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あなたが会いに来るあたしになる

今日朝ドラの最終回を見ていて思い出したことがある。
長い物語なのでものすごくざっくり1シーンをまとめると、現在英語のラジオ講座で教えている主人公が、英語を勉強したいと初めて思ったきっかけとなり、初恋の相手でもあり、英語が話せなくて悔しい思いをした相手と50年近くたって再会し、伝えられなかった言葉を英語で伝えるというものだ。

あたしは主人公と年が2つしか違わない。
15歳の時、父に連れられて渡米し、いきなり現地の公立高校に編入した。
当然英語は理解できず、毎日教室で誰とも話さず、何も発言せず、何もしない日々が始まった。
父が米国内で転勤になったのでその高校には1年しか通わなかったのだが、アメリカ西海岸の明るい海が臨める小高い斜面に立ち広大な敷地を有する学校で、ちっとも学校生活は楽しくなかったのだが、学校そのものは気に入っていて休まず通った。
英語の先生は気にかけてくれていたが、毎日仏頂面か愛想笑いしかみせないあたしではコミュニケーションが取れるわけもなかった。
美術だけは何か描くたびに周りに生徒が集まってきて大騒ぎになった。
(あたしの武器は絵なんや!)
そう思った。

転校自体は日本で幼稚園3園、小学校4校を経験済みだったので知らない人間に囲まれるのは慣れていたし、あからさまに人種差別を受けることもなかったので日本のよそ者いじめの方がキツかったくらいだ。
誰もあたしにちょっかいを出してきたりしないで、基本無視してくれるのであたしは思う存分のんびり人間観察に没頭した。
身長160㎝なのでとびきり小さいわけでもないのだが、やはりアメリカ人は骨格そのものが大きく、巨人の森に迷い込んだかと思えるほど自分が小さく感じられたものだ。
特に女の子たちは昭和50年代の大阪の地方都市からやってきたあたしには、眩しすぎるほどきれいだった。
透き通るようなブロンドにゆったりウェーブをかけ、お化粧をして、とても短いショートパンツから長い脚がすらりと伸びていた。
(これがカリフォルニア・ガールズなんかぁ~)
当時ブロンディーというバンドが流行っていたのだが、そのボーカルであるデボラ・ハリーに入れ込んでいる女の子がいて、その子は毎日ハリー女史に寄せた面白い恰好をしてくるので見るのが楽しみだった。
なんて名前だったかなあ。
確か学校新聞で「学校ではデビーって呼んでほしい」みたいなことインタビューされて語ってたな。
いまにしてみればLAという土地柄スカウトとかもされやすかったんだろうな。
そんな”デビー”ウォッチャーのあたしだったんだが、彼女の付き合ってた彼氏も同じ学年にいて、こっちも北欧のバイキングかと思うくらい白っぽい金髪に透き通るような青い瞳で、しかもいかにもこの土地らしい「サーファー」だったのである。
当時の大阪にも「陸サーファー」はいたと思うが、そいつら全員ぶん殴っても誰も文句言わないんじゃないかと思うくらい彼は完ぺきなサーファーだった。
日焼けしてて、裸足で、いつもニコニコ幸せそうだった彼はコーキーと呼ばれていた。
彼が”デビー”と並んでいるとそこだけ映画のワン・シーンみたいでウォッチャーとしては眼福ものだった。
(こんな人たちと同級生だなんて、アメリカ来てよかったあ~)

あたしは学期末に描いた絵で校内展の最優秀賞を取った。
その時の美術のクラスには”デビー”がいて、校内新聞の取材に何も答えられないあたしに代わって「こいつ外国から来たばっかりでさ、なんにも喋らないんだけど、絵はうまいんだよね。ほら、カメラ見て笑いなよ!」みたいなことを言ってくれたのも今は良い思い出。

さて、あたしは11年生を東海岸の公立校で迎えることになり、ここが結構な進学校で授業についていくのが大変で、ちょっとでも気を許すと容赦なく落第させられ、それは外国人だとか英語の理解力とか全然考慮に入らないのでまずは米国史のクラスで最初の一か月で落第を言い渡され、荷物をまとめて下のレベルのクラスに移動することを告知されたときは悔しさと恥ずかしさで泣いてしまい、もう必死で勉強し、おかげでダラダラのんきに過ごしていたLAとは大違いに成績も英語理解度もぐんぐん上がり、2年後無事優秀生として卒業出来、大学に問題なく入学することができた。

大学はLAに戻った。
急に父親が帰国することになったので、一人で暮らすならLAにしようということにしたのだ。
英語も文化も慣れ親しみ、あたしはようやくアメリカでの生活を楽しむことができるようになっていた。
在籍していた高校にも何かのイベントがあった時に顔を出してみた。
以前お世話になった英語の先生がたまたまいらして挨拶すると、「まあ、クリス、貴女ったらすっかり英語が上手になって!」と喜んでくれた。
「私のことを覚えていてくれて、自分から話しかけてくれるなんて、嬉しいわ!なんだかきれいにもなったのね。ごめんなさいね、実は初めて会った時は男の子かと思っていたのよ。」と涙ぐみながら話してくれた。

大学のスピーチのクラスでコーキーと一緒になった。
あたしはもちろん彼を覚えていたけれど、彼はあたしが同じ高校で同級生だったことなど知らなかったであろう。
だからなれなれしく話しかけたりしなかった。
なにしろあたしにとってはアメリカで会った初めての「芸能人」みたいな存在なのでびっくりして距離を保っていたのだが、彼はもともとフレンドリーな人物なので同じクラスの人間にはだれかれとなく愛想よく挨拶をしていたのであたしもいつしか挨拶くらいはするようになっていった。
そのクラスの最終試験でひとり5分ほどスピーチをすることになった。
皆が各々興味のあることについて理路整然とスピーチする中、あたしは完全に笑いを取りに行った。
関西人の悲しい性である。
たとえ外国人相手であってもしゃべるからにはウケたい。
白人女性と有色人種の女性に対する男性の対応の違いなどを若干ブラック・ユーモアかませつつ、5分間のうち3分くらいはどっかん、どっかんいただいたと思う。
いい気分で駐車場に向かっているとコーキーが声をかけてきた。
「いやあ、すばらしかったです。面白いスピーチだった!」
(そういえばこの人、いつもフレンドリーだけど、デビーに比べるとしゃべりは丁寧だったなあ)
「コーキーのキング牧師の話もさすがによかったよ。」
「ぼくなんか. . .スピーチは必修だからとってるだけだから. . .きみはコメディエンヌになれるよ。ぼくが出会ったどのアジア人よりも面白い!」
「それはどうもありがとう。」
「じゃ、また来週。」

なんてことのない、礼儀正しい若者の会話。
でも、あたしの中ではとても大事なやりとりだった。
(ああ、ここまで来たんや。)
当時このままアメリカに残って絵の勉強を続けるか、帰国して就職するかで悩んでいた。
でも、コーキーの方から話しかけてもらえて、決心がついたというのは大げさでも、前に進む自信になったし、アメリカで一つ達成感みたいなのを得た瞬間でもあった。
あたしは日本に帰国した。
それがあたしにとって良い判断たったのかどうか、いまでもわからないんだけどね。

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