生きている途中であることの軽やかな肯定 -「永遠のソール・ライター」写真展レビュー
ソール・ライターの名前を知ったのは2年ほど前だ。特に目的もなく青山ブックセンターに寄ったとき、入口近くのイベントコーナーに、赤い傘をさして雪道を歩く人が表紙の本が目に入った。その赤は、湿った雪の匂いのする水分を含んだ赤で、そういえば赤というのはこういう色だったよなと思った。知っているはずのものを、初めて見るもののように見せてくれた。
その本をぱらぱらとめくりながら、写真もいいけど、ソール・ライターという名前がいいなと思った。ソールもいいしライターもいい。だからソール・ライターなんてものすごく素敵な感じで、音の響きもカタカナ読みから連想する意味も楽しい。
唯一(ソロ)のたましい(ソウル)で、火を灯すもの(ライター)。でもほんとうはただの靴底(ソール)で、もっと軽い(ライター)。
そんなことを思いながらも、立ち読みですませてしまったのは、回顧展がすでに終了していることを知ってがっかりしたせいかもしれない。もしくは、その提示の仕方が、あまりにもさりげなかったからかもしれない。言ってもそれはただの傘だった。そしてすっかり忘れてしまった。
その赤い傘が表紙の本『ソール・ライターのすべて』を買ったのは、半年ほど前のことだ。今度は日比谷のHMV&Booksをやっぱり目的もなくぶらぶらしていて、その表紙が目に入った。そして、また同じことを思った。「そういえば赤というのはこういう色だったよな」
その色の印象が強かったせいか、ソール・ライターの写真の、あの独特の軽みは色彩の力なのだとずっと思い込んでいた。だから今回、展示会の会場に入ってすぐのところに展示されたモノクロ写真に同様の軽みがあるのを見て、驚いてしまった。大きなプリントで見ることで、やっとその構図の妙に気づいた。主題の対象というものが仮にあったとして、それ以外の占める面積が大きくて、重心が逃げている。それで、重力の法則が写真の中ではほんの少し弱まって見える。
雨、雪、水滴、傘、ガラス、その反射、光のにじみ、壁の質感の変化。毎日、自宅のアパート周辺をうろうろしていた人間にしか見えてこない、ありふれたもののわずかな揺らぎが写っている。意図的にそういうモチーフを選んでいたというより、移ろいやすいものにほとんど自動的に感受しているように見える。その繊細な感覚が捉えたイメージは内省的で抑制がきいているが、同時にその圧倒的な発色にはポップな華やかさがある。
ソール・ライターの写真が持つ軽さが、色だけでも構図だけからできているわけではないことをはっきり認識できたのは、再上映中のドキュメンターリー映画を観てから街に出たあとのことだった。
いいものを見た感覚が残っている今なら、いい感じのそれらしい写真が撮れそうな気がして何枚か撮ってみた。そのうちの数枚は、ソール・ライターっぽいと言えば言えなくもないものだった。練習すればもっと寄せることはできるかもしれない。でも、自分が撮ったそれっぽい写真は、確かに軽いけどそれだけだった。空っぽだった。
ソール・ライターのドキュメンタリー映画は、本人がカメラ越しの監督と話をしている場面で終わる。編集前の映像を観ながら、結構いいかもねなんて言いながら、このあと編集作業をするであろう監督に向かって最後にこう付け加える。
深刻なところは少なめに。
生きていれば深刻にならざるえないこともある。それをわかったうえで、軽やかな提示を選ぶ。
ソール・ライターは、最後に見つけた結果だけを切り取るのではなく、それをどこからどんなふうに見つけたのかという過程を一枚に収める。固定された美しさではなく、次の瞬間には別のものに変わってしまうものを写す。それは、生きている途中である私たちの不確かな日常を軽やかに肯定する。
・開催期間:2020/1/9(木)~3/8(日)
・会場:Bunkamura ザ・ミュージアム
*
再上映中のドキュメンタリー映画は展示会と同じBunkamuraで、1/30(木)まで(Amazonでも借りられるけど)。2013年に亡くなってしまったので、このドキュメンタリーの続編はないと思いますが、ただひたすらソール・ライターの写真が映し出されるだけの100分とか観たいです。展示会のプリントも良かったけど、その会場の一角で白壁に映し出されていたカラースライドも素晴らしかったです。
(Reference)