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人生2周目って、単なる視点だけの違い。

2周目の人生は味わえないとしても、"2周目の視点"のようなものなら、味わえるかもしれない。

「人生は、一度きりだから。」
そんな言葉が、どことなく聞こえてくる。

そういった、どうしようもないことを僕は、あまり考えない。確かに「そうであったら、いいかもね」とは思える。もしかしたら、二回目の人生は認識されていないだけで。僕らには既に用意されているのかもしれない。ただ、その記憶が今に無いだけで。

でも、そんな根拠もないスピリチュアルのような話を、僕はあまり好んおらず。そういったものには、根拠性に欠けている上に、答えを出しにくいから。

2周の人生、人はなぜ、それを望むのか。ただ「時間が足りてないから」と願うのか。それとも、今この身と切り離して。別の体を、主体にし「第二の人生を送りたい」と目的にするのか。時間の不足や、体の入れ替えに関して、物理的な問題には現段階では不可能としか言えないが。

ただ単に、人生で得られる経験量を重点とし。違った視点から、この世界を味わいたいと思うのなら「第二の人生」は、現段階でも生み出すことは可能な気がする。

今見えている視点とは別に、今とは別に見える視点が有る状態を「第二の人生」と呼ぶのなら。

内面的に視点を増やすことで、
それらを体現することが可能でありそうだ。

というよりも、人生二回経験し、時間をかけることで体験的な知識量を2倍に増やすことが、人生二周目での目的なら。「人生経験」に対して、貪欲に、意欲的に吸収しようと積極的な姿勢でなければ、人生を二回も繰り返せたところで、無駄に送る時間潰しにしかならない。

大切なのは、結局一回でも、二回であれ。より濃厚な視点を手に入れる方が、遥かに時間を有意義に扱うことができると思う。つまり、人生一回きりの中で、内側に感じる視点を増やせてしまえば、それは、人生で二人分の視点を再現したかのような知見が手に入る。

先程にも述べたように、今とは"別"の視点を「2周目の人生」と呼べるなら。内側の視点を増やせば良い。

誰にでも出来ると思う、そして誰でも少しくらいは出来ていると思える。

方法として、自分が得た「経験」を、自分目線で考える視点と。客観的にみて他人目線で考える視点と。それらを二つ持てば「意見」さえも二人分に増えることになる。より良い答えとはなんなのだろうか、と考えることができる。

客観力は、内面にもう一つの視点を作り出すことだ。

要するに、人生の一回で得られる経験を、思考の中で分岐させることや、他人の思考に触れることで。ひとつの経験から得られる量や、質を2倍にも出来るかもしれない。それは、意識的に出来ることで、人生2回も繰り返さなくても出来ることだと思う。

既に、似たようなことを経験している。学校で学んだ授業のように、古くからある知見は使いまわされながら、現代にも生き続けていて。古人の経験は現代にも受け継がれながら、なお生き続けていて、それらを僕らは苦労すら経験していないが、答えなら知っているように。

「先人の知恵」と呼ばれるもののように、昔の方の話を聞けば、昔の時代の知見が手に入るように。自分を客観視することや、他者が感じているものに共感することで視点は手に入る。

人にはせっかく与えられた「思考」があるのだから、思考をそう言った「視点」に作用させることもできるのだから。「人生2周したい」そう思い、願うのであれば。意識的に、一度きりの人生で、二人分の経験的知識の獲得は可能でありそうで。

そういうのって、多分「客観力」と「共感力」と呼ばれるのが大切なのかもしれない。自分の中に、二人分の知識や、感覚を取り入れる。

「客観的」と「共感力」には違った効果がある、客観力は、論理的に自己を分析するのに対して。共感力は、情動的に他人を分析する力である。

感情や感覚の方が、実際の体験に近く、共感力は客観力よりも鮮明に体感できる。しかし、共感力は自分の感覚なのか、他者の感覚なのかを、区別できなければ意味がない。

「悲しい相手を見て、自分も悲しくなる」

このように、他者の感情部分が、自分の内側に流れ込んでくる状態。それって、自分の「悲しさ」ではなく、他者の「悲しさ」を自分の中に取り込んでいる状態である。

実際、このときに自身に悲しい出来事が起きたわけではなく、他者に起きた悲しい出来事で、悲しむ他人を見て。自身が心動かされている。そんな状態が、自身だけの視点ではなく、他者の視点を自身の中に芽生えさせている状態。「一人の視点ではなくて、他者の人生の一部を、自分の中に取り込んでいること」のようだ。

それが、つまり違った視点なのだ。

経験していないことさえも、自身が経験したことのように捉えられるのは。自分の視点だけの人生を送るよりも遥かに、増やされた視点であって、より濃密な時間を送ることができるのだろうと思える。

共感力はかなり、あなどられた力だが、共感力の高さが「優しさ」に繋がりやすい。共感は、「他人のことを自分のことのように感じる為に、他人を自分と捉える」それが優しさの原因だと思う。つまり、共感した相手を自分のように感じる為に、自分が自分に対して優しくしているようなものだ。

毎日、自分の体に悪いことばかりや、良いことばかりが起きるわけではない。他者に起きた悪いことや、良いことさえも共感して。他人を擬似体験が出来る人は、自身の人生の経験や、知識の増大にも繋げるのだろう。

しかし時に、共感力の高さは自らの首を絞める。

もしも、他者の感覚が、自身の中にも瓜二つとして存在させること。それを可能とする人がいるなら、人生での経験量は増えるのだろうけど。苦しみや、悲しみさえの感情も常に、他者から無駄に拾うことになる。だから、分からなければならない。一体それが、自分で自ら作った感覚・感情なのか、他者に作られた感覚・感情なのか。

"怒鳴る相手に、怯える自分の感情"
これは自分が感じている、怯えであって。
自分が感じている経験である。

怒鳴る人に、「なぜ怒っているのか」という相手の立場に立って考える視点が、共感なのだと思う。

相手に共感を働かせる人は「自己反省」する気持ちが芽生えやすく、反発精神が低い為に、自己肯定感も下がりやすくなるのだと思う。

視点を主体から、他者の内部情報の経緯に向けている。他者の怒りに反応して、自身の視点から、他者の視点に切り替えた状態では、自分の感情を作り出すのも困難になる。「なぜこの人は怒っているのか。」そうして人は、その人の立場に立って物事を考えられるが、自分の立場に立って物事を考えるのを放棄する。

人として「尊敬される人」とは、こうした自分視点と、相手の視点とを、切り替えることが上手いのかもしれない。いわば、人生の経験量の増大方法を無意識に取り組んでいて、実際に経験したことから自分視点と、他人視点、多数の視点を取り込み、かつ「自分の意見」を導き出しているのだろうと思える。


視点とは、結局バランスが大事なのだけれど。

そのうえで、この人生で視点を増やして、人生2周分くらいの知識を得られて何がしたいのか。僕は疑問に思う、結局は全ては終わりへと向かっていくのだが、知識や経験を知れたところで無に帰る。人に湧く、生きている上で、「知りたいことを知り尽くしたい」と思う根本的な「知識欲」なのかもしれない。

2周目の人生と考える理由の中に、「容姿が整っていれば」とか「賢くあればよかった」とか今の自分の手元にはないものを、来世に期待しているかもしれないが。それらについて、「なぜ、そうなりたいのか」と客観的に考えれば「幸せに生きてみたい」と言う、願望のような答えが導き出せる。

なぜ今、不幸だと感じてしまうのか、それについても、自身が感じている「劣等感」のおかげで幸福を感じられないのかもしれない。

手元に配られた手札が弱く感じることで、自分の人生に勝ち目がないと思わされる。この世の中には強弱のルールがあって、それは他者との比較によって発生していて「隣の芝生は青い」ように、自分と他人を常に比較する。

その為に、自分のヒエラルキーの位置を確立して。「もっと自分の手元に、良い手札であったらよかった」と思わされる。

2週目の人生に、幸せを求めたがるけど。

「2周分の経験」を得て、優越感に浸りたいだけなのだろうか。2周分の経験を得た自分の姿を、他人が見たところで結局は「どうでもいい」との感想しか湧かない。

自身が幸せになる為に「2周目の人生」を送ることって、無意味でしかなく。2周目の人生を送ることによって、得られた知識などを、その他の環境や、他者の人生の為に貢献することの方が意味がありそうで。

自己満足からくる、人の感情って。
本当の必要な要素を見抜くには、どこか欠けているような気がする。

そう思った時に、「2周目の人生」を求める理由なんてものは「幸福になりたい」からであって。「2周目の人生」を得るのが課題ではなく、いかに「幸福に近づけるか」が課題であるから。

幸福になる為に、何を頑張るべきなのか。そう言った視点に、目を向けることも大切だと。

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