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われわれはなぜ他者に許されたいのか 〜他人軸に縛られる価値観〜

こんにちは。

最近自分は他者に許して欲しいのだということに気づきました。
いきなり言ってもよくわかんない気がするので例を挙げます。

例えば、僕がなにかできなかったとします。(自分のタスクや頼まれごとが、間に合わなかったとか、能力が足りずできなかったとか。)
そういうことがあった時、僕は周りの人に許してもらいたいのです。
というか、許してもらえないとひどく落ち込んで、不甲斐なさ、罪悪感、劣等感に苛まれ、苦しむのです。

「できなくてもしょうがないよね」、「君はよく頑張ったよ」と周りの人が声をかけてくれ、周りの人が至らない自分を許容してくれているという安心感がないとひどく苦しいのです。

なぜこうなるのかを考えてみます。

おそらく、自分のやるタスクは、他者貢献という名の媚びであり、社会に許容され、愛されるために行なっているのです。
なぜなら、何も為せていない自分が、社会に許容され、愛される自信がないから。

他者が求める自分になり、他者に貢献することで、許容され、愛してもらおうとしているのです。

ですが、それができなかった時、自分になんの価値もないように感じ、見捨てられるのではないか、自分がいる意味がないのではないかと焦り、誰も自分を愛してくれないような気分になり、恐ろしくなってしまうのです。

だから、できない自分でも許容し愛してくれる人が周りにいることを確認し、安心がしたいのだと思います。

めちゃくちゃ他人軸ですね。
コトに対する価値判断の軸が、「やるべきことができたか」、「やりたいことがやれたか」でもなく、「他人に許容されたか」になっている訳です。

よく、他人軸で生きることは自分の人生ではなく、他人の人生を歩むことになってあまりよくない、といった旨のことが自己啓発本に書いてあると思います。

どれだけやりたいことをやっていても、どれだけ成果が出せていても、他者に許容されていないと意味がないと感じてしまうのです。

なんとかこの考え方からちょっとずつでも脱却していけるといいのかなぁと思います。

ちなみに現状僕はこの価値観から脱出するヒントを全く掴んでおりません。

結構悩むタチなので、ぐだぐだ苦しみながらちょっとでもヒントを掴んで何かが変われるといいのかなぁと思っています。

とりあえず、弱い自分をさらけれる人にちょっとずつさらけだしていって、意外と大丈夫だなって感覚を掴めるようにしてくのがいいのかなぁとパッと思ったのでやってみようと思います。

意外と僕と似た感覚を持っている人は多いと思うので、お互い許しあいながらうまく生きれる方法を見つけていけるといいですね。(今後もこれに関してかんがえていくと思いますし)

ではまた。

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