![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/148115866/rectangle_large_type_2_c2c695a6122fb2393a110f5fc91f5c55.jpeg?width=1200)
大切を大切にできていない日々
その感情は、大きなうずくまっている、熊。
泥だらけで、無表情で、何日もごはんを食べていない。
とても大きくて、存在感がある。車くらい大きい。
居座られると、それしか見えなくなるし、そこから目を逸らせなくなる。
どんよりしている。
怖いと、嫌だと、辛いと、しんどいと、悲しいの混ざり合った、触るとざらざらとしている感情。
重たい鉛が心臓に詰まっているようで、動くとずくんと痛む。
これがあると、息を吸うのが難しくなる。
どんよりとした雲が、膜がかかったようで、心がそこから出られなくて、ぐるぐるともがき続けている。
眠ってしまって、知らなかったことにしたくなる。
原因は、何だろう?
今の私の生活は、客観的に見れば恵まれていて穏やかだ。
居心地のよい家があって、十分に暮らせるお金があって、人間関係の良いホワイトな会社に勤めていて、本や台所や植物といった好きに囲まれていて、週末はピラティスをしたり自然に身を置いたりして、たまに旅行をして生きている。
彼もいる。こんな状態の私に嫌な顔一つ向けず、信じて待っていてくれている。
何が不満なんだろう。何が足りないんだろう。
今に目を向ければ、こんなにも足りているはずなのに、心が穏やかの方へ動かなくて、どんよりの方ばかりに囚われてしまう日々。
虚像でしかないしんどさに、こんなにも視界を奪われる。
抗うつ剤を抜くと、こんなにも私は弱いのか。
悔しい。悲しい。
何もいらなかったから、健康な心だけが欲しかった。
何もいらなかった、不幸も、幸せも、生きるも。
どうして健やかに生きられないんだろう。
数カ月前、仕事を休んで療養に専念していたころのノートを読んだ。
別人だった。
あの頃の大丈夫を全て忘れてしまっていて、あの頃の手触り感のある自分をこれっぽっちも思い出せなくて、また暗闇に囚われて出られなくなっていることが、過去の自分の見出した意味を大切にできなかった自分が、情けなくてふがいなくて悲しくて申し訳なくて。
また、目を伏せてやり過ごすしかなくなってしまっている。
どうやったら過去や未来に囚われなくなるだろう。
将来が怖い。健康でいられるか、生きる意味はあるのか、死ぬときにそれまでの選択を後悔しないか。
過去が重い。もっとよく生きられなかったか。不遇さを一生悔やんでいくのか。選んできた道が間違っていなかったか。
考えても仕方のないこと、で片付けられがちなあれこれを、私は途方もなく考える。
だってこれが、今の私にとっては、そのままの私と向き合うことだから、自分を大切にすることであってしまっているから。
自傷行為でしかないのも分かっているけど、これしかない。
これを否定したり見なかったことにするのは、自分を無視することと同義だから。
向き合い切って、咀嚼して、どろどろになるまで消化して、自力で浄化するしかない。
そうできてはじめて、熊のような曇り空が風に流されて、晴れ間が見えると信じている。信じることを、自分を信じることを諦めきれないから、今日も明日もこれからも、私はぐるぐると考え続ける。
いつかここから抜け出して、Happyと安寧の方を向いていられる日が来ることを願って。
2024.07.22 朝のジャーナリングを漂流