家について 後篇
大學への進學が決定し、遂に私は獨り暮らしを始めることになりました(其れ以前の遍歴は前篇を御覧下さい)。既に此の時、實家での生活に滅入つてゐたし、早く自由な暮らしがしたいといふ願望がありました。
私は宇都宮大學の建築學科へ入學しました。當時の私の漠然とした夢の一つとして、自分の家を自分で設計したいといふものがありました。其れが建築を志した所以です。希望も膨らんでゐました。
ところが、此れも父の暴力の一つですが、大學の寮へ入ることを勝手に決められてしまつたのです。後期入學の爲、時間が無かつたことが云ひ分でした。自分の家に友達を大勢招いて莫迦騒ぎをしたり、あわよくば女の子を家に招いてイチャイチャしたり、といふ私の空想は入學する前から諦めなければなりませんでした(實際、實現しませんでした)。私はとても厭でした。
獨房のような約五畳の部屋に初めて入つた時、私は絶望し、今後四年間の不幸を呪ひました。厭だつたことの一つが部屋の狭さ、そしてもう一つはプライバシーの無さでした。
結果的には四年間の大學生活を此處で暮らしまして、良い事も辛い事も、樣々ありました。
入學後すぐに友達が出來ました。彼等とは四年間良い關係を築くことが出來、大學卒業後も大洗へ日歸り旅行をしたりしてゐます。
大學の敷地内に在つたことから、教室迄の所要時間が五分であつた事も良かつたことの一つでした。授業の合間に友人を招いて酒盛りをした事もあります。
此の頃から、私は本格的に音樂に取り組むやうになりました。「眠れない夜」「雨」「オスプレイ2」「副將軍」「カンパリソーダ」「良いと思ふ」「スロット三昧」「訣別」等々、擧げればキリがない數々の名曲は此の部屋で生まれました。此の部屋で私が感じた喜び、寂しさ、そしてあらゆる感情は此れ等の曲の中に生き續けてゐます。
當時、私は天狗黨といふ傳説的なバンドをやつてゐました(上記の曲は天狗黨でも御馴染みのナンバーです)。バンドのベーシスト、某は頻繁に私の部屋に遊びに來ました。そしてたわいもない話をしたり、一緒に曲を作つたりしました。
そんな風に學校やアルバイトや音樂に精を出すうちに、寮の連中と疎遠になつてゆきました。多分私だけでなく皆がさうでした。結果、何十年も續いてゐた寮祭(褌姿で神輿を担ぎ、宇都宮市内、大學からオリオン通りの方までを練り歩く莫迦みたいな行事)が私の代で終了しました。先輩達には申し譯が立ちませんが、個人主義の時代がさうさせたのでせう。
そんな感じでしたが、大學卒業と同時に此處を出ました。眞つ白だつた壁紙が、四年間の喫煙に因つて眞つ黄色に汚れてしまつてゐました。
大學を卒業し、既に建築への興味を失つてゐた私は某企業(電機屋)に就職しました。其れから御盆休みの頃まで、新入社員研修と稱して東京都大田區の大森といふところに住みました。
會社が用意したマンスリーマンション「スカイコート」は大森驛から徒歩五分の良き場所にありました。約六畳の部屋でしたが、狭いことには慣れてゐましたので平氣でした。家賃は二萬圓でした(詳しくは後述)。
偶然ですが、私の部屋は角部屋で且つエレベーターに接し、隣り合ふ部屋がありませんでした。なので、夜中にギターを彈いても全く問題になりませんでした。「電話」「うさぎさん」「アールグレイよりもダージリンの方が好き」等々の樂曲(今、まさにアレンジを練つてゐる新曲です)が、丁度今から一年位前ではありますけれど、此の部屋で生まれました。
當時は毎週金曜日、蒲田や大森で飲んだくれてゐました。土日は上野や六本木の美術館や澀谷のレコード店を徘徊したりして、東京暮らしを滿喫しました。
また、此の頃は尻のデキモノ(粉瘤と云ふらしい)の治療の爲、病院通ひをしてゐました。粉瘤が破裂し、血と膿で染まつたシーツの臭ひを忘れることは出來ません。
研修が終はり宇都宮へ歸還する迄、樂しく暮らしました。下の寫眞は大森の某喫茶店での寫眞です。ドラマの撮影等にも使はれた場所ださうです。
宇都宮への歸還後に住んだ家は、職場近くの木造アパートです。會社の寮といふ名目で、實際は借り上げられたものです。
入社前の時點で、配属後に寮に住むかどうかを囘答しなければなりませんでしたが、其の當時は自分が何處に配属になるかも決まつてゐないので、當然の事乍らどんな家かも知りません。實家から通ふ豫定(其れすら分かりませんが)の人以外は、寮を選擇せざるを得ない狀況でせう。家賃は二萬圓を自己負担、其れ以外を會社負担、です(前述のマンスリーマンションも同樣)。家賃の安さを云はれ、貴方が此れから住む家は此れです、と一方的に指定されてしまうのです。
私の與へられた家は居間12畳の1Kでした。其れ迄の監獄のやうな家よりも數段格上な氣がして、嬉しかつたです。窓が普通のものよりも大きかつたので、特別良いカーテンをオーダーメイドで誂へました。五萬圓程かかりましたが、長く住む豫定だつたので妥協しませんでした。
ところが、住んでゐるうちに問題が顕在化してきました。断熱性が非常に惡かつたのです。夏は暑く、熱中症になりさうでした。冬は外にゐるのと變はらぬ極寒でした。部屋の廣さが空調の効率の惡さを齎しました。私は身體的に疲弊してゆきました。
そしてもう一つの大きな問題は、騒音でした。當初、私がギターを彈いたりステレオで音樂を聴いたりしてゐた爲、隣の家から苦情が來てしまいました。然し隣の家の生活音だつて、私には聞こえてゐるのです。其の度に、また壁ドンされたのかしら、と氣が滅入りました。一切の音がしないやうに息を潜め、自宅でありながら圖書館にゐるやうな氣分でした。私は精神的に疲弊し、すつかり參つてしまいました。
心身共にくたびれた私は、會社の家賃一部負担を放棄してでも、此の家をでなければならない、と心に決めました。會社の人達は經濟的な面を心配し、私に忠告してくれました。でも其の都度、私はかう云ひました。
「自分の幸せは他人から與へられるものではなく、自ら手に入れてゆくものです」
さうして引越したのが今の家です。不動産屋を廻り血眼で探した甲斐あつて、なかなか良い家を見附けることが出來ました。家賃六萬圓の2LDK、RC造なので断熱性、防音性共に問題ありません(前の家と比較すれば、ですが)。七階に在り、景色も良いです。
近くに小川に沿つた遊歩道が在り、散歩に丁度良いです。近所にパン屋や居酒屋、郵便局等が點在してゐるので不便もしません。何より、以前よりも更に職場に近くなつたのが良かつたです。
そんな譯で、カーテンのサイズは合はなくなつてしまいましたが、今のところ滿足出來る家に住んでをります。時間を經てゆけば不滿點も擧がつてゆくかもしれませんが、さうすればまた引越せば宜いのです。
最後に、數度の引越しを手傳つてくれた友人達への感謝を述べつゝ、終はらうかと思ひます。大學寮脱出以降の引越しの全てに於ひて、友人達の助けがありました。彼等がゐなければ今頃だうなつてゐたか、わかりません。本當に感謝してゐます。
此の文章を讀んだ貴方も、引越しの經驗がきつとあるでせう。或いは經驗が無かつたとしても、今後きつとある筈です。そんな貴方の幸ある引越しライフを期待します。
令和二年七月一日
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