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2005年 横浜ベイスターズ(3位)

プロ野球史に残る暗黒時代と言えば横浜ベイスターズの暗黒時代がとても有名だと思います。俗にいう2002年以降のTBS時代のベイスターズはDeNAに運営が変わる2012年までで8回の最下位、Aクラスになったのも1回だけという超暗黒時代でした。しかし逆に言えばそんなTBS時代でもAクラスになったことは「ある」んです。それは2005年のことでした。


山下監督退任、牛島監督へ

球団のレジェンドの山下大輔を監督に据えるも2年連続の最下位ということで契約満了ということで山下監督がこの年で退任。(なお当時山下監督はこのことを初めて知ったのは朝の新聞記事だったそうです。暗黒ですね。)
また2004年のオフに一場事件が発覚して砂原幸雄オーナーが辞任。後任には若林貴世志が就任しました。(この若林の就任以降横浜はさらなる低迷をしていくことになります。)
そんなゴタゴタの中、監督に就任したのは当時TBSの解説者を務めていた牛島和彦(くみてふ)。牛島といえば1982年に中日の守護神として優勝に貢献、後に落合博満との世紀の1対4のトレードでロッテに移籍したうちの1人です。

牛島和彦新監督
その風貌やエピソードから某掲示板では「インテリヤクザ」とか「くみてふ」とか言われてた。

この年のドラフトでは自由獲得枠をフル活用して大学No.1評価だった日本大学の那須野巧、同志社大学の染野賢作を獲得。ちなみに那須野の獲得には5億3000万の裏金があったとされ、かなり問題視されました。一方この年は主砲のタイロン・ウッズが球団と折り合いがつかず退団。その穴埋めにケビン・ウィットを獲得しています。

スタッツ

打撃陣

2005年 横浜ベイスターズ 野手陣

この年は打順が固定されていて選手の頭文字を取って「いこきさたたむあ」とネタになったりコピペ打線と言われました。1~8番まで全選手が規定打席に到達してます。
1番は石井琢朗ですが、前年と比べるとかなり成績を落としており、この年35歳ということもありだんだん活躍に陰りが見えた頃ではありました。
2番の小池正晃はこの年に大ブレイク。HRを20本打ってるのも凄いですがsれと同時に20犠打を決めるなど長距離砲と小技がうまい選手でした。
3番の金城龍彦はこの年は前年以上に打率を上げると4番の佐伯貴弘も全試合出場で35歳になっても中距離打者として前年と引き続き大活躍。
5番の多村仁は退団したタイロン・ウッズの穴を埋めるレベルで大活躍。OPSもチーム内トップの.947と特に大きな怪我もせず、3割30HRを達成。
6番の種田仁は35歳ながら中距離打者として活躍。この年横浜でAS出場したのは金城龍彦と種田のみです。
7番は村田修一。大卒3年目のスラッガーとしては申し分ない活躍を見せ、自身初の20HRを達成。最終的に24HRを打ちます。
8番は捕手の相川亮二。前年と似たような成績を残しています。この年は144試合捕手としての出場。さらに控えで鶴岡一成も一定の活躍をしていました。しかも控えには高卒5年目の内川聖一が一定の活躍をしていましたし、打線としては非常に充実していました。

投手陣

2005年 横浜ベイスターズ 投手陣

暗黒横浜の特徴として守備崩壊や投手崩壊ということがよくありますが、この年は牛島監督が投手出身なのもあってか防御率は改善。リーグ2位の防御率3.68を記録しました。
なんといってもこの年は3人の二桁勝利選手いて、三浦大輔が最優秀防御率と最多奪三振を、門倉健が最多奪三振を三浦と分け合う形で獲得しており、土肥義弘も負け越しながら10勝しています。
しかし即戦力期待だった那須野と染田は思っていたよりかは期待外れの結果に終わっています。
先発陣は完投数、QS・HQSがリーグトップでした。
一方中継ぎ陣も結果を残せており、この頃から「クアトロK」と呼ばれる4人の頭文字がKで始まる選手が躍動。その「クアトロK」とは
加藤武治(Katoh)、川村丈夫(Kawamura)、木塚敦志(Kizuka)、クルーン(Kroon)です。いずれの選手も40登板超えでK-BBも二桁パーセント、特にクルーンは55登板で26S、防御率は2.70と素晴らしいクローザーでした。

クアトロK(左から木塚敦志、加藤武治、川村丈夫、クルーン)
救援陣は3.54とリーグ2位の救援防御率に

シーズンまとめ

この年は全体を通して勝率5割を推移、この年から始まった交流戦でも19勝17敗の6位。2005年のセ・リーグといえば阪神と中日の熾烈な優勝争いや巨人のシーズン最多敗戦とかがあって5割推移のチームは結構地味に映りますが、この年は最大でも6連敗(2回)、9月には7連勝をしており、TBS横浜では比較的安定していたシーズンといえるでしょう。

またこの年を最後に佐々木主浩が引退。サムネイルの写真は地元仙台での凱旋登板の巨人戦での様子です。1989年にドラフト1位で大洋に入団すると2年目には58登板、1995年から4年にわたって最多セーブを連続で獲得。2000年からはメジャーに活躍の舞台を移し、2004年に2年9億円で横浜に復帰。
横浜復帰以降はあまり活躍できませんでしたが、NPB通算12年で439登板で挙げたセーブ数は252。これは岩瀬仁紀の407、高津臣吾の286に次ぐ3番目のセーブ数です。

このまま勢いに乗って暗黒打破と行きたいところでしたが、牛島監督2年目の2006年はやっぱり最下位に。2007年からは大矢明彦監督が再就任しますが2007年は4位で耐えるも2008年からDeNAに球団売却する2011年までは4年連続最下位。2008~2010年に至っては3年連続90敗というとんでもない暗黒を迎えてしまいます。


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