
28歳にして人生の進路が決まった話
何者かに、なりたかった。
ずっとずっと、自分はすごいんだぞ、こんなもんじゃないんだぞ、って気持ちが体のどこかにあった気がする。
でも、やめることにした。
今回は、28歳が今更ながらに人生の進路を定めましたというお話。

夢は、健やかで穏やかな生活と猫
このところの私の夢は、日当たりの良い家で猫二匹と穏やかに暮らすことだ。これは私がメンタルダウンしていた時に、信頼できる同期が「あなたは将来どうなっていたいの」と問うてくれた時に出てきたものである。
それがするんと自分から出てきた時に、あれ、じゃあ、仕事そんなに頑張らなくてもいいじゃん、と思えた。
当時の私は、仕事を頑張らなくちゃと思い過ぎるがあまり、心身ともに調子を崩していた。ほどほどにやるとか、どうでもいいところは手を抜くとか、まあいっか&えいやー!と思ったりすることができなくて、全ての作業とコミュニケーションに全力投球しており、結果ストレスで適応障害になってしまった。
もしかしたら、ここは私がいるべき場所じゃないのかもしれない、そうであれ、と思って転職活動もした。自分が何者かになれるような、周りと一緒にバリバリと働いてこの世に何らかの痕跡を残せそうな業界の選考を受けたりもした。けれども、途中で私の直感が『違う、これじゃない』と言い出した。私のやりたいことは、新卒で入った今の場所に充分あるし、私が本当に大切にしたいのは「自分以外の何者かになること」ではないんじゃないか、と。
同期からの問いと、体調を崩した経験と、はじめての転職活動により、これからの私が大切にしていきたいことは何なのかの考えがまとまってきた。健康と、生活と、大切な人との時間。私は不器用で体力もないので、大切にしたいものは多くない方が良いと思った。その分、ちゃんと大切にしていきたい。大切にするやり方が分からない時もあるのだろうけど、大切だということは忘れないでいたい。仕事は、ゆるく、自分が楽しいと思える距離感でやっていこうと思う。
ものづくりが生きる糧になったら素敵
物心ついた頃から、ものづくりが好きだ。私の母は何でも手作りできる人だった。料理やお菓子はもちろん、洋服や布小物、野菜にDIYと、家にはものづくりの道具や材料が溢れていて、「つくる」という動作は私にとって身近だったし、興味の対象となった。
私が一番好きを示したのは、食だった。小学生だった私は毎晩台所に立って母を手伝い、5年生になる頃には立派に揚げ物までの一通りをマスターした。中学生になるとお菓子作りに目覚め、週末はレシピ本を眺めては目に留まったものを作る生活。おかげで独り立ちしてからの自炊や、バレンタインの友チョコ配りは楽勝だった。母には感謝している。
料理以外にも、裁縫、ビーズ、刺繍など、ちくちくする系も大好きだった。母にもらった端切れを大切に保管していて、たまに取り出してはニヤニヤしながら眺めるという変態っぷりであった。ハンドメイドのキットがついている雑誌を定期購読させてもらい、私に何か作らせろぉぉお!といった気迫で毎月の到着を待ち望んでいた。
ところがそんな私はどこにそれらを置いてきたのか、とくになんの趣味もない大人になった。
なったのだが、先日彼に連れていってもらった「デザフェス」というイベントで新たな夢が生まれた。そこにはさまざまな人間によって作られたさまざまなものがあり、「はっ、人間ってものを作れるんだった.…!ということは私も...?」と、ものづくり欲が湧いてきたのだ。
どんなものを作りたいのか、全くなんにも決まっていないが、いつか自分の好きが詰まったものを作ることを趣味にしていけたらいいな。そう思って買った刺繍キットがもう数ヶ月も放置されてはいるけど…。
目標は、生まれて良かったと思えるようになること
私の人生の目標は長らく、就職に焦点が置かれていた。なので志望していた業界から内定をもらえた時、達成感と同時に、「あ、やることがなくなった」という心持ちになった。あとの人生を盛大な余生に感じてしまった。
とはいえ、社会人になっても存分にもがき苦しんでおり、余生とは程遠いドタバタっぷりなのでかっこ悪いことこの上ないが、なんらか目指すものを設定しておかないと心地が悪いというのが私の性だった。
そんな今の自分は、「死ぬ時に、生まれて良かったと思えること」を目標にしている。なんせ私は生まれてこの方、「あ〜、この世に生まれて良かったっ!」のような爽やかな気持ちになったことがあんまり無い。「ちっ、何て日だ、こんな世の中じゃポイズン」と思っている時間の方が圧倒的に長い。
でも、それじゃなんか悔しくね?と私の中のギャルがある時言ったのだ。それって、人生攻略できてないってことじゃね?ダサくね?と。
それから毎年の誕生日には、「生まれて良かった度」の進捗を確認するようにしている。ここ数年の推移が以下だ。
2021年
生まれてよかったと、思えるようになりました。
2022年
生まれてよかったかどうか、
そんなことどちらでも良い。
生まれたので生きているだけ、
と考えるようになった。
2023年
生まれて良かったかどうか、
考えなくても良いくらい、
幸せを信じることができている。
いきなり2021年の時点で目標達成しているじゃあないか、と思ったが油断は禁物。この手の感情はすぐにどこかへいってしまう、風のようなものなので、何度でもそう思えるように人生に散りばめておく必要がある。いつ死ぬかわかんないしな。
🪽🪽🪽
こんなこと達を考えていた去年の暮れ、「キリエ・憐みの讃歌」をよく聞いていた。担当の方、走馬灯のBGMはこの曲でお願いします。
夢などをあらためて書き起こしたことで、目の前の出来事や感情に囚われることや、大切な人と大切な日々が見えなくなることが少なくなると良い。繰り返す痛みにもそれで良いんだって思いながら。
