
1993年 横浜ベイスターズ(5位)
現在横浜DeNAベイスターズの名前で知られているチームは2011年まで別の名前でした。横浜ベイスターズです。
1993年から横浜大洋ホエールズから横浜ベイスターズに改称したのですが、その初年度1993年にはどのようなことがあったのでしょうか。
新生・横浜ベイスターズ
そもそもなぜ横浜大洋ホエールズは横浜ベイスターズに改称したのでしょうか。その最大の原因は親会社・大洋漁業のCI導入です。
CIって何?という人に説明すると、CIはコーポレート・アイデンティティの略で企業のあるべき姿を体系的に整理し、それに基づいて自社の文化や特性・独自性などをイメージ、デザイン、メッセージとして発信することで会社の存在価値を高めようとするビジネス手法です。いわばイメージ戦略です。分かりやすい例だと広島東洋カープのメインスポンサーであるマツダが1975年に東洋工業からマツダに改称した例が国内初の事例です。
他にもオリエントリースがオリックスに改称したりと結構プロ野球とCI戦略は関連性があるみたいです。
そんなこともあって大洋漁業もマルハに改称。その影響で1950年の球団創設以来から使われてきた大洋ホエールズの名が使えなくなってしまった結果1993年から横浜ベイスターズに改称することになりました。

画期的な試みとしてホームは白地の旗、ビジターは青地の旗と別のものを掲げていたそうな
当時の戦力
1992年の大洋は中山裕章が少女へのわいせつ事件を起こし逮捕・退団になった影響で盛田幸妃を先発からセットアッパーに戻し盛田・佐々木主浩のダブルストッパー体制を確立。またベテランの域に達していた主力も多い中で石井琢朗・進藤達哉といった若手を積極起用。しかしチームは開幕から案の定コケており奮戦むなしく5位フィニッシュと大洋最終年も大洋らしいシーズンになってしまいました。
横浜ベイスターズ初代監督には1960年の大洋日本一メンバーである近藤昭仁が就任。(後にロッテの監督もやるが…18連敗)
一方オフには打点王を獲得したラリー・シーツが退団、19HRを放ったR.レイノルズが近鉄に移籍。その代わりに獲得したのがグレン・ブラッグスとロバート・ローズでした。
ドラフトでは日本石油の小桧山雅仁を逆指名で獲得。ちなみに小桧山は慶応義塾大時代に19勝を挙げたりするなど「19」を背番号に熱望していましたが、背番号19は直近だとあの中山がつけていたこともあり球団も封印する予定だったそうですが、本人も事件のことを気にしないとのこともあって晴れて背番号19をつけることになりました。


「五つの星が 港に舞い降りてきた マウンドで輝き 小桧山勝利」
ただ小桧山、現役生活は怪我がちで1998年に背番号19を剥奪。
小桧山以降も背番号19を付けた選手が大成しなかったこともあり
「背番号19の呪い」とも言われた。(山﨑康晃で呪いは解けた気がする)
野手陣

まずは外国人を見ていくとG.ブラッグスは怪我のため72試合の出場に留まりましたが、打率.345 19HR 41打点と十分良い成績を残しました。
一方全試合出場したのがロバート・ローズ。ローズは打率.325 19HR 94打点を記録し、1年目にして打点王のタイトルを獲得。なんやかんや2年連続横浜は打点王を記録した選手がいる球団なんですね。
ローズに次いで多く打点を挙げたのは畠山準。畠山といえば南海時代は投手もやっておりそこから野手転向したのですがこの打撃は良いですよね。
また前年多く起用された石井琢朗は盗塁王、進藤は低打率ながら二桁HRを放つなど成長も見られました。
捕手でいうと23歳の谷繁元信、25歳の秋元宏作の若い2人での正捕手争いが見られました。
ただベテラン陣があまり良い成績ではなく、34歳の屋舗は62試合の出場に留まり35歳の高木豊は全試合出場も往年のような成績は残せませんでした。

横浜ベイスターズ初代4番
近年はプロスピAのOBでも見かけるので知ってる人は多いかもしれない。
投手陣

投手陣だと前年は不調だった野村弘樹が復活の最多勝(17勝)のタイトルを獲得。また2年目の斎藤隆がローテ定着、同じく2年目の有働克也もこの年初のASに選ばれるなど若手の成長が感じられます。
また後に1998年の優勝・日本一を支えることになる島田直也や三浦大輔もこのときから多く登板する機会も増え着々と土台は出来上がりつつありました。
一方救援陣は結構苦しんでおり、20Sを挙げK%も37%と高い佐々木主浩はいいものの、ダブルストッパーの一角である盛田が一転不安定な投球を見せ、新戦力の小桧山や五十嵐も圧倒的なピッチングはできていなかったため救援陣は低調でリーグ最下位でした。

「左腕がうなれば 狙いは外さない ピンポイントの技 攻めて攻めろ弘樹」
ベイスターズ1年目のシーズン
ベイスターズとしての最初の試合は開幕投手有働克也で臨みましたが、巨人のバーフィールドに2ランを打たれ敗戦。
すると横浜は開幕5連敗し、16日の阪神戦で進藤がサヨナラ満塁弾を放ちようやくシーズン1勝目を果たしましたが、そこから3連敗、1つ勝ちを挟みまた5連敗と低空飛行の4月は4勝13敗と大きく負け越しました。
一転5月は13日のヤクルト戦から7連勝を記録し5月は14勝10敗と勝ち越し。
6月も2日巨人戦から7連勝と一時期2位に浮上します。
19日の広島戦ではローズが1試合3HRの大活躍、広島にも4発打たれましたがなんとか10-9で勝利しました。
前半戦は4連敗で終え順位は広島・中日と並ぶ3位となんとか善戦します。
ASには畠山、谷繁、野村、有働、佐々木が選出されました。
しかし後半戦が開幕するといきなり5連敗、前半戦最後の4連敗と合わせて9連敗と急降下。最下位に転落してしまいます。
以降の横浜は特に良いところもなく負け越しの月が続くのですが、シーズン最終盤になって広島が12連敗と転がり落ちたのもあって最下位フィニッシュは逃れました。
シーズン成績は57勝73敗の借金16。この年はなんといっても優勝したヤクルトに対し4勝22敗と完全にカモられ、勝ち越したのも巨人戦のみでした。
ベテラン陣への非情通告
こうして5位に沈んだチームは補強を画策します。というのも1993年オフというのはFA制度が導入された初めてのオフでもあります。
そんなFA宣言した選手の中にいたのが巨人の駒田徳広です。
93年は.249 7HR 39打点と低調だった駒田ですが当時の横浜からしたら是非とも獲得したい選手でした。そこで行われたのが主力6選手の自由契約です。
その6選手とは屋舗要・高木豊・山崎賢一・市川和正・大門和彦・松本豊で、いずれも大洋時代からチームを支えてきた主力たちでした。
屋舗は自由契約を告げられ記者会見で「ゴミをゴミ箱に捨てるみたいに…」と話し怒りをあらわにしました。
結局屋舗は巨人、高木は日本ハム、山崎はダイエー、大門は阪神と行く先が決まりオファーがなかった市川と松本はそのまま現役引退となりました。
そういえば2021年オフ、日本ハムが西川遥輝・大田泰示・秋吉亮の3人に対しノンテンダーという名の自由契約を提示し球界が騒然となりましたが事情は異なるとはいえ、この6人も元祖ノンテンダー通告をされた選手たちなのかもしれないですね。
また斉藤明夫もこの年限りで引退。
斉藤は1976年のドラフト1位で大洋に入団すると、1982年からはチームの守護神として起用。すると3度の最多セーブに輝くなど大洋を代表する投手となりました。個人的に大洋の投手といえば?と聞かれたら遠藤一彦と斉藤明夫の名前を挙げますが、遠藤はこの前年に引退、そして斉藤もこの年限りで引退、上に挙げた大洋戦士たちも自由契約などで横浜を去るなどかなりドラスティックに時代が変わっていったような気がします。

斉藤のトレードマークといえばなんといっても口ヒゲ ヒゲの斉藤と称された。
守護神の印象が強いが実キャリア序盤と終盤は先発も経験済みで
100勝100Sを右投げ投手で初めて達成している。
「行くぞ斉藤 使命を受けて 我が大洋の 勝利を掴む」