はじめて人をころした
はじめて人をころした。
これまで誠実に、誰にも恨まれることなく生きてきたつもりだった。
親とすら喧嘩らしい喧嘩をしたことがなく、
先生に怒られたりもせず。
親友だと自信を持って呼べるようなヤツはいないけど、
友達ともそれなりに上手くやってきた。
上司に怒られたことはあったけど
上司ってやつは怒る生き物だから仕方ない。
社会の荒波に揉まれながら、
自分を大切にするために周りを大切にして、
誰からも傷つけられぬよう、
誰のことも傷つけないように生きてきた。
それなのに
初めて、ヒトを、殺した。
何気ない今日のはずだった。
なんでもない、昨日と同じ今日だった。
耳に染みついたアラームの音で目を覚まし
朝が来たことにいつも通りに絶望して。
今日という日が始まったことを受け入れられずに
スマホを無意味にいじって、
興味もないのにニュースを確認して。
社会は今日も働いていることを実感して再び絶望する。
2回目のアラームが急かしてくるから
仕方なくベッドから這い上がる。
洗面台まで壁をつたいながら歩いて
水を顔にぶつける。
すると
急に目が冴えてきて
今日を始める覚悟ができる。
始めてしまったのだから、と潔くパンを焼き
その間に野暮ったい服に着替えて
僕という個性を殺し切ったところでパンが焼ける。
パンにジャムを塗っていたら手が滑って床に落ちて
当たり前のようにジャムがついている面が床についているのを見て
軽く5回は世界を恨む。
一瞬迷って
自分の機嫌を取るために電車を遅らせてもパンを焼き直すことにする。
またパンをセットして
その間にまた洗面台で今度は寝癖を直す。
パンが焼ける景気のいい音が響いたのを聴いて
いくらが気分が戻ってジャムを塗り、牛乳を飲みながらパンを食べる。
食べ終わった食器をとりあえず水につけて
決死の思いで家を出る。
いつもの道をいつもよりも少しだけ早足で歩いて。
いつもならすれ違う郵便のバイクが見当たらず、違和感を感じて。
パンを落としたことを思い出して憂鬱になる。
いつもと同じ改札を通っていつもと同じ列に並ぶ。
いつもよりも駅のホームは混んでいて
十数分時間がズレるだけでこんなに人が多いのかとほんの少しだけ驚いて
運よく前から2番目に並べて、
さらに運が良かったら座れるかもなんて考えながら
スマホをいじりながら電車を待っている。
後ろに並ぶ人が増えていく気配を感じながら
タイムラインに流れてきた特に興味もない漫画を読んで時間を潰す。
そうしているうちにホームのアナウンスが電車が来ることを伝えてくれて。
いつも通り、黄色い線まで下がれと言ってくる。
後ろから不意に圧を感じて
スマホを落としそうになりながら前につんのめる。
「うわっ」という声が聞こえて、
視線を上げると、知らない人と目が合った。
後ろ目に僕を見ていたその人は
次の瞬間にはいなくなっていて。
僕の視界は無機質な銀色と緑色に覆われた。
なにがおきたのかわからなくて。
映画でしか聞いた事のない鋭く大きな金属音と
後ろからの悲鳴で意識が戻ってくる。
はじめて
ひとを
ころした。
自分がやったのだと、はっきりとわかった。
手に取るように。
まるで明確な意思があったかのように。
疑いようがなく、僕が殺したのだと、わかった。
頭が真っ白になった、とはこういうことを言うのだろうと
人生で初めて、真に理解した。
真っ白な頭の中で
あの人を殺したのは僕なのだという事実だけが書き記されていて
そこから目を背けても他には何も書いていなかった。
初めてヒトをころした。
咄嗟に顔を上げて、前を見た。
そこにはもう、逃げられない鉄の壁が、
この世界から逃げる術を奪うかのように
長く、長く続いていた。
初めてヒトを殺した。
たった一言のこの事実に
膨大な情報が詰め込まれているのがわかった。
ただ、その情報を処理しきれるほど僕の脳は優秀じゃなかった。
大量の情報を前に、そこにあると言うことだけを認識して。
それ以上何も、考えられなかった。
考えなければいけないことはたくさんあるはずなのに、
考えられるのは
考えなければいけないことがたくさんある、と言うことだけだった。
僕は
初めて人を殺したのだ。
※この物語はフィクションです。
澄田 美稲
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