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「最近の若者は...」の正体。

最近の若者は一体、何を失ったのだろうか。

一回り上の世代は、過去の経験を元にして、「最近の若者は...」と、今の若者を罵るような言葉を発言されるが。

それは、つまり過去に比べ、今に変化が起きているからこそ出る言葉。世の中は昔よりも確実に、良い方向へと向かっているからこそ、出るべき発言なのだと思う。世の中の味合わなくていい不幸は、次の若者には味合わなくて良い。そんな、良い風な世界を目指すからだと思える。

だからこそ、悲惨であった争いは日本で途絶えた。「戦争を経験した世代」は日本から、もう居なくなってしまうのだと考えると。若者は過去にあった過酷さを、今後に知ることはない。誰かが不幸になってた事象は、今後の誰も味合わなくて良いと考えたから。そういった事象は、無くそうと働く。それが正しいのだと思う。

でも、そういったものが、無くなればどうなるのか。そうして考えてみれば、自ずと分かってしまう。無くした不幸な事象に対して、これから先に"無知な世代"が発生してしまうということ。未来の若者は、過去にあった悲惨な経験に欠けた存在として産まれる。

世の中に蔓延っていた悲惨さを、過去にどんどん取り残していくことで。その代わりとして、未来には、どんどん整えられた誠実さだけが置かれ。次の若者には、既に整備のされた安全な環境が用意してもらえる。

時々、僕は「これだから、最近の若者は...」と指摘されることがある。でも、その言葉は「以前と比べて世の中は変わった。」と、置き換えられた。

「最近の若者は...」との言葉は、
これからも永遠と。循環した方がよいのだと思う。

今世に蔓延っている、「悲惨な行いは減らすように」と。今後も、悲惨な行いについては減らし続けていくのだと思う。そうすることで、必然的に、悲惨な思いを体験していない世代が今後も、続々と生まれ続けるのだと思える。

しかし過去の悲惨さを知らない若者は、
悲惨さを体験慣れしていない若者だと言うことになる。

世の中が「悲惨」隠そうとするのだから。次の世代には知ることも、味合わうこともないのだ。隠して、無くして、有りもしなかったように。世界は瞬く間に、綺麗に、清潔に整えてられていくために。

人の優しさから生まれた、そんな好循環なのだろうけど。過酷を味わってきた世代からすれば、過酷を味合えない次世代に対しては「甘えるな」との感情が湧き上がるように、そういう風な捉え方をする場合があるのだと。

無くなればいいものは、無くなればよい。
そう思えるのだが。ここに存在する者同士、対立した矛盾の現象が発生する。

「過酷」を経験してきた世代と。
「過酷」を経験していない世代と。

それらが同じ場所に生きている為に。現在、新しい世代として生きている若者に、悲惨さを経験してきた旧世代は「最近の若者は...」と自分の過去と、現在の若者を比較して、欠けた「悲惨」を挙げて、批判する。

一昔前であれば、自己責任にも。当然として蔓延っていた暴力や罵声は、現在において「パワハラ」とみなされはじめた。ブラック企業は無くなるべきだと、思われはじめた。そうした思いが、弱者への配慮として。「良くない」こととして、排除される方針へと移行した。

暴力や罵声について、誰もが味わいたくないこそ排除された。僕ら若者はそれらを、今後は味あわない行為なのだと思う。もしも、暴力や罵声を、若者が味わい臆病になってしまっても。暴力や罵声を経験した先輩方は、こう言う「今の若者は軟弱」だと揶揄する。

慣れているか、慣れていないかの違いと、
知っているか、知っていないかの違いとで。

根絶された行いを経験した。という武器で、若者を攻撃する。

世の中は良い方向へ、良い方向へ。そうして、良い方に向かうことによって。確実に、悪いものは残さないような形で。そして、当然、存在しなくなった悪いものを、経験していない世代が発生してくる。

先輩方の「当たり前」の中の一部に、
無知な僕たち若者は「異常さ」を感じる。

今までの「当たり前」は根絶させたからこそ、若者は「根絶した当たり前」を知れる世界は無い。

新しい世代は、どんどん綺麗な世界に合わせるように、綺麗な世界を基準としてフォーカスしている。世界の不潔さの一部が、どんどん失われていくことで。綺麗を基準とした若者は、不潔を見つけた時。まるで潔癖なほどに、小さな不潔さえも嫌うようになる。

学校は、学生という新しい世代の集まりで。これから世界の常識を蓄える世代は、新しい常識に適応するのが早いが。当然、社会には常に新しい常識で溢れている訳ではない。社会には古い価値観と、新しい価値観が交わりあって成り立つ。古い価値観は名残りとして残りながら、新しい価値観がそこに浸透しに向かう。

どうしてなのだろうか、良い方向に向かうことが、さらなる平和を生み出し。不平等すらも、減らそうとしている流れように見えるはずなのに。新しい価値観は、和を乱すように捉えられる。

危険は取り除きすぎると、過保護のようだ。子供を必要以上に、甘やかすと自立しない。価値観の中にある危険を排除するのは、甘やかされて育った子供のよう。

危険なモノを排除すれば、安全だけが用意されるようになり。危険のない世界に、大人は「甘やかすな」と指摘する。だからこそ、危険を味わい慣れた大人達からすれば。安全地帯で育つ若者達は、甘やかされて育ったひ弱な子供のだと捉えられてしまうのだと思う。

しかし、危険に危険慣れしたとしても。危険なことに変わりはなく。安全な世界を常に目指すことが、誰にとっても良い状態である。そうして、過保護のように扱われる次の世代は「甘やかされた世代」なのかもしれないが。

しかし、
「甘え」の中だからこそ、拡大していくものがある。

「わがまま」だ。

多様性が叫ばれ始めた今の世の中では、個人の意思や意見が承認され「自由度」の範囲はが拡大していき。集団の中でこその「統一感」の範囲の方が失われつつある。

悪いとされる行いの範囲は、どんどん広がっていき。良いとされる範囲は、範囲を狭めつづけ、どんどん尖っていく。以前まで正義の範囲内にいた大人は、いつしか悪人の範囲の中に追いやられているのだと思う。そういった時代の変化が、新たな悪人を作り出して、悪人に対して正義感を持って「わがまま」を活用する。

自由の度合いを増やす為には、きっと何かの歪な箇所を削ぎ落としていく必要があって。「わがまま」とはそういった、曲がった歪さを指摘することなのだと思う。

純粋な次世代は、「不快」だと感じる今ある現状の一部分に、自分の意思としてワガママを言う。個人の「意思」を主張することが、さらなる自由に繋げて行くものだと。

不愉快な思いを、人は嫌うのは当たり前で。

良い思いをしたい今の「僕ら」若者は、悪い思いはしたくない。でもそのうち、僕らが味わっていた「良い思い」の中にも、次の世代にとっての「悪い思い」だと感じられる物が、混じっているのかもしれない。

世の中は変化していって。変わらない僕らの日常もいずれ、次世代にとっては異常になる日が訪れるのだと思うと。

常に、どんな世代にも「最近の若者は...」と指摘される部分が、密かに紛れ込んでいて。

「古い常識を覆す世代」は、今後も新たな切り口で不便な道を開拓して行くが。最終的な、理想の形とは、いつか皆が納得するシンプルな答えに行き着くのだろうか。

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