諦める恋愛に、当たり前さを感じているから。
理想は、理想のままに終わらせた方が、変に気負わなくていいし楽なように思う。人との距離感は、近づきすぎて冷めるよりも、ほんの少し遠い距離感のままで冷めた方が、至って何も傷つかない。今までの日常との誤差を、あまり生じさせないように生きてたい。
ある日、不意に「タイプだな」って、そう思わさせられる後輩の子がいた。でも、たとえそう思っていた自分が、確かにいたとしても「自分はそんなふうに思っているんだ」って、客観的に捉えるようにする。そこからは、なにも変わらないよう表に出さず、出来るだけ日常を変えないように過ごしてる。
自分は、こういう気持ちが誰にもバレないようにしたままでいたいと望む。こういう気持ちの在り方が、分からない人には、分からないと思うけど。少しでも、その気持ちが際立つアピールとかはしない。なるべく他人には公平に、平等に振る舞うようにしてるし。自分の私利なんか気にするよりも、他人から見られた自分が、いつもと変わらずにいられてるようにしていたかった。
何かしら、ちょっとしたキッカケでも作れそうだったとしても。そんなキッカケなんかを、わざわざ取りに行こうとはしない。そこから目を逸らすようにして接してることで、安心を覚えてる。
そうして作り出した、当たり障りのない日々を繰り返していたら、気がつけば、その後輩にも彼氏が出来てしまっているのが当然だろう。僕が過ごしている日々には、ちゃんと変わりがなさそうだが。誰かの日々には、ちゃんと変わりが出始めて。そういうのを見て「まぁ当然だろう」と、納得して思えるほど。僕が、ここにいなくとも世の中の恋愛なんて代替えで成り立つことさえ自負して。そうして僕自身は、あえてやらなかったことに、諦めをどこかに見出して、特別でないと自覚している自分を正当化するようにしている。
こうした心情なんか、簡単にまとめたら。「恋愛に託す望みなんて抱こうとしたくない」だろう。だからといって、人のそうした感情が全てがダメだとは思わないし、誰だって叶えば、初めは幸せには思えるはずで。ただ、それでも全ての誰もが幸せになると決まったように、保証されてる訳でもなく。今は上手くいってても、これから先にどうにもならない失恋があったりするだろうし。そうした上手くいくか、上手く行かないか、ギャンブルみたいな幸福の賭け事に、僕は不幸だって付き纏うのが当然なのだろうと思ってしまう。
なんとなく恋愛を出来てる自分が想像できない。リスクを負いたくない性格か、それとも諦めのほうが強いからか知らないけど。自分は、この不意打ちにでも喰らってしまう恋愛感情に関して、無頓着のままに過ごしていたいと思うほど、そのままの気持ちに飲まれたような意欲的な行動はできない。愛されてから、愛想尽かされるのは、それはきっと今よりも苦手な感情になる。
あの時、後輩に彼氏ができたこと、それを知ったからといって。別に僕は強い嫉妬も起きることがなかった。むしろ、諦める為のキッカケができたかのようにも思えていたくらい。そうした事実を直当たりにして、ようやく腑に落ちてくることがあって。それが「自分は恋愛対象とされてなかったのだ」という事実に嫌でも向き合えることで。ただ、こうした気持ちも、もう簡単に飲み込んでは、消化してしまうほどに慣れていて。
結局どんどん諦める恋愛の方が、僕には向いていくように思う。
悲しいとか辛いとか、そんな気持ちが激しく芽生えないのは。きっと始めから何も期待しなかったからだろう。キッカケを踏み躙って必死な努力もせず。そうして頑張らなかった結果には諦めがつけやすいから。ギャンブルのような感覚。大金を賭けなきゃ、スリルを味わえないように。得た気持ちも、損した気持ちも、そこまで賭けなきゃ味合わえないのと同じようなもので。
好きだとかそういうの、突拍子もなく湧き上がってくる癖に、その感情をそのまま撒いて育てたら、自分では処理もできない程の感情に育つのだろうと知っている。そうした、うんざりするモノだと分かってて芽生えてくる、求めてもない感情には嫌気が差す。
好きになるとかそういうのは、自分の中に、どうなるかも分からない種を撒いてしまうのと同じことだと思う。そんな気持ち、育むも、育まないも、それを決めるのは自分自身だけど。結局どちらを選ぼうが、経験上だと自分自身はなんら変わらない。だから頑張る必要もそれほど見出せない。
ただ、僕はそういう気持ちさえなければ、傷つくキッカケさえ何もなかっただろうって思えてきて。諦めることで、そんな自分の苦手な部分からは目が逸らさせるけど。普通とか、当たり前の幸せは、僕には当てはまらないような気がしてる。
諦めることを、当たり前だと覚えてきた僕にとって。日常か非日常の選択をするなら、なにもない日常的な私生活を選び続けていたいと思ってる。