親友がLGBTカフェを開くってよ。
私の親友が、今度LGBTsのコミュニティカフェを開くんだって。
前半は親友について、後半は私の考えを書くね。
親友、というか相棒みたいなやつで、遊ぶのも生徒会もいろいろ一緒にやってきた子。
昔から、男の子だけど女の子っぽいところもあって、性別に関係なく親しまれていた。
中学生の時、「〇〇君が好きやねん」と教えてくれた。
その時思ったのは、「そうなんやー」
大学に入って、親友はアメリカに1年留学した。
その間に、恋人ができたらしい。
「ところで、男の子なん?女の子なん?」
「どっちやと思う?」
めんどくさいな笑。
「んー、男の子やと思う。」
「せやでー」
特にあらたまって話したことはないけど、ゲイなのかな?バイなのかなー?(バイはバイセクシャル。両性愛者のことだよ)
どっちでもいいので、特に聞かなかった。
それが正しいのかはわからない。センシティブな話題だよね。
LGBTカフェを開くことになって、親友と性について初めて話した。
親友は、Xジェンダーという、男の子でも女の子でもないという性自認らしい。
そうなんやー。
性を自分で選ぶというか、認めることはかっこいいなぁと思う。
理解されにくい領域ならなおさら、苦労や勇気もあったと思う。
実際にお母さんには拒絶されたみたい。事実だけで気持ちについては深く聞いてないけど、つらかったと思う。
…私は自分で、性的マイノリティについて理解があると思ってた。
非難はもちろんしないし、特別なことだともあまり思っていない。
男の子でも女の子でも、そうじゃなくても、その人自身をみたいと思っている。
ただそうした時に性別をどう位置づけていいかわからない。
性がいらないものなら、こんなに困らない。子孫繁栄だけでなく、なにか大切な役割があるから、ジェンダーについてこんなにも真剣になるんだろう。
私は今、女の子と自認している。
それまでは性別なんていらないって、中性的な立場をとっていた。
社会でのくくり、同性や異性との向き合い方、性的な好み。
どこかで違和感を感じて、生きやすさ、自分らしさを求めるのは、性的マイノリティでも、マジョリティでも同じなのかもしれない。
でも、選んだ道は歩かなきゃいけない。
ある友達は親に「孫は諦めて」と言ったり、同性との距離のとり方に悩んだり、性的な欲求の行き場に悩んだり。
私はその苦しみは背負っていない。
当たり前だけど、理解できることもあればできないこともある。
さあ、カフェはどんな風になるかな。
リアルな場で生身の人間同士、性を語ることはきっと大きな意味につながると思う。
孤独じゃないよってメッセージが伝わればな。
とりあえず、私の話はこの辺で。
今生きにくい人も、自分らしくのびのび生きられるように。
そのきっかけを私たちで作っていきたいね(^^)
やびー
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