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青い芝

「隣の芝は青い」
自分のものより、他人のもののほうが良く見えるということを意味する表現。より一般的には「隣の芝生は青い」という。

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 人間という生き物はありとあらゆる感情を持っているが、よりよく生きていくためには、感情をある程度制御できるようにしなければならない。

 喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。これらだけでなく、人間は様々な感情を持っているが、その中でも最も飼いならすのが大変なのが、嫉妬であると思う。
 人間は誰しも嫉妬という感情を持っている。毒にも薬にもなるもので、上手く使いこなすことができればエネルギーとして上昇志向をもたらしてくれる。
 しかし、そんな境地に至ることができる人間は稀であろう。小説なんかでもよく聞くではないか。『人間は、誰しも嫉妬という化け物を飼っている』と。心の奥にいる化け物として表現されるものなのだ。


 さて、現在の私は人生2回目の長い長い休みを過ごしている。若干持て余し気味だった夏休みと比べ、予定という名の予定が詰まりに詰まっている。カレンダーアプリを見ていると、あまりの詰まり具合に自分でもびっくりしてしまったものだ。
 ちょうどこの記事を書いている頃は、本来であればそんな詰まり過ぎた春休みのうち唯一といっていい空白期間になる予定だったのだが、生憎苦手も苦手な微積分の授業の単位を落としてしまい、腹立たしさを覚えつつ再試験に向けて勉強している最中である。自業自得、因果応報、まあそういう状況なので、文句を言うわけにもいかないのだが。実際、微積分が苦手過ぎる私にはとても単位を貰うという資格はないだろうけれど、何も中間試験で平均点が60点ってどういうことだよ。下駄期待するだろ。期末試験の直後は意外といけるかもしれないと思っていたのだが、どんだけミスしたんだ。
 まあ仕方なく勉強をしているものの、本試験の頃は中間、期末共に他の科目の試験などに追われて微積が苦手なはずなのに後回しになってしまい、充分な時間を確保できなかったものだから、今はじっくり微積分に向き合うことができているのは幸いかもしれない。こんなの書いている間に勉強しろよというツッコミが入るかもしれないが、苦手な勉強ほど気が進まないものである。一応再試験を受けると判明したのは一週間前であり、ちまちま勉強を進めているのだが、元から苦手というかもはや大嫌いの領域に達してしまっていること、それから今自分の中で別にブームが来たものがあってそっちに気を取られている。多分一週間の勉強時間を圧縮したら1日2日になるのではないか。


 なんだか微積分に対する恨みが長くなってしまったのだが。
 そんな状況下で気分転換(という名のサボり)にInstagramを見ていると、周りの充実した状況ばかりが目に入るわけである。当たり前である。私が単位取得に必要な勉強を怠った間に、周りは勉強していたのだから。
 本当の本当に自業自得なので、羨ましがる資格など皆無であるということは理解しているつもりなのだが、理解していることとは別にあの化け物は私のメンタルを崩しにかかるので、ただただ勘弁してくれというほかない。

 まあただ、こういう状況ではなくても、SNSを見ていると本当に化け物が暴れだすものである。自分がアルバイトをしている間に、バレンタイン漫喫してるストーリーが流れてくるとか、こっちはテスト期間だというのに先に終わった方々がディズニー行っているとか挙句の果てに海外行っているとか、そういう経験がないという人は本当に幸せであると思う。
 浪人生とかSNSやっていると気が狂うのではないか。現役の間は少なくとも自分の同級生は同じ状況にあるのでまだ被害は少ないかもしれないが、浪人生はちょっと想像するだけでも悲惨である。受験生の息抜きでSNSが奨励されないのもごもっともな話である。

 自分が決めたことをやっているだけなのに、周りの状況が目に入ると羨ましくなってしまう。人間はどうしても比較してしまう生き物だというが、なかなかままならないものである。

 そうでなくても、同じ試験期間にだって思うことはある。一応私もこの期末試験では微積分以外はそこそこ勉強していたはずなのだが、もともとそこまで頭脳面で優秀ではないのでやっぱり仮に同じ勉強量でも差がついてしまい、凹むことはあるものだ。
 集中力のない私が90分間の授業を真面目に聞き続けることなど端から期待してはいけないのだが、それでも同じように授業聴いていない人たちの方が上を行かれる、とか、何なら自分は興味があって真剣に授業を聞いているのになぜか聞いていない人たちの方が成績がいいとかいう状況に陥ると流石に堪えるものがある。

 実際は水面下で努力していると言われる。あたかも簡単そうにやっているように見えて、習得のために長い時間向き合ってきた、それだけのことであり、小学生でも分かる簡単なからくりである。ただ、他人の目にはそれが映らないか、あるいは本人が必死に隠そうとしてきたか。それだけのことであって。

 誰にでもハンデはあり、得意なこともあり。それぞれがそれぞれの環境と特性を基に頑張って生きている、その集合体が社会である、そうは分かっていても、いや分かっているからこそ化け物は収まってくれない。私のまだ先の長い人生における目標の一つがこの化け物と何とかして折り合いをつけることであることは間違いないだろう。

 逆に、他人は自分のことが青く見えているのか、ふとそう疑問に思うことがある。少なくとも、今の自分は否であろう、というのが結論である。多分、歯牙にもかけられていない。そりゃあそうだろう。今の自分は自業自得の成れの果て、そういう状況にあるのだから。
 けれど、化け物と相性のいい怪物に、承認欲求とかいうやつがある。怪物も怪物で厄介なものだ。というか怪物って化け物が変化したものじゃないだろうか。怪物は私の理性をよくこう誑かすのである、「自分だって青く見られたい、青い芝生でありたい」と。本当にやめてほしい。

 今の自分の精神面における健康状態が悪いのは間違いない。嫉妬という化け物、承認欲求という怪物、欲望という悪魔が理性を散々に虐めている。常に脳内で戦争が繰り広げられている。
 いつかこいつら自身が、自分のこと『青い芝生だ』とでも感じてくれればよいのだが、なかなかそうはいかない。所詮は自分を棲み処にしているのだ。決して他人には見えないはずの色々な苦悩がいとも簡単に見えているはずだろう。

 そういう意味では、SNSとはこの戦争の中にガソリン注ぎ込んでいるようなものだ。そしてSNSは麻薬のようなもので、一旦始めたら最後、二度と辞められない。SNS断ちは正直不可能に近いだろう。そういう時代なのだから。そうして元は純粋無垢な青い芝生も、いつしか焼野原にしてしまう。

 青い芝生など、幻想なのだ。人間が手に入れたくても手に入らないもの、そういう象徴なのかもしれない。
 とかく人の世は、生き辛いものである。


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