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顔色を伺った、そんな生き方を長い間していた。
人の顔色を伺い、他者から好まれる生き方で。僕、自身の人生を生きていた。
一つ、僕の家庭は少し複雑であった。僕は親との血の繋がりがなかった。血の繋がりの無い親との生活で得た経験は、どれだけ血縁の無い家族が、血縁のある自然な家庭の形に近づけられるか。そんなコミュニティに属する技術を身につける必要があった。
自分は優秀では無い、むしろ人よりも劣っていた部類に居たことも原因となる。こういった人間には褒められるような一面や、尊敬される一面に、好まれた一面などがないから。そんな人に必要な要素は、人に気に入られて攻撃対象から外される。他人に、仲間意識を芽生えさせる。その技術が必要だった。
血の繋がりのある家庭ならば、親は、どんな子でも可愛らしく、遠慮なく親とも語り合える。産まれてからずっと家族として育つ者は、自然体の家族の中で育てるが。僕には産まれてからの一般的な家族の形は無かった。ある所の家庭に、途中参加したため、作られた家族では無く。これから作り上げる家族に部類される。
自然の家族を知らない、加工された家族の中で親密な人間関係を構築する事が最も肝心な課題であったから。自分は子供としての役割を果たすのが正解だったと思うが。
これから作り上げる家庭の中では、家族との距離感をまず作らなければならず。自身の立ち振る舞いをも考えなければならなかった。家族の中に、溶け込まなければ今後の長い家族生活は過酷なものになる。
家族の縛りとは酷なもので、切っても切れない。子供の内は生きていく為に、親に見放されたら生活もままならない。そんなに酷い家庭ではなかったが、常に一緒に居るのが家族なのだから。家族とは良好な関係の方が好ましい。
人の怒鳴り声が嫌いなのだ、作られた家族ではどこまで踏み込んで良いのか、基準すら分からなかった。どこまで親密に親と接することが正解なのか分からなかった。普通の家庭を僕は知らない、でも、普通の家庭に近づく事を求められていて。経験なんてことも、したことの無いものまで求められていた。
家族なら顔色を伺うことなど、必要ないはずなのだけど。そもそも元は他人、僕は愛されていても違和感を感じた。元は他人に、怒られても、より距離感を感じて拒絶されたと感じた。
親と、血の繋がりの有る兄弟は、子供としての立ち振る舞いが上手かった。だから、そんな兄弟を見て、僕もどんどん立ち振る舞いを正していった。「こうすることが正解なのか」「こうすることが家族っぽいのか」家族らしくない言動は違和感で。家族らしさの違和感に、僕は慣れるように自身を演じていった。
元から愛されていた兄弟は、愛される事に慣れていた。それだけのことで愛を素直に受け止められている。
ただ、この家族が嫌いだったのでは無い。家族から除け者にされたり、嫌われたくなかったのである。これから一生となる家族という存在を捨てきれなかったから。僕の存在が、家庭を破綻させるのは荷が重すぎる。今でこそ家族らしく僕も振る舞えていると思う。今は自然体のように振る舞えていると思う。
それでいて気が楽だと、思えている。
当時、家の中に居場所を感じられなかったが、それと同時に学校にも居場所は感じられなかった。学校という空間は、普通より劣るものに対しては厳しい環境だった。優秀さもない僕にとって、人と違う、劣ってる自分が他者から攻撃対象にされない為にも自分を綺麗に見せ、着飾った。
他人に嫌われると、ろくな事がなく。人は、嫌いな他人には攻撃的になっていた。他人に気に入られれば、他人からは一目置かれる、その事に気がついていた。だからこそ、自分を好きになる前に、他人に好まれる人物像になれるように、自分を他人視点で見て作り上げた。
人と話す時の態度、表情、声、仕草、性格。全て他人に気に入られる為に作り上げて、最も他人に気に入られる存在に、僕なりには近づけたと思う。僕は、あまり目立たない行動を心がけた。他人を目立たせる行動を心がけた。
上に立つ、目立つ奴には何処か才能のようなものが無ければ蹴落とされ、険悪な表情を向けられる。
そこで、皆んな自分自身の事が大好きなのだと知った。他人は、他人の事を簡単に否定するのだけど。他人は自らを否定する事はしない。他人は僕の事を簡単に否定してきたけど、否定された僕はヘラヘラと笑っていた。笑う、その武器は強い。ノリが良く見られ、楽しそうな雰囲気を簡単に作り出す。
子供なんて簡単だ、知的よりも情動的なのだから。
楽しい空気感を壊してはいけないのだ。子供は、自身が正しいと思い込んでいるのだから。僕が否定された時、負の感情を剥き出しにすれば、敵対視されかねない。仲間意識の強い子供の場合は特にそうだ、自身にとって都合の良い相手が仲間だと錯覚しやすい。子供が感じる、気の合う友達とは、自分を肯定してくれる仲間。
自分よりも優れた相手には、子供はよく嫉妬してた。勉強が出来る真面目な他人に対して「ガリ勉」だと。モテる容姿の良い相手には「ナルシスト」だと。レッテルを貼り、他人の評価を悪に見せて、自らの正義で正す。他人の足を引っ張る行為で、自分の価値よりか下に引き下げる。
大人になってくれば、そういった行為こそが、自分の価値を下げる行いだと気づき始めるが。発達途中の幼少期には、その行為が正しくない行いだとは考える力もないのだから、情動的に物事を判断して自己解釈で怒りの感情を、相手に向けてなだめる。優位に立てるようにと、ありもしない事でも自身を正当化する。
僕は優しいとよく言われた。優しい相手には優しいと褒める。優しいと褒める事に対して、他人は簡単に褒めてくれる。自分に優しく振る舞う人間に対しては仲間。自分の利益、そんな相手には攻撃をしてこない。害のない人間だと認識されてしまえば、仲間だと思われるのだから。仲間の内は守ってもらえたりもする。
やたらと正義感が強いのも幼少期だ。ヒーロー的存在に憧れる節があって、仲間が傷ついていたら助けたがるのだ。それは他人の為に動いているのではない、あくまでも自分が他人から「カッコいい存在」だと思われたい為に動いてくれている。そのことも分かっていた。
やたらと優劣を付けたがる。容姿、知性、才能、金で優位に立ちたがる。そして情動的に、劣っているものに対しては、何をしても良いと判断ミスをする。
劣っている事が"悪"に近しく成り立っている。イジメの発生源もそこから来る、劣っていて気の弱い相手には特に強気に出る。反撃してこない相手には遊び感覚で攻撃する。自分が悪だと認識はできない。
知性、それすらも欠けている環境で育てられて。そんな中で嫌われたとしても、なおも通い続けなくてはいけなくて。合わない環境に合わせる事、それが社会で生きていく為に必要な技術だと言われて。
それなのに、他者に合わせたまま社会に出たら、自分らしくない、個性が無いと言われるのだから。
求められる社交的な答えを、求められるままに答えるべきなのか。それとも、周りを気にせずに協調性を捨てて生きていくべきなのか。
共存の中で生活していたら、自分の思い通りに出来ないことの方が多い。自分の好きな事をしていても、批判される事も多い。他人の顔色を伺い、生きたところでも「自分らしく生きろ」と否定されるのだから。
共存はめんどくさく感じる。どうしても顔色を読んでしまう癖。それがある僕にとって、一人で生きていたら自分らしく生きれるのだ。相手が居なければ、自分の事だけを考えられて、そして自分らしく振る舞えるから。
必要性が無い時。それ以外は常に一人で過ごす。それでいても、楽しい。