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1988年 近鉄バファローズ(2位)

プロ野球において熾烈な優勝争いが展開されることはよくあります。
場合によっては最終戦までもつれることもあり、前回の10.8決戦はその一例です。
1988年のパ・リーグは今回紹介する近鉄と西武は激しい優勝争いを繰り広げ、近鉄の最終戦となった川崎球場でのダブルヘッダーは「10.19」として語られています。この年の近鉄を見ていきましょう。


仰木近鉄前史

近鉄は79年80年に連覇するもののそこから優勝争いとはほぼ無縁の時代に入ります。80年の優勝後、西本幸雄、関口清治、岡本伊佐美が計7年務め、Aクラスは4回とある程度強い球団でした。

1987は最下位に終わりそのオフに岡本が退任。後任となったのは仰木彬でした。
仰木は選手としてはほぼ無名の存在でしたが引退してから3年後の1970年からコーチ業を務めました。1984年からはヘッドコーチに就任し内部昇格のような形で監督に就任しました。

近鉄・仰木彬監督
後にオリックスでも指揮を執り、オリックスのパ2連覇を支えた。

仰木監督は早速選手の配置転換を始めました。ショートの村上隆行を外野に回し若手の吉田剛と真喜志康永を競わせました。
打線も固定ではなく頻繁に入れ替えを実施。投手陣では吉井理人を抑えに回しました。

野手陣

近鉄は「いてまえ打線」という強い打線が有名ですがこの年はめちゃくちゃ強いわけでもない平均的な打線になりました。
この中でとても目を引くのはR.ブライアントでしょう。
84年に入団したR.デービスは4年間で110HRを放つチームの大砲として活躍していましたがこの年の6月に大麻取締法違反の疑いで逮捕。即刻退団が決定しました。
外国人野手がB.オグリビーしかいなくなったチームは当時中日において外国人枠の影響で1軍出場機会が限られていたR.ブライアントを無償トレードで獲得しました。
するとこのブライアント74試合の出場で打率.307 34HR 73打点を放つという大暴れを見せる大活躍をしました。長打率は.700超え、OPSも1.100という大化けしたブライアントでした。
もう1人の外国人野手のオグリビーも22HRを放つ素晴らしい助っ人コンビはチームの30%以上のHR数を放ちました。
日本人でも4年目の鈴木貴久がプロ初の20HRを放ち、外野コンバートされた村上はOPS.823と攻撃力は衰えていませんでした。25歳の金村義明も14HRを放っており、WARは規定到達してないもののチーム内2位の3.9でした。
一方ショート争いをしていた吉田と真喜志ですが吉田も真喜志も打率1割台に落ち込み、セカンドの大石第二朗もそこまで良い成績ではなかったので二遊間の攻撃性はかなり厳しい感じでした。(大石はこの年チームトップの16盗塁している)

投手陣

投手陣は若い力が躍動しました。
2年目の阿波野秀幸は220 1/3イニングを投げ防御率2.61、14勝12敗、15完投3完封と2年目のジンクスも全くなくチームに貢献。
23歳の小野和義は30登板を全てで先発して208 2/3イニングを投げ防御率は2.59、10勝10敗で10完投4完封とこちらも大活躍。
22歳の山崎慎太郎は防御率3.10で13勝7敗と高卒4年目としてはやはり良い成績を残しています。
87ドラフト1位で指名した高柳出己は6勝6敗だったものの無四球登板も2と与四球の少なさが目立ちました。
ベテランでは36歳の村田辰美が10勝を挙げていて高柳と同様無四球登板が2でした。
上記の5選手のWARはそれぞれ阿波野が6.3、小野が5.6、山崎が2.4、村田が2.0、高柳が2.4とかなり高いことが分かります。

抑え転向した吉井は抑えながら10勝を挙げると同時にパ・リーグトップの24Sを挙げており最優秀救援を受賞しました。
ドラフト6位入団した木下文信はK%20%超えで一定の戦力として活躍していました。
全体的に投手陣はかなり若くなおかつ成績がよくまだFA制度などもなかったので何かをしなければ中長期的には強みになると思われます。

熱い優勝争い

開幕カードの阪急戦で3タテと開幕ダッシュを決めるとそのままチームは上昇していきましたがそれ以上に西武がかなり勝ちを重ねており西武は5月8日から貯金が2桁とやはり常勝西武は強かったのでした。
7月3日、新加入したブライアントが西武戦にていきなり2HRと大爆発。小野も9回完封で勝利しました。
その後の近鉄は8月に7連勝、9月には8連勝と首位西武を猛追。一方西武も序盤の勢いほどはなく成績は横ばいでした。
10月5日の日本ハム戦で勝利するとついに西武と並びます。
西武はその後5連勝するも、近鉄は2連敗後7連勝と食らいつきました。
西武は16日に全日程が終了。73勝51敗6分でした。
一方近鉄はそれより長い19日まで試合があり16日現在は72勝51敗3分
残り4試合で17日は敗戦。18日からのロッテ3連戦が始まります。18日は勝利して現在の近鉄は73勝52敗3分。勝率的に考えて近鉄が優勝するには19日に行われるロッテとのダブルヘッダーで2連勝することが必須でした。
引き分けでもいけません。必ず2連勝しないといけなかったのです。

10.19 1試合目

1試合目の先発は近鉄が小野。ロッテが小川博でした。
小野は初回ロッテの愛甲猛に2ランを打たれるも5回2アウトまでパーフェクトだった小川から鈴木がHRを放ち1点差に。
しかし再び2点差にされると8回鈴木が出塁、加藤正樹が四球で出ると代打で村上が登場。すると村上が2点タイムリーを放ち同点に追いつきました。
9回表、ここで勝ち越さなければ近鉄の優勝はありません。
2アウト2塁で打席には代打出場の梨田昌崇。この年引退表明していました。その梨田がヒットを打つと2塁走者の鈴木が快足飛ばして本塁に生還。ついに勝ち越したのです。

梨田昌崇のタイムリーで背番号44の鈴木貴久(中央)がホーム生還
ちなみに鈴木を抱いてるのは中西太打撃コーチ。

近鉄は9回裏に吉井が満塁のピンチを作るも代わった阿波野がしっかり抑え試合終了。近鉄はベンチ入り野手を全て使う総力戦でまずは1勝しました。

10.19 2試合目 ~死闘の「4時間」~

試合開始は18時44分。ここで頭に入れてほしいのが当時のパ・リーグは試合時間が4時間を超えた場合新たにイニングを進めない、つまりそこで試合打ち切りというルールがありました。
2試合目の先発は近鉄がルーキーの高柳、ロッテが園川一美でした。
2回にロッテのB.マドロックのHRで先制されましたが、この試合そもそもグラウンドの雰囲気もピリピリしており、度々ストライク判定を巡って抗議する場面があるなどかなり不穏な雰囲気での試合となりました。
5回まで無失点に抑えられた近鉄ですが、チャンスでオグリビーのタイムリーで追いつくと7回には吹石徳一(この年で引退)と真喜志がそれぞれHRを放ち3-1とします。
しかしロッテも岡部明一のHR、代わった吉井も西村徳文にタイムリーを打たれついに同点に。
8回にブライアントがHRを放つもこの回から登板した阿波野が高沢秀昭にHRを打たれすぐに同点になります。
9回もチャンスを作った近鉄ですがロッテ水上善雄の好守(This is プロ野球!)もあり無得点。そして9回裏に騒動が起きます。

有藤監督の猛抗議

阿波野が続投した9回裏は先頭の古川慎一に出塁を許すと次の袴田英利のバント処理をミスってしまいランナーは1,2塁に。
ここで阿波野は2塁に牽制球を投げますがこれが高めに浮き大石が3塁方向にジャンプして捕球。そのまま交錯するような形で古川に触球。2塁塁審新屋晃はこれをアウト判定すると古川は新屋に猛抗議。ロッテの有藤監督も飛び出し大石の走塁妨害を主張。
この時点で試合時間は3時間30分。有藤監督の抗議は抗議としては長い9分間に及び、4時間ルールもあり1分1分が大事な近鉄は仰木監督も飛び出し近鉄応援席からも罵声・ヤジが飛び出す中判定変更なく試合は再開。
阿波野は後続を抑え9回終了、延長に入ります。

ロッテ・有藤監督の猛抗議

悲劇の10回裏

10回、ブライアントがエラーで出塁するもオグリビーは三振。
次の羽田耕一はセカンドへの併殺打に倒れチェンジ。
このとき時刻は22時41分。あと3分で4時間になってしまいます。
3分でロッテの攻撃を終えることは事実上不可能でした。つまりこのままでは同点となるため西武の優勝が決定的になったわけです。
22時44分、規定により4時間が経過したため試合はこの回で打ち切り。近鉄は勝つことができず優勝を逃しました。逃したとしても守備につかなくてはならず、このときの近鉄の守備はもはや世界一虚しい守備だったと言えるでしょう。加藤哲郎と木下がロッテ打線を抑え引き分けが決定。(この回は悲劇の10回裏として知られる。)

試合終了後仰木監督と近鉄ナインは3塁側の応援席に挨拶。観戦していた近鉄の上山善紀オーナーも立ち上がって拍手を送り、近鉄ファンも温かい歓声で近鉄ナインに声をかけました。
試合時間は4時間12分。1試合目は3時間21分で合計すると7時間33分。
これはダブルヘッダーの試合としてはNPB史上2番目に長い試合になりました。

三塁側の近鉄ファンに挨拶をする近鉄ナインと仰木監督

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