満たそうとする原動力
人間としての幅が広がるとか、器が大きい人だとか、そういう表現がありますね。
あと、ステージが変わるとか。
幅が狭くて、器が小さくて、このステージでは不満である!という「足りない」思いが、成長しようと次に向かう原動力になっているんだろうなーと思います。
行き詰まりを感じることは、何十年も生きていれば、一度もないことの方が不思議だと思います。
そこで悩み苦しんで突破口を開いていこうとする時、変わりたい!成長したい!ステージをあげたい!等の思いがあるわけですね。
一般的には、それはとても良いことと評価されます。
苦痛に耐えてよく頑張った!感動した!
感動をありがとう!
自分も感動させられる人になりたい!
ステージをあげたい!
この感動を糧に明日も頑張る!
みたいな。
人間としての幅が広がるというのは、例えば、幼稚園から小学校、小学校から中学校のように、行動範囲が広がり、交流する人が増え、知識が増えていき、経験値が上がることによって、成長していくという感じだと思います。
そういう意味での成長も確かにありますし、知らないことを知るというのは楽しいです。
幅を広げるという方向性が、ダメなのではないんです。
存分に楽しめばいいんです。
これいつまでやるねん?
もうウンザリなのだが?
求めているのはそういうことではないのだが?
何かが違っている感じが拭えないのだが?
一体終わりはあるのかい?
などの思いがある人は、求めているのはそっち方向ではないってことだと思います。
「足りない」って思うと、自動的受動的反応的に「どうやって満たそうか?」と、思考が走り始めるはずです。
その思考に動かされて、なんやかんやしているうちは、まぁ楽しいんです。
やってる感、生きてる感にまやかされるというか。
いつか満たされる!と、目標を今ここではないどこかに置いて、頑張ってる自分って輝いてる!っていう感覚に酔わされるように思います。
輝いていなくて足りないから、「じゃない方」が欲しいんですよね。
それが錯覚で、マトリックスを産む原動力です。
マトリックスの中で出口を探しても、そもそも錯覚だから出口もないんです。
冒頭に書いたように「足りない」が原動力になっているわけで、「足りない」を満たすために何かをして、一時的に得られる満足感や達成感を糧に、また次の何かを追うわけですよね。
「足りない」を満たすために何かをして、得られなかった場合は自責や他責に走ったり、悩み苦しんだりするわけですよね。
「足りない」を起点に一周したとて、終点はやっぱり「足りない」なんですよ。
ただ、それが無駄なんてことではなく、人間としての幅は広がっていますので、ステージが変わったりはすると思います。
マトリックス、つまり時間と鏡の国の中の物語の中では、豊かな人生になることでしょう。
でも、その話はここではしていないんですね。
表現が難しいのですが、こりゃ詰みだな!と感じているということです。
マトリックスから出られなくなって、ホンマにええのん?ということです。
詰んでからが本番みたいな感じです。
白うさぎを追ってはいけないわけではないけど、追い続ける以上は終わりはないですね!ということです。
「足りない」自分つまりエゴたん(錯覚の自分)が「自分の世界は自分が創造する!」といっても、生み出されるのは「足りない」なので、何周したとて
🎵ネバエンディンストーリー🎵ですし
🎵輪廻輪廻〜輪廻輪廻輪廻〜♫です。
(↑リンダリンダのメロディでぜひ🤣)
時間と鏡の国の中で、より良く生きるための無自覚の戦いに心底ウンザリしたら、いつも戦闘モードでいることにほとほと疲れたら、マトリックスの中には条件付きの幸せしかないと気づいたら、無条件の幸せにベクトルが向くのかもしれません。
写真は『ひょうたんランプ館』さんで撮影したものです。