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精神科病院(デイケア)へ入職して数年し、その年度をを終えようとしていた頃、わたしに「人事異動」の打診がありました。

その異動先として、告知されたのが「医療相談室」でした。

1.異動を告知されたころのわたし。

数年も経つと、その場所での色々な勝手が少し分かり出して、基本的なの運営業務や支援にプラスして自分なりの色、付加価値をつけたいと思うころ。

まだ若かったので、尚更色々なことに手を出していました。

特に精神科デイケアは、対象が外来で治療中の患者さんが利用する場所です。

治療的な側面で言うと、わたしたちが目指す行き着く先は病気の再発(厳密には、現代の精神科医学では、病状がある程度回復している状態を完治ではなく、寛解と呼びます)予防のための術を身に付けてもらうこと。そのために必要なスキルを利用者さん自身に蓄積していってもらうこと。

そのために就労支援、SST(ソーシャルスキルストレーニング)、WRAP、疾病教育など。
色々な研修に自己投資して参加していました。

デイケアは医療の場でもあり、生活(地域)的な空気感もある場所で、会話の入り口は病気や障害よりも生活に関することから始まることが多いのですが、その中で病気の症状や障害に関して扱っていく面が出てきます。そこには治療的な枠組みだったり援助技術を発揮する舞台が出てくるわけです。

わたしたち支援者もこの世界で生活をする生活者であることは同じです。これらの治療的な枠組みや援助技術を学んでいくことは自分自身の実益も兼ねられることも多いです。
何より、自分自身にも実践していくことで、利用者さんにも説得力が出てくると思っていました。

仕事ではあるのですが、結果として一つ一つ、周りの人の日常だけでなく自分自身をエンパワメントしていく武器を身につけていく感覚で、楽しかったです。

また、一つ前の記事でも書きましたが当時、精神科デイケア界では機能分化(根拠のあるリハビリテーション)が騒がれる中、改めてわたしたちのいる精神科デイケアが提供できることは何か?利用者さんのニーズは何か?
皆で模索していた時期でした。

そういう意味では、積み上げてきた部署としての今までの強みを大切にしながらも、一方で今までに囚われ過ぎず改革していける時期だなという面白みも感じていました。

部署内のスタッフのバランス的にも、中堅になっていましたし、"自分が引っ張っていこう" という気概も強くあった時期でした。

それだけに、異動の話は整理がつかないものでした。
デイケアを利用してくれるこの人達に貢献したい。という思いは、ここでしか叶えることができません。

転職も考えましたが沢山の会話をし熟考した末、最終的には異動して医療相談室でソーシャルワーカーとしての歩みを進めてみることを自分で選びました。

2.医療相談室での最初の入院調整

中心に支援させていただく利用者さまの対象が変わりました。
外来リハビリテーションの分野から、精神科の急性期分野へ。

見ていた世界が180°違いました。

対応する相談内容、精神疾患も多岐に渡りました。(デイケアでは統合失調症や気分障害圏を抱えた方が主な関わりの対象でした)
流れるスピード感が違いました。
扱う情報量が違いました。
初対面(顔は見えず、電話の声だけ)でも、単刀直入な会話に発展することが多くありました。

受診や入院相談の場合、生活歴や精神科での治療歴はもちろんのこと、(特に入院調整の場合は)内科疾患や血液検査の結果など、可能な限り限られた時間で治療情報や健康状態、日常の生活に関する情報などを集めます。その上で、病院としてできることできないことをすぐさま判断し返答する必要が多くの場面であります。
猶予のある相談もあるのですが、今日にでも何とかしたいという相談も多いのです。

異動初日だったか数日経った頃、
医療相談室に先輩方が殆どいない時に電話が鳴りました。
事務の方から「入院相談です」と一報。

繋げられた受話器の先の相手は行政の方からだったと思います。
アルコール使用障害の方の入院依頼でした。
アルコール使用障害が何か、どんな治療をするのか、まだわたしは全く何も知りません。

とにかく主訴を必死に聴きました。
途中、先輩が帰ってきて報告し、助言を受けながら相談内容を整理しました。

夕方の勤務終了時間が迫っていました。

初めて本格的に受け取らせてもらった相談を先生に報告をします。
緊張と顔の熱くなる感覚を感じながら、とにかく咀嚼できている概要を伝えました。

わたしは先生の受入可否に対する返答を待っていました。
言われた一言は

で、(ソーシャルワーカーとして)どうしたいんだ?』

でした。

「???」頭の中は衝撃でいっぱい。金槌で打たれたような感覚。部屋の空気、情景、今でも思い出します。そしてその時のわたしの頭は真っ白。

今振り返れば、先生がソーシャルワーカーを誰として現してくれていたのか沁みる問いかけでした。

ですが、その時のわたしは、もう気持ちが折れていました苦笑。
分野は違えど同じ病院の中で、数年間、働いてきましたが「今まで何をやっていたのだろうか?」と、自分に対する失望でいっぱいだったのです。

そんな出来事から、わたしの医療相談室でのソーシャルワーカーとしての日々が始まっていきました。
(潤覚えですが、その相談の方は最終的に先輩のサポートもいただきながら入院をお受け入れさせていただいたと記憶しています)


3.医療相談室での日々とわたし。

医療相談室で日々奮闘しながら、気がつけばデイケアと同じ歳月過ごしました。
最終的には2年くらいデイケアよりも長く所属し、さまざま経験をしました。
2〜3年目の頃が1番、精神的にも危ない時期があったのですが、同僚のサポートや、仕事以外のコミュニティの存在も力づけとなり、続けることができました。

医療相談室に所属してみて実感したのは、大きく4つです。

①医療相談室の人=ケースワーカー(≒ソーシャルワーカー)と、認知されている。

患者さんにとっても、ケースワーカー(≒ソーシャルワーカー)と言って思い浮かべるのは『医療相談室』にいる精神保健福祉士たちが多いようです。
精神保健福祉士と言ってもピンとこなくても、ケースワーカーや相談室の者だと名乗ると、理解される患者さんが多くいました。

改めて、日本では医療相談室の機能はソーシャルワーカーにとしてのステレオタイプの一つなのだな、と実感しました。
他のセクションで働くソーシャルワーカーと上下関係はありませんが、デイケアから異動をした時には利用者さんから『出世だね。おめでとう。』と言われることがあったんです。

ある種、精神保健福祉士であること、ソーシャルワーカーに関して一つのステレオタイプとも言える部署で経験を積めたことは、専門職としてのアイデンティティの土台を築いていく上でとても貴重な時間だったと思います。



②病院の代表者(地域との窓口)という責任と可能性
院内外の沢山の専門職、患者さんのサポートする人たちと一緒に、患者さんの生活を応援していく、大きなスケール感。

院内でも、部署が異なる中で看護師さん、臨床心理士さん、作業療法士さん、医事の方や臨床検査技師さん。
院外では、行政、計画相談、ケアマネージャー、地域ケアプラザ、訪問看護、ヘルパー、作業所や就労支援施設、デイケア、他の精神科病院の相談室、一般科の地域連携室、救命救急センターの先生、救急隊員、警察、裁判所、弁護士さん、不動産さん、患者さまのお勤め先の方、ご家族(内縁関係という方も含む)、ご友人、知人、葬儀屋さん、民生委員さん、簡易宿泊所の帳場さんなど。
県内に限らず、時に遠方の県の関係機関とやりとりすることもありました。

難しいこと、葛藤、理不尽なこと、沢山あります。

それぞれが沢山の人が色々なことを言いますし、その中にはそれぞれの解釈も含めた情報が行き交います。
そうしたものを繋ぎ合わせながら、時に交差するものを結びつけながら、これだけ多くの人たちと一人一人の患者さんの生活をプロジェクトしていく感覚はデイケアの時にはあまりなかった感覚でした。

退院後の患者さんの生活を細々とではありますが、通院頂いてる限りでは見守ることができるのも、ソーシャルワーカーならでは。応援団の中心から離れても、時々伝わってくる生活の様子を聞くと、患者さんが頑張りや格闘を持ちながら今も生きていることに力をもらうことができました。

自分たちの日々の振る舞いが、地域の皆さんがどんな病院として見てくれるのかを形づくりと言っても過言ではないーそんな大きな思いを持ってやれるのも、病院の医療相談室の魅力の一つかなと思います。
大抵の場合、病院とのファーストコンタクトは医療相談室のソーシャルワーカーとなると場合が多いのではないでしょうか。

「私たちの発した言葉が、私たちの病院の取り組みや姿勢を示すものでもある」
年数を重ねるごとにわたしは思うようになっていきました。

すべてのニーズには応えられていない現実はあります。まだまだ力及ばずです。

そんな中でも、『困った時は、とりあえず相談してみよう。』『何か、今抱えている課題の突破口が開けるかもしれない』『課題に対して適切な相談先が見つかった』等、望まれた結果をつくれなかったとしても次に繋がる何らかをgiveできる。
そうしたコミュニケーションの積み重ねが、精神科病院が地域にある社会資源の一つとして活用しやすい場所として認知されていくことに繋がっていくんじゃないかと思いながら、過ごしていました。

これは余談ですが、医療相談室に配属されて格段に増えたのは先生とのやりとりです。
病院の先生という存在は今までの人生では遠い人たちでした。そんな先生方とフラットな距離で仕事ができるという不思議さ。

特に、わたしがいた病院の先生方はケースワーカーを頼りにしてくれていた先生が多かったように思いますし、単なる資源の紹介というだけでなく、相談してくださる先生方でした。こちらの意見も一旦は意見として聞いてくれましたので提案のしがいもありました。

患者さんへの提案をわたしたちがするにあたっても、その意図が患者さんに伝わるようにサポートいただいたことも少なくありません。
比較しようはありませんが、とても良い環境で、仕事ができていたと思います。

③死や残された人生の時間に直面しながら

病院である限り、時に人の「死」に出会うこともあります。

人生で、親戚や友人の死以外に立ち合う機会というのはそう多くないと思います。
日常的なケアという点では、先生や看護師さんと比べると、患者さんとは少し距離のある私たちですが、それでも多くの打撃を受けるものです。

死にも色々あります。
ソーシャルワーカーとして「これができていたらもしかしたら結果は違ったのかもしれない」と、どうしようもない気持ちになることもありました。

退院先の調整が難航することが精神科では時にあります。
特にわたしが葛藤したのは高齢と呼ばれる世代の方々を担当させていただいた時。あとどのくらい生きられるだろうか?という中での入院期間。
想像はできても、実際にその思いをどれだけ受け止められているだろうかと思いながら、環境調整が滞り、申し訳ない気持ちになることも多々ありました。

その分、退院を見送ることができた時は、何とも言えない気持ちになりました。

もちろん年齢は関係ありません。
どの年代だとしても、そこで失う時間は尊いものです。

日本の精神科における入院在院日数は平均290日と言われています。
ここ十数年で若干短くなってきましたが、長すぎますよね。個人差も大きくあります。。

わたしにとって病院は出勤する場所です。
その日のうちに帰ることができる場所です。
入院患者さんにとってはそうではありません。

そのことを忘れずにはいられず、休みの日も、自分の不甲斐なさに直面する日々でした。

現在も多くの患者さんが病院に入院しています。

今わたしは病院から一旦離れました。
それでも、病院にどんな人たちが今いるのかを知った上で、地域福祉のフィールドに来れたことは、きっとこれから大きなわたしの強みなるだろうと思っています。

今いる場所から、入院ではなく、なるべくその人が送りたい場所で生活をできること。そのことを間接的にできることを模索していきます。

④個に見えて、高度なチームプレー。

相談は個々にうけていますが、同時多発的に相談室にいるソーシャルワーカーは相談を受けています。

またそのうちに上手に言葉に出来たらと思いますが、一つの相談を成就させるためにわたしたちがチームで動かそうと思ったら、1人で調整する何倍もの速度で引き起こせる。

これは、本当にものすごいエネルギーをその場で体感します。あの座って電話をしている最中で身体中の鳥肌感、躍動感。

『一つのアートだな』
とわたしは思います。

中々外の人に見られることもないところかもしれません。ですが、渦中に居て感じるのです。同僚たちの熱いエネルギーを。
この一員でいることができて光栄だな、と感じさせてくれる痺れる時間でした。

この思いがいつか患者さんに届いて欲しいと思うのです。



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