1998年 横浜ベイスターズ(優勝・日本一)
「マシンガン打線」恐らく野球ファンなら一度は聞いたことがあるでしょう。1998年の横浜ベイスターズは強力打線を擁し、1960年以来の優勝、日本一を掴み取りました。この年以来25年間優勝のない横浜DeNAですが、この年はどのように優勝・日本一を掴み取ったのでしょうか。
権藤博監督就任
1993年にマルハがチームを買収して横浜ベイスターズとなってからチームは5位→6位→4位→5位→2位と推移。近藤昭仁監督(’93~’95)時代は苦しみましたが、’96年から大矢明彦監督が就任。ドラフトで獲得した選手を活かして’97年は横浜ベイスターズ初のAクラスに入りました。
大矢監督は'97年限りで退任すると後任には現役時代中日で活躍、引退後は近鉄・ダイエーで投手コーチを歴任、そして’97年からは1軍バッテリーチーフコーチに就任していた権藤博が就任します。
権藤監督を端的で表すなら「放任主義」と言えるでしょう。選手に対して口出ししすぎない、つまり選手自身をの判断や行動を尊重するというスタイルでした。有名な話に権藤監督は「オレのことを『監督』と呼ぶなよ!」と言っており、これには選手との垣根をなくすことが目的でした。ちなみにもし「監督」と呼んでしまった場合は罰金1000円を払うことになっており、対象は選手だけでなくスタッフ、取材陣まで含まれました。
また権藤監督は「投手の肩は消耗品」という考え方から連投による酷使回避を実践しており、守護神佐々木主浩を不動の中心とし、他の救援陣にも「中継ぎローテーション」を確立していました。また送りバントを嫌っていたなど今のプロ野球でよく言われがちな連投回避・送りバントの必要性についてもう1990年代から考えていたとはとても凄いと思います。
打撃陣(マシンガン打線)
得点数642、チーム打率は.277は共にリーグ1位です。
しかしHR数を見てみるとこの年チーム内HR王はR.ローズの19HR、次は鈴木尚典の16HR、次は谷繫元信・進藤達哉の14HRと20HR以上打った選手がいません。
そうなんです。マシンガン打線は他球団の「史上最強打線(巨人)」「ダイハード打線(ダイエー)」「いてまえ打線(近鉄)」みたいなホームラン打ちまくる打線ではなく、3割近い打者が並ぶような打線でした。
切り込み隊長の石井琢朗は全試合出場で最多安打と盗塁王のタイトルを獲得。出塁率も4割に迫ります。2番波留敏夫はこの年巻き起こったプロ野球選手の脱税事件に連座して出場停止期間はあったものの良い成績です。
クリーンアップは鈴木、ローズ、駒田徳広が並びます。鈴木は首位打者のタイトルを獲得しています。このクリーンアップ見るとわかる通り、HRに対する打点数が非常に多くなっております。ちなみにこの3選手で挙げた打点は264。これはチーム打点数の4割に当たります。
この打線唯一規定打席未達者の佐伯貴弘はチーム4番目のOPSを記録しているし、谷繫や進藤も長打力を見せつつもそれぞれ捕手、遊撃手でゴールデングラブ賞を獲得しており、攻撃守備どちらにも優れた選手といえるでしょう。これだけ主力が凄いと控え選手も大変ですが、万永貴司や’97オフに盛田幸希とのトレードで近鉄から入団した中根仁も外野として試合に出続けていました。
投手陣
このときの横浜は投手陣も若かったです。規定投球回到達者は左のエースとして13勝を挙げた野村弘樹、途中1ヶ月ほどの離脱がありながら12勝した番長・三浦大輔、この年復活を遂げ13勝を挙げた斎藤隆、社会人出身2年目、先発陣唯一のAS選出された川村丈夫の4人でした。
ただ先発防御率はリーグ4位と意外と振るわず、しかしそれをカバーしたのが権藤監督によって管理された救援陣でした。
主に救援陣として活躍したのは河原隆一、五十嵐英樹、関口伊織、’97オフにトレードで巨人から移籍してきた阿波野秀幸、横山道哉、島田直也、佐々木主浩でした。権藤監督の管理のもとできた救援陣はとても理想的な登板数に終わっており、チーム内最多登板も島田の54登板です。
この年はなんといっても守護神佐々木主浩が大活躍。51登板で防御率0.64で45S、最優秀救援投手と抑え投手としては異例のMVPも受賞しています。
救援防御率は2.91とリーグ1位。チーム防御率は3.49とリーグ2位でした。
シーズン振り返り
開幕戦から8得点を奪い快勝しますが4月5月はほぼ勝率5割の戦いでした。
転機となったのは6月下旬。ここで8連勝して首位に浮上すると、6月30日の広島戦では7回に一気に8点の大逆転。佐々木主浩も22試合連続セーブを決めるなど波に乗っていきます。
7月も打ちに打ちまくり、12日の中日戦では9回に6点差を追いつき引き分け、15日の巨人戦は両軍20安打を記録しながらも最後は波留のサヨナラ打で13-12で勝利。26日の阪神戦では8回9回に9点を入れ、ここで今季最長の10連勝を決めると途中2位中日に追い上げられることもありながらも勝ち進みました。
9月4日首位攻防戦となる中日戦では佐々木主浩がNPB史上初の200Sを達成。ここからの中日3連戦で3タテしています。
そして10月8日の阪神戦、8回表に2アウト満塁のチャンスで進藤が2点タイムリーで逆転、この後の2イニングは佐々木がしっかり抑え45S(歴代最多セーブ数)を記録したのと同時に38年ぶり2度目の優勝が決定しました。
日本シリーズではパ・リーグ優勝の西武ライオンズと対決。
初戦は野村が先発。するとマシンガン打線はすぐに西武先発・西口文也を攻略。4回までに7点を取るとそのまま9-4で勝利。
第2戦は斎藤隆が先発。横浜は石井の出塁→二盗→鈴木のタイムリーと効率よく得点し、西武から4点を取り、斎藤も西武打線を3安打完封して4-0で勝利。
西武ドームに移動して迎えた第3戦。先発は三浦。しかしシリーズ前に二段モーションを指摘された三浦は3回までに6四球という大乱調ぶり。3回途中4失点でマウンドを降り、後続の救援陣も乱れに乱れ2-7で敗戦しました。
第4戦は第1戦で先発した野村が2度目の先発。2点ビハインドの4回に鈴木の2ランで同点とするも6回野村がD.マルティネスに2ランを浴び4失点で敗戦。現時点で横浜2勝、西武2勝の五分となりました。
仕切り直しの第5戦は第2戦で完封勝利した斎藤が先発。マシンガン打線は相手先発・横田久則から4イニング連続得点を奪いKOすると、8回に3点を追加して10-2と勝負を決めました。しかし止まらないマシンガン打線は代打荒井幸雄(’97オフに近鉄から無償トレード)のヒットから打線がつながり終わってみれば1試合20安打、12長打、9二塁打で17‐5という圧勝で横浜が日本一に王手をかけます。
再び横浜スタジアムに帰ってきての第6戦は後半戦未勝利だった川村が先発。西武先発は第1戦の西口でした。試合は7回まで両チーム無得点でしたが8回、四球と野選でチャンスを作ると駒田の2点タイムリーでついに均衡を破ります。そして9回には佐々木主浩。1点は返されますが最後の西武打者・金村義明をニゴロ併殺打に打ち取り2-1で勝利。
ここに横浜38年ぶり2度目となる日本一が達成されたのです。
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