獨り暮らしの風呂
廿歳前に實家を出てから、ずつと獨り暮らしの私である。大學生時代も仕送りは殆ど無かつたから、餘裕もなかつた。奬學金で授業料を拂ひ、アルバイト代で生活してゐた。
見榮を張り、人前では大盤振る舞ひで酒を飲んだりしたし、良い服など買つて着たりもした。でも、人目につかないところでは生來の吝嗇が顔を出し、貧乏性が抜けなかつた。
友人と飲みに繰り出せば、一晩で數萬圓なんてざらだ。梯子酒が良くない。あとは、女の子のゐる店。(解つちやゐるけれど…、といふやつだ)
酒に限らず。バンドをやつてゐた頃は、數十萬圓のギブソンやリッケンバッカーのギターを奬學金などで買つたりした。他にも、ダンヒルのライター、アクアスキュータムのトレンチコート、モンブランの萬年筆、マッキントッシュのデスクトップPC…。枚擧に暇がなく、基本的には浪費家なのだ。
ところが一方では、スーパーマーケットに食料調達へ行つた際など、數十圓でも安い惣菜を手に取つてしまふ。大學で使ふ教材は、生協で買ふと高いから、といつてネットで中古を漁る。そんな感じだつた。
本題に入る。私は風呂が嫌ひだ。なぜなら、非常に面倒くさいからである。
まず脱衣所で服を脱ぐ。そして風呂場にゆき、頭から順に體を洗ふ。此れがとても疲れる。そして風呂場から出て體を拭き、また服を着る。此の一連の動作が億劫で仕方がない。
さて、此れから風呂に入らなければ、といふ時には、まず考へる。入らずに濟ますことはできないか、と。出かけたり他人と會ふ日には必ず入るやうにしてゐるから、入らないといふ時には自ずと家から出ずに引き籠もることになる。
さらに云へば、私は湯に浸かることは嫌ではないが、殆どシャワーで濟ませてゐる。朝は湯に浸かつてゐる時間が無いからだ。シャワーのみで15〜20分のうちに濟ませるやうにしてゐる。
稀にうちに友人が遊びに來て酒を飲んだりして、泊めてやることがある。だいたい、醉つたまま寢てしまふのだが、翌晝にもぞもぞと起き出して、シャワーを浴びたいなどと云はれる。
ところが私の個人的な主義で、風呂場に他人を入れない、といふのがある。また、他人の家の風呂場に自分が入ることもなるべくしない。理由は自分でも解らないのだが、言語化できない嫌惡感があるのだ。
なので客人には申し譯ないが、一緒に錢湯に行かう、とか云つて家の風呂には入れてやらない。客人の分の金を拂つてでも錢湯に行く。
その日もそんな感じで、友人と錢湯に行つた。錢湯のシャンプーは髪がキシキシするし、知らない他の客も邪魔くさいが仕方ない。
數か月振りに湯に浸かる。肩まで浸かると、體中が湯に温められて氣持ちいい。體の中にあつた何か、慢性疲勞とかさういふ類ひの何かかな、が解放されてゆく感じがする。檜の廣い浴槽の質感も好きだ。兩脚を伸ばして、私もすつかり滿喫してゐた。
露天風呂に移る。まだ少し寒い季節だつたから、火照つた體を冷ますのに丁度いい。岩風呂に湯氣が立ち、晝間の明るい時間でも幻想的な雰圍氣である。そして湯に浸かる。こちらも温かく氣持ちいい。
そんな感じで湯に浸かつたり、出て冷ましたり。のぼせるまで繰り返した。
數日後の休日、晝過ぎに起きた私は、いつものやうにシャワーを浴びて出かけようと思つた。その刹那、先日の錢湯での氣持ちよさがフラッシュバックして、湯に浸かつてみたくなつた。
「たまには自宅の風呂でも湯を張つてみるか」
と云つて、お湯張りボタンを押してゐた。いつもは億劫で仕方ないのに、この時は少しわくわくしてゐる私がゐた。
風呂が沸いたので、體をシャワーで輕く流してから、浴槽へ入つてみた。やはり温かである。ふつとひと息ついて、しみじみと肩まで浸かる。
ところが數分もすると湯が冷めてくる。ぬるいな、と思つてしまつたら最後、微妙な氣分になつてしまつた。
あゝ、追ひ焚きはしたくないな。ここで例の貧乏性が、瓦斯代の馬鹿にならないことを思ひ出させる。躊躇してしまふ。しかしぬるい。
結局、浴槽から出てシャワーを體にかける。あゝ、温かい。そしてそのまま頭や體を洗ったあと、再びぬるい浴槽に戻ることはない。
獨り暮らしの風呂。たつた數分のために湯を沸かすのはやはり勿體ないと思ふ。例えば家族や戀人などと同居してゐる場合などには、湯を張り追ひ焚きをするのも普通なんだらうが。
さう思つたとき、あゝ、私はいつまで獨りぼつちなんだらう、などと悲觀しつゝ、それでも私は獨り暮らしが好きだ。シャワーで濟ませる氣樂さ、自由氣儘さこそ、私の性に合つてゐる。
でも、たまには、湯を沸かすのも惡くない。あとでそんな氣もしてゐる私である。
「獨り暮らしの風呂」完
令和5年3月21日
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