2005年 ヤクルトスワローズ(4位)
2024年のプロ野球も終わってすっかりシーズンオフ(とはいえプレミア12はあるけど)になりました。
振り返ってみると今年は名選手の引退が相次ぎました。
オリックスだとHR王を獲得したT-岡田、守備の名手・安達了一や最後のダイエー戦士の和田毅、そして個人的にはこの選手の引退には衝撃を受けました。
青木宣親。2004年にヤクルトに入団すると翌05年には200安打を達成。以降はリードオフマンとしてチームの柱となると2012年にMLB挑戦。
チームが96敗を喫し圧倒的最下位となった17年オフにヤクルトに復帰。
以降7シーズンヤクルトに在籍していました。
日米通算2730安打を記録した稀代のリードオフマンが今年現役を終えるということですので「本当にお疲れ様でした」と思います。
さて今回の記事はその200安打を記録した2005年のヤクルト。
この年は1999年から同チームを率いた若松勉監督のラストイヤーでもあり、チームとしても変革期が来ていました。
’04オフの動向
2004年のヤクルトは後半戦の快進撃の影響で2位で終えました。2001年に優勝・日本一になって以降これで4年連続でAクラスのわけですが、戦力としてはその頃の主力の高齢化が進んでいました。
当時のヤクルトで20代の選手といえば岩村明憲や宮出隆自くらいで、その他だと稲葉篤紀が32歳、宮本慎也が34歳、ラミレスが30歳、古田敦也に至っては39歳とかなり高齢化が進んでいました。
とはいえ当時のヤクルトはそういう選手頼りでドラフトでは野手の上位指名があまりなく、若松政権(99~)でドラ1や自由枠を使って獲得した野手は99年ドラ1の野口祥順と04自由枠の田中浩康のみ。あとは全員投手でした。
さらにこの状況で稲葉が日本ハムへFA移籍。外野のレギュラー枠が1つ空くことになってしまいました。
ヤクルトはドラフトで自由獲得枠を2枚使い、先ほど言及した田中浩康(早大)と九州東海大の松岡健一を獲得します。
また外国人では投手でリック・ガトームソン、野手ではアダム・リグスを獲得しています。
野手陣
まず目を引くのは本記事の主役青木宣親でしょう。
前年イースタンでは打率.372でリーグ首位打者と最高出塁率、さらにフレッシュオールスターMVPにも選ばれた青木ですが、この年は見事に稲葉の穴を
埋める活躍を果たしました。当初は2番で三振も多かった青木ですが6月以降に打ちまくり1番に定着しました。
最終的にはシーズン202安打と94年イチロー以来の200安打を達成(最多安打)。打率も.344と首位打者も獲得しました。またセンターとしてチーム1のWARを稼ぐなどチームに欠かせぬ柱と成り上りました。
中軸の岩村明憲やラミレスも健在でどちらも30HR放ち100打点超え。
ただ面白いのは30HR打ってるラミレスよりもシーズン3HRの青木のほうがOPS高いんですよね。出塁率の高さが影響していると思います。(あとラミレスは極端にBB/Kが低いので…)
新外国人のA.リグスも107試合の出場で打率3割14HRと大活躍。
個人的にヤクルトは今も昔もスタメンを張る選手も良いですが控えの選手も優秀だななんて思うんですよ。
2番手捕手の小野公誠も低打率ながら7HR放ったり、鈴木健や土橋勝征といった渋く光るいぶし銀の存在、また青木の台頭でベンチスタートが多くなった真中満もこの年以降は代打の切り札として活躍。勝負強いバッティングが随所で光りました。
ただ強そうに見える打線も実は打率はリーグ1位も得点数は最下位。HR数やOPSも最下位でした。今の打低気味な野球を見てるせいかもしれませんが昔の野球スタッツを見るだけでもいいなあ…と思ったり。
投手陣
投手陣は直近のドラフトで上位でリソースを割いた影響か駒は揃っていて、
01年の優勝日本一を知る藤井秀悟だったり、自由獲得枠で指名した石川雅規や伸び悩んでいた館山昌平がこの年一気に10勝したりと3人の10勝投手がいました。また24歳の川島亮も9勝したり、ガトームソンも二軍の炎上(ファーム防御率8.25)とは打って変わって8勝したりと先発は良かったです。
救援陣では五十嵐亮太の不調・怪我によって代役守護神を任せられた石井弘寿が防御率1点台で37Sを挙げるなど活躍。K%は30%超えと三振を多く取れるピッチャーでした。
その五十嵐も復調してからはセットアッパーとしてチームに帯同しており、4年連続60登板はならずもオールスターファン投票中継ぎ部門では1位に選ばれるなど頼れる中継ぎとして活躍しました。
若松監督ラストイヤー
開幕戦は勝利したヤクルトですがしばらくは停滞。
4月24日には古田敦也が2000本安打を達成。この2000本安打、大卒社会人が達成するのは古田が初。現在においても大卒社会人の2000本安打達成は古田に加え、和田一浩と大島洋平しかそれに該当しないという素晴らしい記録ですね。
チームはその試合から6連勝しています。
5月は5日に藤井が中日のタイロン・ウッズへの死球のせいで顔面を殴られるという事件もありましたが、この年から始まった交流戦では9日のソフトバンク戦から7連勝と好調でした。この交流戦期間は20勝16敗と5位につけます。
しかしこの頃からチームは低調気味に。6月・7月はともに負け越し。
オールスターゲームではファン投票で古田が、他推薦などで青木、岩村、藤井、五十嵐、石井が選出されました。
8月以降も勝率5割推移のヤクルトはずっと3位でいましたが、最終盤で横浜が7連勝するなどして次第に差が縮まりついに4位転落。
10月11日には先ほど書いた青木がシーズン200安打達成。
しかしチームは巻き返せずに71勝73敗2分の借金2で4位フィニッシュ。
Bクラスに沈むのは若松監督初年度の1999年以来6年ぶり。若松監督はこの年をもって退任することになりました。
退任会見で「1度しか日本一になれず申し訳なかった」と語った若松。確かに前任の野村克也が9年で3度の日本一に輝いているわけですが1度の日本一でも凄いことだと思うんですがね…
古田敦也新監督・ヤクルト新時代へ
若松の後任として監督に就任したのは古田敦也でした。
とはいえ引退したわけではなく、選手兼任という形でして、選手として1年、監督として2年契約で合意しました。
古田監督は早速ファンサービスの改善策などを球団と協議。
地域密着型球団にするべく当時の「ヤクルトスワローズ」から都市名を冠して「東京ヤクルトスワローズ」に改称すること提案したり、球団の多角経営を目指したりしていました。
背景には当時のヤクルトの観客数の減少がありました。
2005年から観客動員数が実数発表になったのですがその結果は約130万人と低く、また他球団ファンにとってはチケットが取りやすく東京ということもありヤクルトのファンよりも他球団のファンのほうが多いということになることもしばしばあったそうです。
こうして新たに古田新監督のもと始まった「東京ヤクルトスワローズ」。
この後どのようになっていくのでしょうか。