2003年 横浜ベイスターズ(6位)
2024年の埼玉西武ライオンズが大変なことになっています。8月8日、オリックス戦で負け29勝68敗2分。勝率はなんと3割を切る.299。このまま勝率2割台で終われば2005年楽天に次いで平成以降では2例目となるのですが、同じ99試合消化時の楽天の勝率は.316とまだ3割はありました。
一方99試合消化時に勝率が3割を切っていたチームは2024西武ともう一つあります。2003年の横浜ベイスターズです。
まさに横浜暗黒時代が決定的となったこの年の横浜を見ていきましょう。
栄光はどこへ…
1998年は権藤博監督のもとマシンガン打線で球団38年ぶりの優勝・日本一を達成。以降権藤政権では3位→3位とAクラスには入り続けました。そんな権藤監督は2000年シーズンを持って監督を勇退。後任は西武黄金時代を築き上げた森祇晶でした。しかし放任主義だった権藤に対して森は徹底した管理野球。性格が正反対の監督を連れてきてしまったのです。
森監督の初年度となる01年は3位(勝率順では4位)と辛うじてAクラスに踏みとどまりましたがオフに絶対的正捕手の谷繫元信が森監督との確執もあってかFAで同一リーグの中日に移籍。後年、当時の横浜を知る選手はこれが横浜暗黒の遠因と語っており、その翌年はチームが大きく低迷し最下位でシーズンを終えてしまいます。なお森監督は9月に途中解任されています。
チームカラーに合わない外様監督を連れてきてしまった反省からか03年から横浜の指揮を執ることになったのは現役時代横浜一筋だった山下大輔。
そんな横浜OBの監督を男にするべくフロントも全力で山下監督をバックアップ。まずはダイエーをFAになっていた若田部健一を獲得。主軸候補として現役バリバリで前年にはレイズで16HRを放ったスティーブ・コックスと一応保険として5000万円で獲得したタイロン・ウッズの両外国人を獲得。
ドラフトでは10名の選手を獲得。自由獲得枠を2枚使って日本大学の村田修一、法政大学の土居龍太郎を獲得しました。また西武と中嶋聡+富岡久貴⇔石井義人+細見和史のトレードも成立。山下監督はマシンガン打線に代わる愛称として友人のセルジオ越後の発案で「大ちゃんス打線」と銘打ち5年ぶりの優勝を掴もうとしました。
野手陣
大ちゃんス打線は2桁HRを8人記録しているかなり火力の強い打線に仕上がり、HR数は192とリーグ2位の値でした。
特に期待を大きくいい意味で裏切ったのはタイロン・ウッズ。
コックスのおまけみたいな感じで獲得したウッズでしたが蓋を開けてみれば打率.327 40HR 87打点と年俸の何倍もの活躍を見せHR王のタイトルを獲得。一方コックスは15試合の出場にとどまり、HRもわずか1。とんだ大外れ外国人となってしまいました。
自由獲得枠の村田修一は低打率ながら1年目から25HRと大活躍。結構微妙な選手が多い横浜の自由獲得枠ですが、村田はまさに最高傑作なのではないでしょうか。
もう1人の20HR達成者は古木克明。高卒4年目の終盤に試合出場を増やし、足も使える若手大砲として期待されましたが、この年は22HRを放ちました。ただ打率は2割台スレスレの.208、打点も37と22HRの割には全く合わないような数字が並び、今でもネタになっています。そんな古木のこの年の得点圏打率はなんと.121。大ちゃんス打線にいながらチャンスには激弱でした。
一方大きく苦しんだのは石井琢朗。ここまで安定した成績を残していた石井ですが、この年は大きく成績低下。本人も後年「奈落の底に落ちたシーズン」と語っています。
また中長期的な話だと鈴木尚典が最後の輝きを見せたシーズンでもあります。以降の鈴木は成績が下降。08年に引退しています。
控えには佐伯貴弘(11HR)や種田仁、小川博文といったベテラン選手がいて内川聖一、相川亮二のような次の横浜を担う選手も多かった印象です。
投手陣
一方投手陣はかなり悲惨な状態でした。規定投球回到達した選手がD.グスマンとC.ホルトのみ。日本人で1番イニングを投げたのは川村丈夫の116 2/3回とイニング消費を外国人に頼りっきりという良くはないチーム状況でした。森監督時は中継ぎだった斎藤隆を先発起用に戻しましたが、そこまで大きく勝利は重ねられず。FAで入団した若田部もわずか4登板に終わり、全く期待通りの活躍ができていませんでした。
救援陣で光る活躍を見せたのはドラフト4巡目ルーキーの加藤武治でしょう。後にクアトロKの一員となる加藤は44試合で防御率2.77で横浜救援陣の中で1番イニングを投げています。ただこの年はなかなか抑えが固定できず、チーム最多セーブは7月末に起用法を巡って対立しウェーバー公示を受け中日から移籍したE.ギャラードの8、次いで02オフに西武・前田和之とのトレードで移籍したデニー友利と結構外様の選手に依存していた節はあります。
暗黒への坂道
この年の横浜はとにかくセ・リーグ優勝した阪神にカモられ続けました。開幕戦は吉見祐治の好投もあり阪神に勝利するも次に阪神戦で勝利するのはなんと3か月後の7月29日。終わってみれば対阪神戦6勝22敗と借金16。
その阪神との大型連敗の途中佐伯が何度も涙を流すシーンが中継で映ることもありました。
そんな苦手の阪神戦でしたがその中に伝説の試合があります。
5月28日の阪神戦、山下監督はこのようなスタメンを組みます。
別名「金城過労死シフト」はそこまで守備がいいわけでもない鈴木とファーストが本職ながらそこにコックスを起用するためにライトにさせられたウッズが両翼を、内野もイップスがちになっていた内川がショート、サードで古木を起用するためにまさかのセカンドに動かされた村田(古木もそんなサード守備は良くない。この年に古木あーっと事件が起きる。)ととんでもないファイヤーフォーメーションを敢行。打線は9点を取るもやっぱり守備を軽視しすぎたためか10点を取られ敗戦しています。
4月は13日からの9連敗もあり月間わずか4勝。
以降も順調に負けていき(?)、6月7日~20日にはシーズンワーストの10連敗を記録。オールスター後も負けに負け、前述の通り99試合消化の時点で勝率は3割を切っていました。9月ようやく10勝8敗と月間勝ち越しを決めるもののこれまでの敗戦が積み重なり最下位でシーズン終了。45勝94敗1分で優勝した阪神には42.5ゲーム差つけられ、5位広島にも22.5ゲーム差をつけられる圧倒的最下位。そもそもNPBでシーズン90敗以上したチームが1970年のヤクルト以来33年ぶりという不名誉な記録。ただ先に言っておくと08年から3年連続シーズン90敗を記録しており、シーズン90敗が珍しいものではなくなっていきました。それでも勝率は.324と平成以降のベイスターズで最低の勝率となってしまいました。
地元新聞紙の『神奈川新聞』の石橋学記者はこのときのチーム事情について、「ベテランがミスをしても笑みを浮かべており、それを注意する首脳陣もいなかった」とし5年前の優勝・日本一を知っている新人選手が「ベイスターズってこんなチームだったんですか」と記者陣に吐露したり、記者の中でも今年の横浜は100敗するかという話題で出始め、取材に勝敗数を計算する電卓が欠かせなくなったと話しています。
フロント大迷走
前年東海大学の久保裕也を獲得予定も一方的にその契約を破り、立教大学の多田野数人の指名を決定。(なお多田野は「あの騒動」がありこの年にはプロ志望届を出していない。TDN) これに怒った東海大学はベイスターズにDeNA体制になるまで一切選手を横浜に入団させなくなりました。
しかしこれに対し、横浜は03オフ、遠藤一彦投手コーチ、青山道雄守備走塁コーチの退団、そして森中聖雄・中野渡進の構想外・引退を発表。遠藤に関しては投手陣の低迷の責任を取り同じく投手コーチの森繁和と共に退団していますが、実は遠藤・青山・森中・中野渡には共通点があります。東海大学出身者だったのです。フロントの意向もしくはただの偶然かもしれませんが、東海大との遺恨を見ると偶然とも思えないのが正直なところです。
また03オフには4件のトレードが成立。
①門倉健+宇高伸次⇔福盛和男+矢野英司(近鉄)
②野中信吾⇔横山道哉(日本ハム)
③金銭⇔中嶋聡(日本ハム)
④金銭⇔竹下慎太郎(阪神)
なぜかトレードで獲得したばかりの中嶋が1年でトレード要員となっていますが、ここから2015年まで現役を続けているので良しとしましょう(なにが)。
ドラフトでは自由獲得枠を2枚使って日本文理大の吉川輝昭、三菱ふそう川崎の森大輔を獲得。
しかしこのドラフトはまあ失敗の類に入るでしょう。
吉川もそこまで良い活躍ができなかったし、森に至ってはなんと1軍登板0。横浜が囲い込みまでして獲得を熱望した森ですがそもそも03年に肘痛そしてイップスを発症。プロ入り後も自慢の速球は120㎞まで落ち込みわずか3年で戦力外。一番現役を長く続けたのは4巡目指名の牛田で、暗黒横浜を支えた救援として活躍しました。
暗黒横浜の始まり
横浜暗黒時代は2002年から2015年と言われています(Wikiより)。
この期間Aクラス入りは2005年の3位の1回。最下位はなんと13シーズンのうち10回というとんでもないチームと化しました。
監督も森監督の反省から球団OBを監督に据えようとしたのに山下監督の次は球団OBではない牛島和彦ですし、その次は方針が変わったのか球団OBの大矢明彦でした。
TBS時代のブレブレの方針とフロント陣の内部抗争に選手コーチは振り回されながら長い長い暗黒シーズンを戦っていくのでした。
↑この2年後の横浜はこちらから。