肉体を脱ぎ捨てる未来(とき)
私は、祖父と祖母を尊敬している。
二人が亡くなって数年経つが、今でも私の心を掴んで離さない。
いつだって思い出すどころか、まるで一緒に居るかのようだ。
さて、そんな祖父と最後に会ったのは、祖父が亡くなる数カ月前。
まだ、幼稚園に入園する直前の娘と二人で、実家に帰省した時の事だ。
私と娘が自宅に戻る時、祖父は玄関のあたりに椅子を置いて腰掛け、私と娘が靴を履く姿や、手荷物をまとめる様子を眺めていた。
私が祖父に向かって
「じゃぁ、また来るね」
と言った時の、祖父の姿はこうだった。
『無』
まさに無の表情で、私に三回程、深々と頭を下げた。
その数カ月後に祖父が亡くなったと知らせを受けた時は、実は妙に納得していた。
祖父はあの時、自分がもうじき死ぬことを、感じていたのだろう。
法要が済んで落ち着いた頃、私は祖母にこう聞いた。
「人が死ぬ時は、その本人は分かるのかな?」
祖母はこう答えた。
「うん……。やっぱり、自分の事だから、分かるんだろ……」
かくいう祖母は、昔から
『私の気持ちはいつでも30歳』
『私の目標は、誰にも世話にならず、ある日ポックリ逝くと決めている』
と、よく満面の笑みで言っていた。
その『ある日ポックリ逝く』という未来のビジョンを、タイミングを、全て祖母が自分で決めたのだろう。
祖母は祖父の一周忌を無事終えて、親戚や長年お世話になった人達に挨拶をして周り、ある日、ポックリ死んだ。
誰だって、本当はこうだ。
出会う人や起こる出来事を、人生の細かなタイミングを、在りたい自分を、全て自分で決めている。
もう既に在る自分が未来で、それと重なった時、『今』になる。
私は、祖父と祖母の穏やかさや、元気に笑った顔、ちょっとイライラした時の顔も、優しい手も、全部大好きだったが、肉体はそれほど重要ではなく、それを脱ぎ捨てる時の、自分の肉体に対しての感謝の気持ちと、潔さが大切なのだろうと思う。
私もいつか、自分の肉体に盛大に感謝をしながら、潔く脱ぎ捨てる。
気持ち良さそうだ。