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川澄氏と歴史 第一章 常陸大掾篇 承平天慶の亂

 日本といふ國の中で家系・血筋の話になると、決まつて擧がる言葉が「源平藤橘」でせう。此れはどういふ意味かといふと、現在の日本人の先祖は元を辿れば必ず此の四氏族のどれかである、といふことらしい。さういふ説を唱へる人もゐるみたいですが、本當にさうでせうか。さうかもしれませんね。

 794年に奈良から京都へ遷都したことで有名な桓武天皇といふ人がゐます。其の孫(曾孫といふ説もある)である高望王(以下、平高望)が平朝臣を賜與され、平氏(高望王流)を名乘りました。實際には他にも樣々な流派がありますが、平氏で有名な人の多くは此の高望王流です(多分)。
 平高望は上總介を任官し、關東へ下りました(通常、國司は上から守、介、掾(大掾・小掾)・目(大目・小目)の四等官です。上位國である常陸國、上野國、上總國は親王が國主(常陸守、上野守、上總守)を務め、現地に赴任はしません。よつて國府の實質的な長官は常陸介、上野介、上總介でした。平高望は現在で云ふところの千葉縣知事みたいな感じでせう)。平高望と其の息子達は、任期が終はつても關東に殘り、土地を拓いて力をつけ、武士團を形成しました。

 そんな感じで高望の息子達の代になると、長男の國香は常陸、次男の良兼は上總、三男の良將は下總、四男の良繇は下野、… といふやうに關東各地に勢力が廣がります。
 しかしそんな折、良將の子、將門と國香、良兼らとの間で爭ひが起きます。此れが所謂、承平天慶の亂(平將門の亂)です。其の所以は分かつてをりませんが、擧げられてゐる説は

・良將の遺領を國香や良兼に横盗りされた
・源護(前常陸大掾) の娘を奪ひ合つた
・源護の縁者との爭ひ

等々であります。
 かういふ風に書いてゐる以上、私の豫想も擧げなくてはいけませんね。私の豫想は以下。

京にゐた將門は關東(下總)の領地を國香、良兼に奪はれ、恨んでゐた。
 ↓
源護の娘(三人ゐたらしい)を娶りたかつたが、彼女らは國香、良兼らに嫁ぎ、將門は彼らも恨んだ。
 ↓
源護と平眞樹(將門と親戚ではないらしい) との領地爭ひに介入、源護を敵に囘す。
 ↓
源護の娘を娶つてゐた國香、良兼らとも敵對。
 ↓
戰爭開始

なかなか筋の宜い豫想ではありませんか?

 戰ひの經過は省きますが、將門の軍勢は強かつたやうで、源護の子、扶が討死、國香が燒死しました。
 源護は將門の暴虐な振舞ひを京都の朝廷へ報告、將門は尋問を受けましたが、のちに赦され、なんやかんやで逆に勢力を擴大、將門の威勢は關東一圓に轟きました。(此の頃、良兼は病死)

 或る時、藤原玄明(土豪。「基ヨリ國ノ亂人タリ、民ノ害惡タルナリ」とある)といふ人が將門を頼つて來ました。玄明には脱税、横領の罪で逮捕狀が出てゐましたが、將門は玄明を常陸國府に引き渡さず常陸へ出兵、合戰となりました。將門は少ない軍勢ながら壓勝したさうです。
 或る資料によると、
「藤原維幾(當時の常陸介)の子爲憲が公の威光をかさに着て玄明を壓迫してをり、玄明の愁訴によつて事情を確かめに常陸國府に出向いたところ、爲憲は平貞盛(國香の子)と結託して兵を集めて挑んでまゐりましたので、此れを擊破したのでございます」
といふ發言があるさうです。此れは平貞盛の陰謀かもしれませんね。平貞盛は國香の息子、國香燒死の際京にをりましたが、急遽關東に下り良兼らと共に將門と戰つてゐた人です。
 しかし理由はだうであれ、常陸國府を占領したことは即ち朝廷に弓引くも同義ですから、將門は遂に謀反人となつてしまひました。(此れ迄はたゞ單に一族内の私鬪でした)

 この際、側近の興世王(コイツもロクでもなささうな人です)が
「案内ヲ檢スルニ、一國ヲ討テリト雖モ公ノ責メ輕カラジ。同ジク坂東ヲ虜掠シテ、暫ク氣色ヲ聞カム。」
と將門をそそのかし、將門は遂に關東を征服する野心をもつに至りました。其の後、結果的に制覇することになり、「新皇」を名乘りました(有名ですよね)。

新皇將門による諸國の除目と素性
 下野守:平將頼(將門弟)
 上野守:多治經明(陣頭・常羽御廐別當)
 常陸介:藤原玄茂(常陸掾)
 上總介:興世王(武蔵權守)
 安房守:文屋好立(上兵)
 相模守:平將文(將門弟)
 伊豆守:平將武(將門弟)
 下總守:平將爲(將門弟)

 將門謀反の報はすぐに朝廷にもたらされました。朝廷はただちに參議藤原忠文を征夷大將軍に任命し、將門追討軍を派遣しました(藤原忠文が到着する頃には、既に將門は討死してゐましたが)。

(同時期、西方で 藤原純友の亂 が發生。平將門の亂 と合はせて 承平天慶の亂 と一般的には云ひます。傳説では、比叡山にて將門と純友が結託したといふ話もあるとか。東西挟み擊ちに對し、朝廷は恐怖したらしい。
 因みに、のちに第一次世界大戰が起きた時、ドイツ帝國陸軍參謀本部が發案した對フランス・ロシアの二正面戰爭の對應作戰が シュリーフェン・プラン(Schlieffen-Plan) 。これも結果的に失敗しますが、それくらゐに挟み擊ちは不利な狀況だといふことです。かなり蛇足)。

 一方、調子が良かつた將門ですが、平貞盛と藤原爲憲の行方を探すのに時間を浪費してゐました。其の後兵達を自國へ歸してゐたそんな折に、貞盛と爲憲が軍を集結させてゐることを知ります。時期を逃しては不利になる、と判断した將門は、寡兵を率ゐて最期の戰ひに挑みました。

 將門の軍は數が少ないながらも懸命に戰ひ、もう少しで勝利といふところでした。しかし突如風向きが變はり、貞盛と爲憲の軍は勢ひづき反擊に出ました。奮戰するもむなしく、遂に將門の額に矢が命中、討死しました。

 平將門は最初期の武士團の棟梁として、愚かな謀反人として、或いは怖ろしい怨霊として認知されてゐると思ひます。人によつて其の認識やイメージは異なるでせう。私の個人的な印象は、戰ひに至る過程や經過を取材するなかで感じられる人間らしさ、といふものが強いです。

 …

 將門の死後、其の勢力は急速に衰へましたが、一方で勝利した貞盛は關東に土着し勢力を擴大させました。系譜を辿ると、貞盛から伊勢平氏(平家。平清盛が武士で初めて太政大臣になる)や北條氏(鎌倉幕府執權家)、等が出ます。そしてこの文章の主題である常陸大掾家は貞盛の弟繁盛から出てゐます。

次囘は其の常陸大掾氏について書きます。

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