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反出生主義者に柴犬を

反出生主義。

この言葉をご存知でしょうか。

すごくざっくりいうと「この世は辛いことばかり。希望や幸せなんて『まやかし』で、一瞬で過ぎ去ったかと思えば、その後に長い長い絶望に苛まれることになる。社会や政治に期待もできず、年々状況は酷くなるばかり。会社も個人も自分のことを守るだけで精一杯。こんな辛いことばかりの人生であれば、いっそ生まれてこなかった方が良かったのでは」というものです。

私も大なり小なり同じことを思っていて「あと50年以上もこの世界で、この人生を続けるのか。長いな。とても長い。そんな長い時間、別にいいんだけどな」となんとも虚しい気持ちになっていました。

この反出生主義という考え方自体は令和の今に始まったことではなく、また私が厨二を拗らせているわけでもありません(いや、厨二ではあるかもしれませんがそれとこれは別の話)。
デイヴィッド・ベネターは『生まれてこないほうが良かった』を記し、太宰治は「生まれて、すみません」といい、夏目漱石は妻へ「人間は生きて苦しむための動物かも知れない」と手紙を書いています。

また反出生主義、といってもこの考え方をもっている人も一枚岩ではなく「そんな世の中に自分の子供を産む落とすなんて、自分の子供が可哀想すぎてちょっと考えられないなぁ。他の人は好きにしたらいいと思う」という考え方や、それがちょっとエスカレートすると「だからみんな子供を産むな!ありとあらゆる生を認めない!」というものなど、グラデーション状にいろいろあります。

私はまだペーペーの反出生主義者なので、「自分の子供は多分産まないだろうな、哀れすぎるだろ」と思う程度で、なんの疑いもなく産める人は相当幸せな人生だったんだろうな、と思っています。

とはいえ子供を産んだ方、産もうとしている方を否定する気は一切なく、むしろ尊敬しています。
どんな経緯で産んだにせよ、産んだ子供がどんな性格でどんな人生を送ったとしても、子供は社会の宝です。どれだけドライに考えても、子供全員が次の世界を担う、本当に貴重な存在でしょう。
だからお子さんのいる家庭は社会で大切に育てるべきですし、また私個人としてもWriters-hubとしても、協力は惜しまないつもりです。
それが自分が産まない分、産んだ方に対するケジメであり敬意と思っていますし、反出生主義である自分ができる、今の世論・社会へのスタンスのつもりです。

ささやかですけどね。


と、まあまあブラックというか、あまりシラフの場では受け入れられにくいだろうなあという死生観をもっている私だったのですが、状況が一変しました。

妻がどうしても欲しがっていた、犬を飼ったんですね。

柴犬です。2匹。
10ヶ月くらいの、なぜか売れ残っていた子たちです。

この子たちを飼ってから、反出生主義がちょっと薄らいだんですよ。
わんこたちは、結構全力で私を信頼してくれていますし、何度かブリーダーさんのところで会っていた時の顔とずいぶん変わって、よく笑うんですよ。
また妻も以前にましてよく笑うようになり、平たくいうとすごく幸せを感じるような場面が増えました。

今までの短い人生で、特にこれといって「ああ、今、幸せだな」と思うことって本当に数える程度しかなかったのですが、ここ1ヶ月だけで何度か「これが幸せなのかもしれない」と思うことができ、そう思うにつけ「人生は長いけど、ただ思ったよりも移ろっていくものなのだな。だとするなら思ったよりも退屈しないし、そこまで悪くもないのかもしれない」と思えるようになったんですよ。

また自分の子供ではなく、わんこだったというのも反出生主義と高相性だった、というのはあります。

というのも、自分の子供は自分で産む選択をしたわけで、自分の意思でこんな世界に召喚してしまうことになるわけです。
その責任というか、頭の中で「どうしてこんな世界に産んだんだよ!」と子供に言われた場合をシミュレーションした時に「いや、うんごめん。ほんとごめん」「こんな世界に産んで、僕(私)が苦労するって思わなかったの!?」「思ったよ、とても」「じゃあなんで産んだのさ!」「ほんとごめん」みたいな問答しかできないよな。と思うわけです。

一昔前、それこそ30年前とかなら思わなかったんじゃないかな。まだ資本主義も貨幣経済もこんなに詰んでなかったし、問題だらけの社会であっても、少なくともそれが情報としてここまで出回るような社会じゃなかった。
なので、私個人は自分の親にはなんとも思っていませんし、むしろ感謝しています。こんな子で申し訳ない、とも。

その点わんこはいいですね。
すでにこの世に生まれてきてしまったので、そこに私の責任はありません。
どちらかというと救済に入るようなスタンスで接することができます。あくまで自分の心の中のスタンスの話ですよ。

あと人間って、言葉を話すじゃないですか。
助けてもらった恩なんか簡単に忘れて、すぐに不平不満を口にする。まあ私も親に対してそうだったので別に誰を責める気もないのですが、その点わんこは種族として違うので、分かり合えないことへの諦めもお互い早いですし、ギリギリ距離感を保ちやすいかなと。

私のわんこたちって、すごくストレートに「私が今生きているべき理由」を与えてくれる、そういう存在と捉えやすいんですよ。
だから私のこれまでも辛い人生も「この子たちのためだったのかな」と思うと報われる気になるのです。

まああくまで自己満足の話ですし犬たちからしたら迷惑な話かもしれませんが、生きる意味なんてそもそもないのだから、動機づけをするのは人生の主人公である私が勝手にやっていいわけです。

そういう意味で、柴犬には本当に救われました。
まだお迎えして1ヶ月もたっていないような状況での感想なので、これから十数年のうちにいろいろ思うところも変わるでしょうけども、「親孝行なんて、生まれてからの3年間ですでに終わっている」という救済の言葉があるように、すでに彼らには十分救われたな、と思っています。

あとはお別れまでの十数年の間、彼らに報いていかねばな、と自分自身の生きる意味を新たに、今日もお仕事を頑張ろうと思えるのです。


ここまでお読みいただき本当にありがとうございます。
ただこの記事は犬を飼う事を推奨する記事ではありません。おそらく犬を飼うって、とても大変な事だと思います。
人生の不幸を犬にも押し付けるようなことがないよう、自分だけが救済されるためではなく、今後十数年の覚悟をもって飼う事をおすすめします。

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