見出し画像

2001年 阪神タイガース(6位)

1987年から続く阪神暗黒時代。この期間はBクラス15回のうち最下位10回という惨憺たる時代でした。そんな阪神暗黒時代に光が差し始めたのかなと思える年がこの2001年です。実際これ以降2018年まで最下位はありませんしね。今回は2001年の阪神タイガースを見ていきたいと思います。


「4位赤星、ハァ?」

99年から野村克也監督が阪神を指揮していましたが、以降2年間は最下位。
さらに00年オフは戦力の流出が目立ちました。00年の阪神で二桁HRを放ったのは新庄剛志(28HR)、大豊泰昭(23HR)、T.タラスコ(19HR)の3選手。
しかし新庄はこのオフにメジャー挑戦。大豊は野村監督と起用法などで揉め最終的に阪神を退団し中日に移籍。タラスコも今季限りで自由契約になりました。この3選手のHR数は計70HR。阪神の00年のチームHR数は114なのでこの3選手でチームの6割のHR数を占めていました。

その影響もあってか01年の阪神の方針はHRではなく守備走塁を活かして戦うということになりました。それはドラフトにも色濃く出てきました。

ただこのドラフト、かなり不評でした。なんといっても年齢層が高すぎます。大卒社会人が伊達、赤捕手、沖原、藤本の4人で沖原に至っては28歳。
逆指名1位指名の藤田は高卒社会人の21歳でした。
当時はドラフト評論家のみならず、このドラフトをボロクソに言っていた個人サイト運営主もいて、「4位赤星、ハア? 何故この程度の選手を4位指名なのかが理解できない」「テメーらフロントは所詮温室サラリーマンだな。」と強烈な言葉で非難。ドラフト評論家の小関順二氏も「情熱の感じられない指名には、12球団中11位の評価を差し上げたい。(12位は西武。)」と批判。まあ小関氏は高卒指名で固めたドラフトを異様に高評価するところあるからな… 個人サイト運営主も小関氏に影響を受けたのでしょうか。

その他近鉄との3対3のトレード(酒井弘樹+面出哲志+平下晃司⇔山崎一玄+湯舟敏郎+北川博敏)をしたり、ロッテから成本年秀を獲得。
外国人では野手でイバン・クルーズ、E.ぺレスを投手でB.カーライルを獲得しました。

野手陣(F1セブン)

野村監督はシーズン開幕前にF1セブンの構想を発表。F1セブンとは
1号車)赤星憲広 2号車)藤本敦士 3号車)沖原佳典 4号車)上坂太一郎
5号車)平下晃司 6号車)松田匡司 7号車)高波文一 (幻の8号車:田中秀太)
からなる俊足が売りの7人の選手です。田中を入れたF1エイトという呼び方もあるようですがこっちはあんまり流行っていません。
なんといってもこの年は赤星が大活躍。いきなり規定に乗り3割近い打率をマークすると、チーム内最多安打となる128安打を記録。さらに39盗塁を決め盗塁王に輝くとこの年の新人王を受賞しました。ちなみにGGも受賞しています。この年の阪神は出塁率がリーグワーストでしたが赤星は出塁率が.372と飛び抜けていました。
盗塁数は前年53から78にアップ…とはいえ大部分は赤星に支えられており、野村監督の目論見とはちょっと違う形になっていました。

赤星憲広

長打力の面つまりHRですが、この年のチーム内HR王はI.クルーズの14HR。続いて23歳の濱中おさむ(13HR)、32歳の桧山進次郎、39歳の広澤克実(それぞれ12HR)とやはり長打力では乏しいものがありました。
特に入団以来高い打率を続けてきた坪井智哉がこの年一気に成績を落としており、若手の伸び悩みが顕著になりつつありました。

投手陣

この年大ブレイクしたのが井川慶です。高卒4年目のこの年、29登板192イニングを投げると、171奪三振、K%20%超えを記録。防御率2.67は01年阪神唯一の2点台です。暗黒阪神あるあるとしては先発投手が長いイニングを投げられず救援を使い倒してしまうというものがありますが、この年はQSが81とリーグトップ。先発防御率も3.60とリーグ3位でした。
ただ打線の得点数が少ない影響で2桁敗戦カルテットが完成。井川は9勝13敗、G.ハンセルは5勝13敗、新加入のB.カーライルは7勝10敗、福原忍が9勝12敗とやっぱりここらへんは厳しいところです。
ドラフト指名選手でいうと、逆指名した藤田はほとんど投げられず、2位の伊達は先発救援で28登板で防御率3.75と一定の活躍を見せました。

救援で目立ったのはロッテから移籍した成本年秀。
成本は45登板で防御率2.34で20Sを挙げ、ASに選出。カムバック賞も受賞しました。また38歳の伊藤敦規が6勝・防御率1.79していますが、その他だと成績が悪め。勤続疲労はあったとは思います。

↓1分で分かる井川慶


4年連続最下位

開幕投手は星野伸之でしたが、その星野が2回4失点、ドラ1ルーキーの藤田も2回途中7失点と完全に巨人打線に打ち込まれ3-17という大敗で開幕戦を落とします。4月25日から7連敗を喫すると以降は横浜との最下位争いを繰り広げることになります。5月13日には高卒5年目の濱中がプロ入り1号となるサヨナラ3ランを放つなどしますが、基本的に月間成績だと負け越しが続きます。6月22日から6連敗を喫するも7月は少し持ち直します。
特に野村監督の長男、カツノリが月間2度のサヨナラタイムリーを放ち、11日から前半戦最終試合まで7連勝と借金8まで改善させます。
ASではこの年ブレイクした井川と復活した成本が選ばれました。
しかし前半戦最後の勢いを後半戦には持って行けず。どう考えても上に行ける戦力も整っておらず、負けが込み始めると結局借金23で最下位。
阪神は98年以降4年連続最下位という屈辱的結果に終わりました。

98年から4年連続最下位になった阪神タイガース。

野村阪神→星野阪神へ

99年から阪神監督をしていた野村克也は02年も阪神を指揮する予定でした。
しかしここで野村克也の妻、沙知代が脱税容疑で逮捕されると監督を続けるわけにもいかず12月5日に退任。結局野村克也監督が阪神の監督をしていた3年間は全て最下位に終わりました。
野村自身も自分の任期の間での阪神の再建は無理だと考えており、「今の阪神を再建できるとしたら西本幸雄か星野仙一だ」と既に熱血指導型の星野に後を託すとも考えていたそうです。

中日星野仙一監督と阪神野村克也監督

そうして後任となったのは01年まで中日の監督をしていた星野仙一でした。
星野仙一といえば弱小チームを優勝に狙えるチームにすることがとても得意な監督でした。例えば中日1期目、2年連続5位に沈んでいたチームを翌年には2位に、そしてその翌年には優勝させています。中日2期目ではナゴヤドーム初年度最下位に沈んだチームをわずか2年後には優勝に導くなどまさに下剋上の戦いをする監督でした。
また勝つためなら選手に対して非情になれる監督で、例えば87年には主戦投手だった牛島和彦ら4人をトレードで放出してまで落合博満を獲得。
また97年最下位に終わったオフには阪神へ大豊泰昭・矢野輝弘を放出し、関川浩一・久慈照嘉を獲得。
このように負け癖がついていたチームを大きく変える、また勝つためには功労者だろうと関係なく容赦なく切る星野阪神のもと、なんと2年後には阪神は優勝することになるのですが、それはまた別の機会に。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?