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認可と、自認と、おでんの話。 よしなしごと 2023/1/22
ぼんやり思ったことをぼんやり書きます
認可の話
システム開発において認可という考え方がある。一定の条件を満たしたときにのみ操作を許します、という話。システムで言えばログイン認証が通った人だけユーザーメニューが表示できます、みたいなこと。
僕はこの考え方を当たり前に人間関係でも適用している。何故ならそのほうが空間維持し易いから。その場の規律(秩序だっていればいいわけではない、混沌には混沌なりの規律がある)に即していないことがなければないほど、考えるべきことが減って楽になる。
僕は混沌としてるのは平気だし、何をされてもそんなに嫌にはならない(この表現にはかなり誤解を生みやすい)が、規律が乱れた空間だけは駄目だ。
僕の場合は下ネタが顕著だ。
過去コミュニティであった昔話をする会で、昔話として過去の性体験の話をしたり、懺悔できそうな空間で性体験の懺悔をすることはできるが、開かれた場で下ネタを言うことはできない。
聞くだけならできるが、店の雰囲気に応じて過度に笑ったり、微笑んで聞かなかったことにしてしまう。なぜなら規律をそれ以上乱したくないから。
でも自分の思ったことを堪えている方が苦しいから、それは制約かけないほうがいい、と思っている人もいるようだ。ヤックデカルチャー。
なんか「みっともない」という感情がセットになるっぽいのだけど、未整理なのでまたいつか。
そういや今気づいたんだけど、僕の認可条件の一つに「整理済の話であること」があるっぽいな
自認がINFJになった話
もともとINFPを自認してた、が、MBTIをちょっとかじって意味不明になっていた。INFPは内なる感情に従うが、正味自分の感情、よくわかんないのだ。
その場に合わせてあいまいに相槌を打つことはしばしばある。それは「相手が思ったこと」は、その根拠とは無関係に事実なのだから、否定したくないためである。必ず「前提」と「認知プロセス」があって感情として発露しており、そこの矛盾があるならまだしも、見えてないうちから「それはおかしい」と言えるはずがない。
なんだけれども、「前提」と「認知プロセス」に分解できるからこそ、自分の感情や感覚は信用しきれない。如何様にも脱構築してしまえる。茶葉の味だって人に解説されるだけで変わってしまうのだ。恐ろしいことに。
おかしいなあと思ってたおりにINFJの記事を見て、こっちのほうが当てはまるなと感じた。僕は確かに人を捉える時に、感情自体ではなく、感情が発生する構造を捉えるのが好きだ。ストレングスファインダーも構造がわかるから好きだ。構造を人に伝えるのは難しいから、感情の話としてシンプルに整えがちなのだけど。
他にも色々あってそうなったんだけど、疲れたのでこの辺で別の話。
小田原おでんの話
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毎月のように小田原駅前のおでん屋さんに通っている。僕は「温泉に通いたいから小田原に引っ越した」としばしば嘯いているが、実態としてはこのおでん屋なのかもしれない。
何がいいのか言語化しようとしてもさっぱりわからない。もちろん神奈川の地酒もおでんも魚もうまいんだけど。別に店員さんとおしゃべりするわけでもない。でも他の店に行く気にはあんまりなれないのだ。
妥協の産物というわけではない。味覚遊びの楽しさを初めて実感させてくれたのがこのお店だ。
神奈川の身体にあった水で作られたお酒はだいたいうまいし、それでも酒蔵によって、あるいは製法によって表情を変えるのは大変面白い。そしていつものおでんは安心感をくれる。お店の雰囲気も程よく賑やかでよい。
もしかしたらだけど、実家住んでた時に初めて小田原で食べたお店がおでん屋だったからかもしれない。「快適なことを不要に動かす必要はない」という気質がここにも出てる。ウケる。