は大変難しいものです。たいていの場合、相手より自分の方が力が弱く、相手に危害を加えることはできません。社会的な制約も付きまといます。「復讐は何も生まない」というような同調圧力もありますし、あまりやりすぎてしまうと法の裁きに遇います。復讐にはそれなりのリスクが伴うものです。

 しかし、この作品において、そういう「制約」は一切の効果を発揮しません。三秋先生の作品は概ね、現実の世界観にひとつ「もしも」の要素を足して描かれるのですが、本作における「もしも」というのがとかく強力です。

 ヒロインは、自分に降りかかる不都合を「なかったこと」にする力を持っています。作中においては、復讐をして相手が死んだ、という事実はいずれ「なかったこと」になりますし、警察に捕まるとか、相手に反撃される、とか、そう言った不都合も全て「なかったこと」にできます。非常にアンフェアで、そしてなんと都合のいい力でしょうか。

 そうです。登場人物には、復讐することをためらう理由が一切ないのです。

 「復讐に意味はない」と人は言います。綺麗事は大いに結構です。ですがその前に考えてみなければなりません。「復讐は、ほんとうに何も生まないのか?」本作は、それを考えるのにうってつけの環境が整っています。登場人物に乗り移ったつもりでこの作品を読むことで、あなたはこの問いについて多少なりとも考えを深めることができるでしょう。

 二つ目です。この作品には、私の大好きな言葉が登場します。

 「まるで魂の同窓会みたいですね」

 とある人物の発言です。相手とあまりに感性が似通っていることから、そのような言葉が使われました。

 ここで一つ考えてみてください。あなたにとって、この「魂の同窓会」ができる相手はいますか?

 やってみるとわかると思いますが、自分の「感性」そのものを言語化することがまずもって難しい。そしてそれを形にするだけの語彙と時間があったとして、それを聞いて真面目に答えてくれる人がいるかどうかというのもまた難しい点。実は親しい人ほど、かえってそういう話が出来なかったりするものです。作中では、主人公と「ある人物」が、全く話したこともない状態から文通を始めて、そのときになってはじめて発覚したものです(それくらい困難だということでもあると思います)

 とはいえ、この「魂の同窓会」という概念は、実際に行えるかどうか以上に、そういった概念があると意識することの方が大事なのだと思います。

 普段生きていると、周囲と感性が違って苦しむことが多くあります。「普通」に合わせることは、それはそれでとても大事なスキルですが、しかしそれと同じかそれ以上に、自分の感性も大事にすべきものだと私は思っています。

 もしかするとこの世のどこかに「魂の同窓会」が成立する相手がいるかもしれない、と思うことは、自らの感性を守るために大いに役立ちます。何もかも「普通」でいる必要はないのです。自分なりの感じ方、考え方を大事にする、そして「魂の同窓会」の相手と出会ったときに話せるよう、自分の考えを整理しておく。…それはひいては、「自分らしく生きる」、というアイデンティティの確立にもつながります。この作品には、そうさせるだけの「夢」が十分に詰まっています。

  三つ目。最後に語るのが、印象というあやふやなものになってしまうのですが、しかしこの作品はとかく圧倒的な「美しさ」で溢れています。

 美しさ、と言われて思い浮かべるものは色々とあると思います。しかし本作において描かれているのは、思い出であるとか、記憶であるとか、そういった概念的なものの美しさ、だと私は思います。

 「隣の芝は青い」と申します。手に入らないものほど綺麗に見えて、手をのばそうとして傷ついて、憧れと挫折がそこに残る。得てして人生とはそういうものです。

 ですが、少し視点を変えれば、足元に落ちている石や、見上げた空がどこまでも綺麗だったりすることもあるのです。

 この作品に描かれているのは、そういう美しさです。

 作者はあとがきにて、こう書いています。

『いたいのいたいの、とんでゆけ』は、二度と抜け出せない穴に落ちた人の物語でした。しかし僕はそれを単に薄暗い話としてではなく、元気の出る話として書いたつもりでいます。

 あなたは今、とても深い落とし穴のそこにいるのかもしれません。周りの人は手を貸さないくせに「早く上がってこい」とばかり言います。焦って上ろうとして、上手くいかなくて、身体ばかりがボロボロに傷ついてしまっているかもしれません。

 ですが、上ることだけに目を向けずに、穴の中をよく見れば、もしかするとあなたにとって居心地のいい場所や、美しいものがあるかもしれません。いままでそうだったからといって、穴の外にいることだけが正解ではなく、穴の底で幸せに暮らすことだってできるかもしれないのです。この作品にはそんな、人生の助けになる美しさが、いっぱいに詰まっているのです。


 以上が、私がこの作品について思っていることになります。

 全てを語りつくせたとは言いません。小説というものは文脈というものがあり、結局のところ通して読む以上の体験を綴ることはできないでしょう。あるいはいくら言葉を尽くしたところで、これを読んでいる皆様にはそもそも必要がないのかもしれません。

 ですが、もしここまで読んでくださった方がいれば、どうか、「こんな作品がある」ということだけでも覚えておいていただきたい。人生において、落とし穴というものはいくらでもあるものだからです。

 そして、あなたがもし今落とし穴の中にいるなら。私は人を励ます力がありませんが、この作品には、あなたが「落とし穴の中で幸せになる」方法を少なからず教えてくれる作品だと思っています。

 この作品を紹介したことが、いつか読者様方の心の支えになれば幸いです。

『いたいのいたいの、とんでゆけ』。


 ではまた、次回の記事でお会いしましょう。菫乃夜でした。

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