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ライカ

 プロローグ
 
 
 あの真夜中のプールサイドで、本当はぼくは、飛び蹴りをしてやりたかったんだ。
 一人をいたぶって笑う最低な奴らの背中に、ぼくの靴の痕がくっきりついて、そのまま前のめりに倒れこむ。
 そんな光景を、本当は。
「馬鹿、みちる!」

 けれどぼくの目に飛び込んできたのは、顔を歪めて苦しそうに叫ぶ、海の顔だった。
 
 


 母親同士が仲が良くて、家が隣で、幼稚園児の頃からずっと一緒にいる存在のことを、“幼馴染”というのなら、ぼくと海はまさしくそれにあてはまる。
 以前に一度、相手が男じゃなくて、可愛い女の子だったらなあ、なんて言ったら、海はむすっとした顔で「それはこっちの台詞だ、バカ、アホ」と言った。
 そんな海が先週、死んだ。
 ぼくのせいだ。
「あんたのせいよ!」
 ハッとした。
 その女の子は、殺してやる、とでもいうような、それはもうものすごい形相で僕のことを睨んでいた。つい数秒前までざわざわと騒がしかった教室が、しん、と静まり返っている。
 この子、誰だっけ。
 気の強そうな、ショートヘアの女の子。……そうだ、海の彼女だ。名前は、知らないけど。
「海はあんたを助けようとしてあそこに駆け付けたのに、あんたは海を見捨てたのよ!」
 わあっ! と大きな声で泣き喚いて、両手で顔を覆ってしまう女の子。思い出した、須賀さんだ。隣のクラスで、バレー部の。
「彩音、落ち着ついて」
「あたしは絶対許さないんだから! あんたさえ……あんたさえいなければ海は!」
 ドラマの一場面を見ているような気分だった。
 須賀さんは、その後も大きな声で喚き散らした後、友達に引きずられて自分のクラスへ戻っていった。ぼくのもとには、騒がしさの余韻だけが残った。
 海、お前本当に、あの子と付き合っていたのか? 
 お前が一番苦手そうなタイプじゃないか。
 海が死んでから、ぼくの日常は驚くほど静かになった(もちろん、須賀さんに声をかけられたことを除いて)。皆がぼくのことを、犯罪者でも見るような目で見てくる。ぼくはじっと黙って、そういう視線を受け止める。ただそれだけの日々が、淡々と過ぎていく。
 海は美形で頭が良く、いうまでもなく女の子によくモテた。
 対してぼくは、細い目に低い背、運動音痴で、勉強だってできない。ぼくらはきっと、というか絶対、“幼馴染”というカテゴライズ(この言葉合ってるか?)がなければ仲良くなんてなっていなかっだろう。ぼくは海のような人気者に、間違っても近づこうとしなかっただろうし、海だってぼくみたいな日陰者のこと構いもしなかったはずだ。
 けれどぼくらは友達になった。
 それはぼくらが“幼馴染”だったからだ。
 海が死んでからも、当たり前みたいに朝は来た。ご飯を食べたり食べなかったりしてから家を出て、大人しく椅子に座って授業を受け、放課後になれば家に帰って、またご飯を食べて眠りにつく。
 ぼくが思うに、海は運がなかったんだ。
 それも、生まれながらにとんでもない外れクジを引き当てた。ぼくの幼馴染、なんていう、外れクジ。
 毎晩布団を被っては、そんなことを考える。海の、ちょっと長い前髪とか、いつも几帳面に切りそろえられていた爪とか、ごつごつしたスニーカーとか、そういうものを思い浮かべながら。
 その日の晩は特に気持ちがずしんと重くて、まるで水を吸ったコートを着て布団に潜っているみたいだった。
 枕に額を押し付けていると、そのままどこまでも沈んで行ってしまえそうな気がした。そうなればいいのに。そうなれば、どれだけ楽だろう。
「……ぼくが死ねばよかった」
 だから、海が死んだあの日から、胸の中をずっと行ったり来たりしていたその気持ちが、するんと口をついて出た。
 するとどうだろう、どこからかにょきっと手が伸びて、枕に顔を埋めるぼくの後頭部を容赦なくぶん殴り、
「この大馬鹿野郎!」
 と言った。
 
    *
 
「この俺が、折角命を賭してまで助けてやったのに、なんだその言いようは! いいか、次同じことを言ったらお前を殺すからな。足首を掴んで、地獄の一丁目まで引きずって連れて行ってやる。わかったか!?」
 
 は?
 わかった、ぼくは夢を見ているんだ、そうに違いない。
 だって、そうじゃないと今目の前で起きている現象に説明がつかない。
「おい、聞いてんのかよ、お前。なんだその間抜け面は」
「……わ、悪い夢でも見ているのか?」
「悪い夢? ふん、本当にそうだな、それについては概ね同意してやる。おい、何布団に潜ろうとしていやがる、ちゃんと見ろ、現実を!」
 そこにいたのは、まぎれもない海だった。
 生前と何ら変わらず、紺の学生服姿でぼくのベッドの上に立っている。おそるおそる手を伸ばしてその足に触れようとすると、すかっ、と手が宙を切った。
「残念だったな。お前からは俺に触れることはできない。そういう“決まり”だからな」
 ふふん、と鼻で笑う海。綺麗な顔が下品に歪む。
 幽霊? 怨霊? 悪霊? 妖怪? 物の怪? 
 漫画やアニメで見聞きしたありとあらゆる非現実用語が頭の中を駆け巡る。ぼくが黙り込んでいると、海はじれったそうに「お前は本当にどんくさいな」と言った。
「う、海、本物なの?」
「偽物の俺でもいるっていうのかよ」
「うわ」
 この憎たらしい口調、間違いない、海だ。
「この一週間、黙って見てりゃあお前、死人の俺より死人みたいな暮らしをしやがって」
「だって、そんなのさ! 海、ぼく海に謝りたくて……! ごめ、」
「おっと、ストップ!」
 海は、大きな声を出してぼくの言葉を遮った。
 こいつ、こんなキャラだったっけ? いつもスン、とした顔をしていたし、こんなに声を張っているところなんて見たことがない。
 驚いて目を見開いていると、海はベッドから降りて、キャスターつきの椅子に腰かけた。背もたれの部分を抱え込むようにしながら、数学の先生みたいな口調でこう続ける
「いいか、その言葉を決して口にするな。その言葉っていうのは、今お前が言おうとしていた三文字の言葉だ」
「え……どうしてだよ。だってぼく、」
「どうしてもこうしてもない。そういう“決まり”なんだ。お前がその言葉を口にした途端、俺はお前の前から消えることになる」
 また“決まり”だ。そもそも、どこの誰がどう決めた“決まり”なんだよ。
「いいか、本当なら俺は今頃、天国で悠々自適な生活を送っているはずだったんだ」
「……て、天国って本当にあるの?」
「話の腰を折るな」
 むっとした顔で海が言った。
 海の話は、まとめるとこうだった。
 
 ① 海は一週間前、あの真夜中のプールで確かに死んだ。これは間違いない。
 ② けれど本人からしたら、明確に自分は死んだんだ、という実感はなく、魂が体からピンセットでひょいと引っこ抜かれたような、そんな呆気ないかんじだった。
 ③ なにはともあれ行くべき場所へ行こうとしたら(行くべき場所って? と聞いたけど、教えてくれなかった。自分で死んだ時に確かめろってさ)、偉い人に行く手を遮られて(偉い人って? と訊いたけど以下略)、なんと可哀想な少年! と同情された。 
 ④ その偉い人は、心残りがあるのなら、それを全部清算してからここへおいで、と言った。
 そして、海にとっての心残りというのは――
 
「……え、海、ぼくが心残りなの?」
「そうだ。お前というやつは、まったく情けない!」
「は、はあ」
「あんなどうしようもない馬鹿で、木偶の棒で、下品な奴らに目をつけられるなんて、精神がたるんでいるんだ」
「べつに……好きで目をつけられていたわけじゃないよ。ぼくだって色々あるんだ」
「そんなことはわかっている。俺が気に入らないのは、お前、あいつらに金を渡していただろ」
 がしゃん! と音をたてて、海が椅子から立ち上がる。
「どうしてあんな奴らに大人しく従うんだ? お前は昔からいつもそうだ。何も悪いことをしていないのに謝る、へこへこする、面白くもないことで無理して笑う」
「もうやめろってば!」
 脇腹のあたりがむずがゆくなって、ぼくは声を荒げた。
 ぼくは海とは違う。ぼくには海みたいに、思わず人の背筋を凍らせるような鋭い目はできない。ああいう攻撃的な表情をして様になる海がうらやましい。ぼくが誰かを睨みつけたところで、ただ滑稽なだけだから。
「満、俺はお前が心配なんだ。ただでさえ目をつけられやすいお前が、これからちゃんと生きていけるのか。俺がいなくてもお前が立派にやっていけるってわかれば、俺は大人しく消えるよ。それが俺の“心残り”だから」
「……ぼくのせいで、死んだのに、」
 どれだけお人好しなんだ、と続けようとすると、海は“心底不愉快だ”って顔を向けてきた。
「うぬぼれるな、バカ!」
「いたっ」
 ばこん、とまた頭をはたかれる。
「俺が死んだのは、何もお前のためじゃない。あのどうしようもない奴らを野放しにしておくなんて、他でもない俺自身が許せなかったんだ」
「……そう」
 だとしても、その原因を作ったのはぼくなんだから、やっぱり責任はぼくにある。それなのに海は、そんなことは一言だって言わない。……こういうところをひとつとっても、海はいい奴だ。
「でも、どうしてその……えーと、三文字の言葉を言っちゃいけないんだよ」
「俺が、お前に謝られたくないからだ。だってこのままいくとお前、いつまでもうじうじうじうじ、悲劇の主人公みたいに俺のことを引きずって生きていくことになるだろ」
「う、」
 確かに、ぼくにはそういうところがある。
「想像しただけでもゾッとするね。何年後かに大人になったお前が、酒の席で親しい友人にこう言うんだ。哀愁漂う笑みを浮かべながら、『実はぼく、中学生の時に、幼馴染を亡くしているんだ。』『ぼくのせいで死んだのさ』」
「……お前がぼくをどういう奴だと思っているのかはよくわかった。よくわかったうえで、お前のそのゾッとする想像には一つ大きな欠点がある」
「は? なんだよ」
「現時点でぼくに、親しい友人なんていないし、この先も多分できない」
 そんなこともわからないなんて。
 そもそもぼくには学校で、まともに話をする相手なんて海くらいしかいなかったし、その海がいなくなった今や、まともに声すら出さない。
 ぼくが言うと、海は片目を細めて不快そうな顔をした後、
「そんなことで威張るな!」
 と言って、机の上に置いてあった辞書を投げつけてきた。
 辞書はぼくの額にクリーンヒットし、ごんっ! という凄い音とともに地面に落ちた。
 
【惨状】――みじめな・(むごたらしい)ありさま。
 
 偶然開いたページに書いてあった言葉は、まさしく今のぼくの状態を表していた。
 
 
   1
 
 
 七時半、スマホのアラームで目が醒める。一度止めてから五分後、またアラームが鳴る。止める。五分後、また鳴る。止める。五分後、また鳴る。五分後――。
 
「いつまで寝てるんだ、この愚図!」
「い……っ!?」
 思い切り後頭部をぶん殴られて、まだ夢うつつだったぼくの意識は強制的に覚醒させられた。じんじん痛む頭を押さえながらなんとか起き上がると、「朝飯を食べる時間がなくなるだろ!」と続けて声が降ってきた。
 そこには海がいた。カーテンを開けて、朝の陽ざしを浴びながら、厳しい目でぼくを見ている。海の体はよく見るとわずかに透けていて、太陽の光が体の真ん中を通り抜けていた。なんだかまるで、水槽みたいだ。
「うわあ」
「うわあ、ってなんだよ、うわあって」
「……現実だったんだ、昨日の」
 死んだ幼馴染が、幽霊になってぼくの前に現れた、なんていうの。
 ぼくが言うと、海は何も言わずに片目を細めた。
 海はこの表情をよくする。軽蔑した、とでもいうような表情。その威力といったらすさまじいもので、やられた側は例え誰でも心臓が氷の手で鷲掴みにされたかのように背筋がひやっとする。ぼくはやられすぎたのですっかり慣れてしまったが。
「いいから早く着替えて顔を洗え。おばさんが待ってる」
「……はい」
 重たいため息をついて立ち上がり、言われた通り服を着替える。
 白いシャツに紺のズボン。首元が苦しいから第一ボタンだけは開けておく。男の子はすぐに大きくなるんだから、と言われて買った大きめのブレザーは、残念ながら二年生になった今でもまだぶかぶかのままだ。
 洗面所へ行って顔を洗っていると、「おい、寝癖くらいなんとかしろ」と海の声が飛んできた。
「いいんだよ、てきとうで」
「そうは言っても、櫛くらい使えよ」
「いいんだって! ぼくのことなんて誰も気にしないんだから」
「満、一人で何を騒いでいるの?」
 怪訝そうな声が降ってきて、ぼくはハッとして振り向いた。
 そこには母親がいた。もうパートへ行く時間なのか、すっかり身支度を整えて、片手に鍵を持った状態でぼくを見ている。
「いや、なんでもない」
 ぼくは咄嗟に短くそう言った。ついてない、朝から母親と話す羽目になるなんて。もうぼくのことはいいから早く行ってくれ。いっそイライラしながらそう思っていると、母親は「そう? それならいいけど……」と続けた。
「ねえ満。……学校、辛かったら無理して行かなくてもいいのよ」
「は? ……べつに、辛くないから」
「お母さん心配なのよ。……海くんのことがあってから、まだそんなに日も経っていなしし、それに、」
「うるさいな……もういいから、早く行きなよ」
「あ、満! 朝ごはん、ちゃんと食べて行くのよ!」
 母親の横を通り過ぎて、大きな足音をたてながらリビングへ向かい、バタン! と乱暴に扉を閉める。
 うるさい、うるさい、お腹の奥底の方がむかむかして気持ち悪い。
 今日は学校をサボろうか? いや、そんなことできない。一度そんなことをしてしまえば、それこそぼくは海の言う通り“悲劇の主人公”とやらになってしまう。
 それに、担任や母親にあれこれ聞かれるのも面倒だし、ぽっかり空いたぼくの席を指さして、クラスの奴らがひそひそと何かを言うのを想像すると、なんだかずしんと気分が重くなって、大罪人になったような気持ちになる。
 面倒だ、何もかも。
 面倒で面倒でしょうがない。
「お前、あの態度はないだろ」
 扉を開けずに壁を通り抜けて海が入ってきた。もはやぼくはぎょっとすることもない。
「放っておいてよ」
「……おばさん、泣いてたぞ」
 そんなことを言われたら、流石のぼくだって良心が痛む。
 けれど、悪いのはぼくじゃない。むしろぼくは被害者だ。
「自分のことを、被害者だ、なんて思っているようなら、お前は大馬鹿野郎だぞ、満」
 海は心底軽蔑した、とでもいうようにそう言って、扉の前で俯いて座るぼくの前であぐらをかいた。
 お前になにがわかるんだ。愛情深くてとびきり美人な母親と、格好良くて仕事ができて、車を三台も持っている父親。しかもその両親は見ているこっちが恥ずかしくなるくらい仲が良くて、海のことを溺愛していた。海の家に遊びに行くたびに、ぼくはいつも打ちのめされた。
「離婚のことなら、おばさんは何も悪くないじゃないか」
「どうだか」
「もう子供じゃないんだから、そんなことで拗ねておばさんを困らせるなよ」
「……お前にとっては、そんなこと、だろうけどさ」
 ぼくは言った。
「ぼくにとっては……そんなこと、じゃなかったんだよ」
 思えばこの数か月、ぼくはとんでもないほどツイていなかった。
 三か月前、父親が見知らぬ女の人と、腕を組んで親し気に外を歩いているところを目撃してしまった。二人は明らかに、職場の上司と部下とか、そういうかんじじゃなくて、もっと一歩踏み込んだ関係にある、というかんじがした。中学生のぼくにすらわかる露骨さだった。
 海の父親みたいに肌が黒くて筋肉が浮き出ているわけでも、職場で重役を担っているわけでも、車を三台持っているわけでもない、どこにでもいる普通の中年。
 それがぼくの父親だったし、そう信じて疑わなかった。
 けれど違った。
 普通の中年はきっと、奥さんも、中学生の息子もいるような状況で、家族を裏切るなんれことはしないだろう。……たぶん、きっと。
 ぼくはどうしたらいいのかわからなくて、けれど母親にバレるのだけは絶対にまずいと思って、けれどけれど、やっぱり自分の中に留めておくことができなくて、
「お父さん。……あ、あのさ、あの女の人誰?」
 と、話を切り出した。
 それまでにこにこ笑っていた父親の顔が、文字通り凍り付いた。
 あの時の、生白い顔を、見開かれた目を、その全てを統合して幽霊みたいな表情を、ぼくはずっと忘れられないだろう。
 大人というのは面倒なもので、母さんには言わないから、だからこの話はなかったことにしようよ、とぼくが必死で言っても、父さんはかたくなに首を縦に振らなかった。
「……ごめんな。もう何もかも、元の通りにはなれないんだよ。それは決して、絶対に、お前のせいじゃない。全部俺が悪いんだ」
 ぼくは余計なことを言ったんだ。
 黙って見過ごしていればよかった。何も見ていないふりをして、何食わぬ顔で父さんに接していればよかった。そうすれば今頃、平穏な日常を送れていたはずなんだ。
 二人が何をどう話し合ったのかはわからないが、この家には母さんが残ることになった。ローンがまだ残っていたはずだが、誰がどう払っていくことになったのかとか、ぼくは知らない。
 ぼくはいつも何も知らないんだ。
 そして、そういうことがたまにものすごく嫌になる。
「……悪い。今のは俺が良くないことを言った」
 海は膝の上に肘をついて頬を支えながらそう言った。顔を上げる。うっすら透けた海が、やっぱりそこにいる。
 ぼくのせいで死んだ海。ぼくはなんだか急に自分が情けなく、そして申し訳なくなった。
「いや、ぼくこそ、ごめ……」
「おい!」
「あ、え、ええと、悪い、悪かった」
 慌てて口をつぐんで言いなおす。海は「まったく!」と怒ったような顔をした。
 ……ていうか、意味合いは同じなのに、“ごめん”はダメで、“悪い”はいいのか。なんだか変な“決まり”だな。
「お前、今日は学校休めよ。……死にそうな顔してる」
 死んでる奴にそんなこと言われるなんて、と一瞬思ったが、口に出すにはあまりに不謹慎すぎたので、言葉にすることはなかった。
「……大丈夫、行くよ。朝ごはんを食べる時間はなさそうだけどね」
 学校までは徒歩で十五分くらいかかる。八時四十五分からホームルームが始まるから、それまでに行かなくちゃいけない。時計を見ると、八時二十二分。今出ればちょうどいいくらいだ。
 スニーカーに足をねじこんで玄関を出て、鍵を閉める。海はずっとふわふわ浮かんでぼくの隣にいた。
 海の家の前を通り過ぎる。お葬式以来、海の両親には会っていない。家もずっと静かだから、どこかへ行っているのかもしれない。
 海の両親は、決して僕を責めたりしなかった。大泣きしながら、それでも二人とも前を向いて、
「あの子は正しいことをしたんだ。だから君も胸を張ってくれ、誇ってくれ、海のことを」
 これは父親。
「あなたは何も悪くないわ。悪いのはあの加害者の男の子たちよ! ああ、海、可哀想に……!」
 これは母親。
 いっそ責めてくれたらよかったのに。口汚く罵倒してくれた方が楽だったのに。
 酔いそうなくらいの白と黒に包まれながらぼくはそう思った。
「海はぼくを恨んでいないの?」
 学校が近づくにつれて生徒が増えてきたので、周囲に聞こえないように小さな声でそう言うと、海は、
「さあ。それを聞いてどうしたいんだ?」
 と、馬鹿にしたように言った。
 どうしたいんだろう。
 
 
 教室に入ると、既にほとんどの生徒が着席していた。みんなぼくが来たことを認識すると、どこか気まずそうに目を逸らす。見てはいけないものを見てしまったみたいに。
「辛気臭いやつら」
 海がぽそっとそう言った。確かに。ぼくはちょっとだけ笑った。
 ホームルームが始まると、海は元々自分の席だった窓際の一番後ろの席へ飛んで行った。ぼくは廊下側の一番後ろ。ちょうど海と間反対側に位置している。ぼくの席は寒いし暗いし、他のクラスのやつらがきたら騒がしくてたまらないし、あまり気に入っていない。
 なんだか、海にはそういうところがあるし、ぼくにはそういうところがある。
 いつも何か、とても小さなところが決定的に違う。それがなんなのかは、上手く言えないが。けれど多分、そういうものがいつだって人生を左右している。
 一限目の授業は数学だった。
「じゃあこの問題……えー、今日は八日だから、出席番号八番の……川野!」
「え、あ、はい!」
 しまった、今日は八日だった、すっかり忘れていた。
 うろたえるぼくの近くに海が寄ってきて、じっと教科書の問題を眺めると、「満、お前これ、一年生の応用だぞ」と呆れたように言った。
 そんなこと、今はどうでもいいよ! 僕の気持ちが通じたのか、海はやれやれと口を開いた。
「6だよ、6。ほら、エックスに3を代入するだろ? それで……」
「ろ、6です!」
「よし、正解だ。それじゃあ次をー……」
 自分の番が終わって、ホッとする。それに、一回終わったから、もう当てられることはないだろう。
 すっかり気が抜けたぼくに、海がむっとした顔で「答えだけわかっても意味ないだろ」と言った。
 昼食の時間になると、近くの席のやつらと机をくっつけて、給食を食べなくちゃいけない。ぼくはこの時間が苦手だ。わいわい楽しそうな会話を繰り広げるクラスメートの輪の中で、ひっそりと息を顰めてもくもくと食事をしていると、自分が今何を食べているのか、どんな味がするのかわからなくなる。
 給食の時間中、海はどこかへ行っていた。この息苦しい箱の中から自由に抜け出せるなんて、ちょっとうらやましいな、と思ったが、そんな最低なこと間違っても口に出してはいけない。
 けれどやっぱり、ぼくには海が眩しく見えた。
 食事の片付が終わり、三十分ほどの昼休憩時間がやってきた。教室にいたって煙たがれるだけだし、いつも通りどこかでてきとうに時間を潰そう、と立ち上がると、声をかけられた。
「ちょっと顔貸しなさいよ」
 そこに居たのは須賀さんだった。昨日と同じ、鋭い目つきでぼくを睨んでいる。
 断る上手い理由も思いつかなかったので、ぼくは大人しくついていくことにした。きょろりと海を探したが、相変わらずどこかに行っているようで、姿が見当たらない。
「海のことだけど」
「……うん」
 そうだろうね。
 須賀さんがぼくを呼び出すのに、海のこと以外に理由なんてない。
「あたしやっぱり、あんたを許せない」
「うん」
「あんた、自分が情けなくないワケ?」
 須賀さんは言った。目が真っ赤に腫れて、唇が震えている。
 気の強さに圧倒されていて気が付かなかったが、須賀さんはぱっちりした目に、小さな顔と薄い唇を持った、かなりの美少女だった。
 美少女はやっぱり、美男子とくっつくんだなあ。ぼくは呑気にそんなことを考えた。
「ちょっと、聞いてんの!?」
「……あの、君はぼくに、どうして欲しいの?」
「はあ!?」
「謝ってほしいなら、謝るよ、本当にごめん。君の言う通り、ぼくは自分が情けないし、不甲斐ないし……大ッ嫌いだ」
 海にもまだ謝っていないのに、須賀さんに謝っている。なんなんだろう、これは?
 ぼくが言うと、須賀さんは唖然とした顔でぼくを見た。また何か罵倒されるだろうか、と身構えていると、須賀さんは俯いてから深く息を吸って、吐いて、また吸って、
「……あたし、そうじゃなくて、」
 違くて。
 そう続けて、黙り込んでしまった。
「あたし……知りたいの。海はどういう風に死んだの? だって、知らないと、なんだかずっと、悪い夢でも見ているみたいで、しかもそれが醒めなくて、ずっとぐるぐる同じところを回ってる、ってかんじがして……」
 わかる、彼女が言っていることが、ぼくには。
 わあわあ騒がしい学校の喧騒が、信じられないくらい遠くにあるみたいだった。すれ違う生徒がちらちらぼくらを見ている。きっと物珍しいのだ。ぼくのような日陰者と、明るくて可愛くて人気者な須賀さんが一緒にいるところが。
「……場所移さない?」
 ぼくの言葉に、須賀さんは小さく頷いて、目元を一度強くこすった。
 校舎の裏にある、小さな水飲み場の影にぼくらは並んだ。ぼくはきょろりと辺りを見回して、海がいないことを確認した。海が死んだ時のことを話している様子を、海本人に聞かれるのは、なんとなく嫌だった。
「三年の、村岡たち、わかる?」
「うん、わかるよ」
「ぼく、夏休み前からあいつらに、その……目をつけられていたんだ」
 いじめられていた、と言わないのは、ぼくの小さなプライドを守るためだ。
「……・…本当に運が悪かったんだ。あいつらが本屋で、漫画を万引きしているところをたまたま見ちゃって、急いで目を逸らしたんだけど……」
「は? なんで目を逸らすのよ、注意しなくちゃダメじゃない!」
「……簡単に言うけどさ」
 ぼくは言った。
「その時からだった。あいつらがぼくを、ことあるごとに呼び出したりするようになったの。海と一緒にいる時には声かけてこないんだ。海はべつに、多分喧嘩とかしたことなかったろうし、腕っぷしだって強そうではなかったけど、でも、わかるだろ? 僕と違って、海にそういうことが知られたらまずいことになるって、あいつらわかってたんだ」
 話している間に情けなくなってきて、言葉が詰まった。
「でも海は薄々感づいていたと思う。……いや、思う、じゃなくて感づいていた。感づいた上で、ぼくが自分から相談してくるのをずっと待っていた。でもぼくは海に相談なんてできなかった」
「どうして? 海ならなんとかしてくれたでしょう」
「ダサいだろ、そんなの」
 そう言うと、須賀さんが息を呑んだのがわかった。呆れた、馬鹿じゃないの? とでも言いたげな顔をしている。ぼくも須賀さんの立場だったらきっとそう思う。
 でも残念ながら、ぼくはぼくだった。
「あの夜、ぼくはいつも通りあいつらに呼び出された。お金を持ってこいって」
「……ちなみに、いくら?」
「五万」
「ご、五万円!?」
 須賀さんはわなわなと震えた。
「そんな、大金じゃない!」
「うん、そうだね、大金だ。……だからぼく、あの夜、お金を用意することができなかったんだ」
 あの時のことを思い出そうとすると、手が震える。
 言いつけられたことなんて無視してしまおうかと思った。けれどそんなことしたら、その後何をされるかわからない。ぼくは怯えた。怯えて、どうしたらいいのかわからなくて、冷静な判断ができず、結局丸腰で村岡たちの待つプールサイドに向かった。
「お……お金を、」
 声が、震える。痰がつまったフリをして、ごほん、と咳ばらいをする。
「お金を、持ってこられなかったことを話したら、あいつら笑ったんだ。怒るんじゃなくて。多分、ぼくがそんな大金持ってこられないって、わかっていたんだと思う」
「なにそれ、酷い……!」
「殴られそうになった時、海が来た。……お前ら、なにしてるんだって、大きな声で叫びながら」
 村岡に馬乗りになられたぼくを見て海は、いつもみたいに顔を歪めさせた。心底軽蔑するように。
 ぼくは、助かったって思ったんだ。
 海が来てくれたから、もう大丈夫だって。
「でも、ぼく、海を勘違いしていたんだ。海は、べつに、完璧超人なんかじゃなくて、だから……取り巻きの奴らが海の髪を掴んで、プールの水に顔を沈めた。何度も何度も。海、苦しそうだったのに、ぼく、ぼくは……」
「……もうやめて」
「なんとかしなくちゃって思って、立ち上がった。そうしたら村岡が怒って、持っていたバッドを思い切り僕に振りかざした。ああ死ぬんだ、って、そう思った。でも、ぼくは死ななかった」
 ――馬鹿、満!
 思えばあれが、生前海がぼくに放った最後の言葉だった。
「……許せない」
 喧騒を遠くに聞きながら、須賀さんは俯いて、ぼろぼろと涙をこぼした。
 恋人に死なれてしまったんだ、無理もない。ぼくはいたたまれなくなって、「ごめん」と小さく言った。
 須賀さんにはこんなに簡単に謝罪の言葉を口にすることができるのに、一番謝りたい海にはできないなんて、なんて意地悪な“決まり”なのだろう。
「ごめん、なんてそんな、簡単に言わないでよ」
「え?」
「……全部、終わっちゃったみたいじゃない。ごめんって言葉は、めでたしめでたし、の逆バージョンよ」
 須賀さんの言っている言葉の意味がよくわからなくて、ぼくは目を白黒させた。
 すると彼女は数秒黙り込んだ後、慌てて目元を強くこすり、「……あはは」と笑った。大きな綺麗な瞳が、はじめてぼくに向かって微笑む。
「違うの。今のは、自分が惨めになっただけ。……あたしの方こそ、ごめんなさい。あなたの話を全然聞かずに、突っ走ってた」
「え、いや、その、」
「あたし……海のこと、きっとずっと忘れられない。だって、はじめてできた彼氏だもん。海、すごく優しくて、頼りになって……本当に大好きだった。自慢の彼氏だったの」
「……うん、そうだろうね」
 海ほど自慢できる恋人はいないだろう。
「ねえ、村岡たちはもう大丈夫なの? ……その、海がいなくなってから」
「……先生の話だと、家庭裁判所で判決を待ってるみたい。……きっと、学校へはしばらく戻れないんじゃないかな」
「ふうん……海のこと殺したやつは、そうやってのうのうと生き続けるんだ」
 須賀さんはそう言って、
「全員死ねばいいのに」
 と続けた。その声色の冷たさに、背筋がぞくっとした。冗談じゃなくて、本気でそう思っている、ということが、恐ろしいほどよく伝わった。
「川野くん、話してくれてありがとう。あたし、ちょっとだけ気持ちが楽になった。急に、何の脈絡もなく真っ暗闇に放り込まれたら、誰だってびっくりするでしょう? でも、今ようやく、こういう理由で放り込まれました! って、ちゃんと説明してもらえたかんじがする。それってサイアクだけど」
「……須賀さんは、もしも、もしも海にもう一度会えるなら……なんて言いたい?」
「えっ?」
 ぼくの質問に、須賀さんは驚いた顔をした後、むむむと考え込んでから脱力し、
「……あたし、もしもの話って嫌い。むなしくなるから」
 と、長い睫毛を伏せた。
 
 
   2
 
 
「人の彼女と随分楽しそうに話していたじゃないか」
 帰り道、当たり前みたいにふわふわ浮かんでぼくを待っていた海は、ちょっと不機嫌そうにそう言った。
「盗み聞きしていたのか? 趣味が悪いぞ」
「話の内容までは聞いていない、遠くから見ていただけだ。それに……聞かなくてもなんとなくわかる」
 いつもスカした海でも、自分の彼女が他の男と話していたら、例え相手がぼくでもそれなりに不快らしい。
 海のことを大切に思って涙を流した須賀さん。須賀さんのことを大切に思っている海。葬式で大泣きしていた海の両親。寂し気に空っぽの机を見つめるクラスメートたち。
 ずしん、と気分が重くなる。
 ぼくは海から海の人生を取り上げただけじゃない。他の人の人生からも、海を取り上げてしまったんだ。
「彩音は、なんて言っていたんだ」
「え? ……聞かなくても、なんとなくわかるんじゃなかったのかよ」
「そうだけど、でも聞きたいんだ」
 ぼくの前を泳ぐように進む海の表情は見えない。
「……海のこと、自慢の恋人だったって。大好きだったって言っていたよ」
「ふうん……」
 悪いことしたな。
 海はぽつんとそう言った。それは、そんなの、ぼくの台詞だ。
 海に謝りたい。大きな声で泣いて、洗いざらい胸の内を話して、本当にごめんなさいと言いたい。けれどそれは許されない。
「可愛いだろ、彩音」
「え?」
「お前、話している時鼻の下伸びていたぜ」
「は!? そ、そんなわけないだろ! 真面目な話をしていたんだから!」
「どーだか!」
 海はけらけらと笑った。
 どうしてこいつはこんなに呑気なんだろう? 死んだというのに、この世から、消えてしまったというのに、まるでそういうことをすっかり受け入れているように平然とした顔をしている。
「俺と彩音がどこまでいっていたのか、知りたいか?」
「いいよ、もう、うるさい」
 にやにや笑う海を手で払うようにしながら、ずんずん進む。
「あのさ、海。……真面目な話、こうしてぼくのところにずっと居たって面白くないだろ」
「なんだよ、いきなり」
「だから、なんていうか……具体的に海は、ぼくがどうなれば無事に、その、」
「成仏できるかって?」
 成仏、という言葉に、ぼくは言葉を詰まらせた。
「だから、昨日も言っただろ。お前が、俺がいなくてもしっかりやっていける、ってわかれば大人しく消えるさ」
「だから、それって具体的にどういうのなんだよ。ていうか第一、ぼくらそんなにずっと一緒ってわけでもなかっただろ。お前は人気者で、ぼくは地味で静かで……いじめられっこだった」
「そんな卑屈になるなよ」
 卑屈にならずにいられるか? 小さい頃からいつも横に、絵本か何かから出てきた王子様みたいに綺麗な海が居て、ぐんぐん世界を広げていく。ぼくはそれをじっと見ている。じめじめして、暗い場所から。
「そうだなあ、確かにお前の言う通り、お前がこれから友達を作ったり、恋人を作ったりするのは難しいだろう」
「う、うるさいな」
「自分で言ったんだろ」
 意地が悪い。……それに、なにもぼくは、そこまで言っていない。
 恨めしく思ってじっとりと視線を送ると、海はけらけら笑って「まあまあ、そんなに焦らなくてもいいじゃないか」と言った。
「何もそんな、あれもこれも手に入れろとは言っていない。俺だってそんな、今すぐに成仏したいってわけじゃない。世話になった人たちにお別れを言ってまわったり、思い出に耽ったりする良い時間をもらったと思っているんだ」
「……なんだそれ」
「要は、清く正しい生活をしろってことだよ」
「それだけでいいの?」
「ああ、それだけでいいよ」
 そんなの、簡単じゃないか。そんなことだけで本当に海は安心するのか?
「お前今、簡単じゃん、って思っただろ」
「え、うん……」
「清く正しい生活っていうのは、そんな一筋縄じゃあいかないぜ」
 そういうものだろうか?
 
 
 海がそこら辺をふわふわ浮いては口を出してくる生活は、それからあっという間に数日間が過ぎていった。
「飯食ったら食器くらい洗ったらどうなんだ?」
「おい、ちゃんと髪乾かせ」
「お前、英語の課題出てただろ? どうせやらなきゃいけないんだから、さっさと片付けろよ」
「前髪伸びたな、そろそろ切れよ、視力が悪くなるぞ。俺が切ってやろうか?」
「おばさんが洗濯機回す時間わかってるんだから、ちゃんとそれまでに洗濯物出せよ」
「もーっ、うるさいな!」
 ぼくが叫ぶと、海はぎょっとした顔でぼくを見た。
 海の言っていることは大体正しい。流石“清く正しく”生活しろ、なんて言ってきただけはある。けれど四六時中そんな風に口を出されては嫌になってくる。
「うるさいとはなんだ」
「ぼくは海みたいにできた人間じゃないんだ。そんなにいきなり、あれもこれもなんて……いや、なんでもない」
「お、おい、どこ行くんだよ、こんな時間に」
「コンビニ行ってくる。ついてこなくていいよ、すぐ戻る」
 ついてこなくていい、なんて言い方をしつつ、ついてこないでくれ、と思っていることを、賢い海はきっとすぐに察しただろう。その証拠に、引き留められることも、いつもみたいに小言を言われることもなかった。
「満……? どうしたの、どこへ行くの?」
「ちょっと、コンビニ」
「そう……気を付けてね、すぐ戻るのよ」
 母親はおろおろとした目でぼくを見た。
 本当はわかっている。母親は何も悪くない。だから、こんな風に強く当たっちゃいけないんだ。それどころかぼくは、たった一人の家族である母親を支えてあげなくちゃいけない。
 海ならきっとそうしただろう。
 でもぼくはできない。家にいるとむかむかして、気分が落ち込んで、自分の中の穏やかな部分がどこかへ行ってしまう。
 コンビニにたどり着いて、ちょっと迷いながらコーラを二本買った。海は多分飲めないだろうけど、こういうのは気持ちが大事だ。
「……めて、離して!」
「いいから、大人しくしろ!」
「嫌!」
 怒鳴り声が聞こえて、ハッとした。
 人気の少ない細い通り、車が一台止まっていて、助手席のドアが開いている。そしてそこに、一人の女の子が押し込まれようとしている。
 誘拐?
 頭が真っ白になって、咄嗟に周囲を見回したが、誰もいない。もう一度車の方に目を向けた時、女の子と確かに目が合った。その拍子に、バチッ! と音が鳴って、星が砕けたような気さえした。
 
 助けて。
 
 女の子の目は、ぼくに確かにそう訴えかけた。
 ばさっ、と手に持っていたビニール袋を落として駆け出す。考えるより先に体が動いていた。
「う、うわああああああっ!」
「ああ!? ぐっ、なんだテメェ!」
「行こう!」
「え、え……」
「早く!」
 女の子に覆いかぶさるようにしていた男に思い切りタックルをして、男がよろめいた隙に手を取り駆け出す。
「待てコラ、クソガキ!」
「ね、ねえ、行くってどこへ……!」
「いいから!」
 心臓がうるさいくらいドキドキいっている。破けてしまいそうだ。背後から聞こえていた男の声は、しばらくすると段々小さくなっていった。
 人通りの多い駅の近くまで来て、ぼくらはようやく足を止めた。ぜぇぜぇと肩で息をするぼくと違って、女の子はちょっと呼吸が乱れているくらいだった。ちくしょう。自分の体力の無さが恨めしい。
「……助けてくれて、ありがとう」
「え? いや、ぼくは……」
「君、中学生? 中々勇気あるじゃん」
 呑気にそんな世間話みたいなことを繰り広げる女の子に、ぼくは唖然としてしまった。人があんな、決死の思いで連れ出したのに、なにを悠長な――。
 そこまで考えてからハッとした。必死で笑顔を浮かべる女の子の手が、わずかに震えていた。
「あの……大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。流石にちょっと、びっくりしちゃったけど」
 こういう時、どうするべきなんだろう。ええと、まずは警察? ちょうど近くに交番があるし……。
「私、岬。あなたは?」
「え……川野です」
「苗字じゃなくて!」
「満です」
「どういう字書くの?」
「一文字で……満月の満で、満です」
「へえー」
 女の子――岬さんはにやっと笑って、
「名前のわりには、満たされてなさそうだね」
 と言った。大きなお世話だ。
 ぼくがむっとしてると、岬さんはくすくす笑って「ごめんごめん、怒んないで」と言った。
 なんだか不思議な人だ。白いワイシャツに、プリーツの多い黒いスカート。制服の上に武骨なMA―1を羽織っていて、頬に大きな絆創膏を張っている。ぼくに対するさっきの物言いからして、高校生だろうか?
「あの、さっきの人は……」
「ああ……あれね、私のお父さん」
「お父さん!? え!? いや、でも……!」
 お父さんのわりには、随分若く見えた。ぼくの気のせいだろうか?
「よくあるんだ、ああいうこと。……さ、じゃあ私もう行くね」
「行くって、」
「帰んなきゃ」
 岬さんは、ぽつん、と言った。帰る、という言葉が、こんなに寂しい響きを持つ人を、ぼくは初めて見た。
「また会おうね、満たされてなさそうな満くん!」
 あはは、と笑いながら、ひらひらと手を振って、岬さんは夜の街の人込みに溶けて行った。
 ぼくはなんだか茫然としてしまって、しばらくそこから動けなかった。岬さんの細い腕を掴んだ右手が、じんじん熱を持っている。
 それでもなんとか家に帰ると、浴室の方からシャワーの音が聞こえてホッとした。母親と顔を合わせずに部屋へ戻れる。
「遅かったじゃないか」
 海はつまんなそうに椅子に座って、背もたれのところで頬杖をつきながらそう言った。
「ああ、うん、ちょっとね」
「お前、コンビニへ行ったのに、何も買わなかったのか?」
「あ」
 言われて気づいた。コーラが二本入った袋を落としてきてしまった。
 しまった、という顔をするぼくを見て、海は何か言いたげだったが、ぼくがついさっき「そんなに口うるさくするな」というようなことを言ったのがきいているのか、何も言ってこなかった。
「あのさ、海」
「……なんだよ」
「この間辞書をぶん投げていたし、物には触れるんだよな?」
「ああ」
「じゃあさ、」
 ぼくは机の引き出しからトランプを取り出して言った。
 ごめんの一言が言えないのなら、せめて。
「久しぶりに、やらない? スピード」
「……お前、弱いくせに」
「うるさい!」
 昔はよく二人でやった。ぼくには海しか遊び相手がいなくて、海にはぼくしかいなかった頃。段々と、成長するにつれてぼくらの間には会話が減っていった。元々僕らは真逆のタイプだし、家が隣どうしというだけの繋がりだったから、当たり前のことなのだけれど。
「手加減はしないぞ」
「ぼくだって」
 結局、何度やったってぼくはボロ負けをしたけれど、昔に戻ったみたいでほんの少し嬉しかった。
 
 
    3
 
 
 季節は十一月。海が死んでからもうすぐで一か月が経つ。
「川野、お前、将来やりたいこととかあるのか?」
「……やりたい、こと」
 二年生になって最初の二者面談。担任の岡崎先生は、穏やかな眼差しでぼくを見つめながらそう言った。
「なんでもいい。漠然としていたって、途中で変わってしまったってもちろん構わないんだ。けれど、目標を定めて、そこへ向かって努力をすることは大事だぞ」
「はあ……」
「今の成績だと、受験も中々厳しいだろうし……」
 通知表をちらりと見ながら、岡崎先生はほんの少し眉間に皺を寄せた。
 そう、ぼくの成績はあまり良い方ではない。クラスに三十二人いるとして、二十七番目くらいの成績、それがぼく。
 黙り込んでいるぼくに対して、岡崎先生は苦笑してから「まあ、今はあんまりそういうこと考えられないよな」と言った。
「最近は、どうだ? その……神崎のこと」
「どうって、」
 海のことについて聞かれて、ぼくは顔をしかめてしまった。
 どうって聞かれても。死んだ海は幽霊になってぼくのまわりをさ迷っています、なんて言えないし……そもそも先生は、ぼくに何を聞きたいんだろう?
 考え込んでいると、岡崎先生は慌てて「ああいや、そんなに悩まないでいいよ」と言った。ぼくにあまり刺激を与えてはいけないと思ったんだろう。
「村岡たちのことだが」
 久々に聞いた名前に、びっくりして思わず体を固める。
「今はまだ少年鑑別所に収容されていて、取り調べを受けている。事件が事件だからこの後審判に進むことになりそうだ」
「……あの、ぼくあんまり詳しくなくて。何かその、実刑を受けることはないんですか?」
「神崎のご両親が言うには今、そうなるようになんとか話を進めているって。先生も知らなかったんだが、未成年でもその、今回みたいに……」
 ごほん、と咳ばらいを一つする先生。
「重罪を犯した場合、検察庁へ送られて、刑事裁判手続きに進むこともあるそうだ。そこで有罪になれば未成年といえど前科がつく。……お前にこんな話をするべきか、本当は迷ったんだ。でも、お前は目の前で見てしまったし……それにこれから、審判が始まれば、証人として呼ばれることもあるだろう」
「証、人」
 言いなれない言葉を発したので、ちょっとだけもごついてしまった。
「川野、今はまだクラスの連中も落ち着かなくて、居心地が悪く感じることもあるかもしれない。けれどお前は胸を張って学校へ来ていいんだよ。その……あーっ、駄目だな、俺は! 上手な言葉が出てこない」
 岡崎先生が急に大きな声を出してそんな風に叫び、がしがしと頭を掻いたので、ぼくは驚いて目を丸くさせた。先生は、いつも穏やかでにこにこしているのに、今はちょっと悔しそうに表情を歪めている。
「とにかく、何かあったら、何でもいいから先生に相談しにおいで。そのために居るんだから、教師っていうのは」
「はい……ありがとう、ございます」
 なんだか照れ臭いような気がして、ぼくはちょっと目を逸らした。
 岡崎先生がぼくの担任だというのは、とても幸いなことだった。隣のクラスの林先生(体育の先生で、いつも赤いジャージを着ている)は声が大きくて、何か間違ったことをした人が居たらクラス全員の前で立たせ、どうして自分が今立たされているのか、わかるか? と訊いてくるようなタイプの人だ。(つまりぼくが一番苦手なタイプの人種である)
 隣の隣のクラスの安藤先生は生徒に対してやけに慣れ慣れしくて、友達みたいに接してくる。一部の生徒から「うざい」とか「きもい」とか言われているのに気づいていない。そういう痛々しさが、ぼくにはなんだか辛く思える。
「先生、川野は作家になりたいんだと思っていたよ」
「えっ」
「よく本を読んでいるし、感想文なんかもクラスで一番上手に書けている。なんていうんだろう、構成がうまいんだよな。短い文章の中でも、起承転結がちゃんとまとまっていてさ」
「あ、ありがとう、ございます。でもぼくは、そんな、」
「お前、良いところがたくさんあるよ。だからさ、将来のことも、ちゃんと考えていこう。今は色々としんどいろうし、そういうのを抜きにしても、ちょっと、いや、ていうかかなり面倒かもしれないけどさ。俺もそうだったし」
 ははは、と笑う岡崎先生につられて、ぼくもちょっと笑った。久しぶりに心から笑えた気がする。
 あまりよくない結果が書かれた通知表を眺めながら帰路につく。けれど、不思議と気分は沈んでいない。
 こんなに悪い成績なんだから、どこへも行けないぞ、って言われると思っていたのに、まるで、どこへでも行けるんだから頑張れ、って背中を押されたみたいだった。
 ぼくは単純だから、そういう一押しが嬉しいのだった。
 神崎家の前を通り過ぎようとしたら、玄関の前に海が立っていた。
「海?」
 声をかけると海はゆっくり振り向いた。
 こちらを見つめる目にぼくは思わずドキリとした。生気のない、暗い瞳。そこにいる海はまるで空っぽで、心も感情も何もないように見えた。
「なんだ、お前か」
 けれど海はすぐにいつも通りの顔になって、「面談はどうだったんだ」と訊いてきた。ぼくは、暴れる心臓をなんとか押さえつけながら、「べつに、普通だよ」と返した。
 今の、なんだったんだろう。今まで一度だって見たことのない目をしていた。
「満くん?」
 背後から綺麗な声が聞こえてきてハッとした。振り向くとそこには、すっかり疲れた顔をした海の母親が立っていた。
「こ、こんにちは」
「こんにちは。家に何か御用?」
「あ、いえ、その……」
「よかったら、お線香あげていかない? 満くんが来てくれれば、海も喜ぶわ。ね、おいしいお菓子もあるの、是非そうして頂戴」
 ぼくは思わず海の方をちらりと見た。海は肩をすくめて、やれやれ、というような顔をしている。
「行ってこいよ。母さん、お前のことが好きなんだ。俺は散歩してくる」
「さあどうぞ、入って。最近お掃除ができていなくて、恥ずかしいけれど」
 二人は、ほぼ同時にそう言った。
 海の家に来るのは久しぶりだ。たぶん、小学生の時以来だと思う。中学に入学してから海は、元々持っていた才能をぐんぐん伸ばして、サッカー部では入部してすぐにスタメンに入っていたし、勉強だっていつも一番できた。
 一方ぼくは小学生の時と何ら変わらず、ただぼんやりと日々を過ごした。一年、二年とクラスが同じだったこともあり、まあそれなりに会話はしたが、それでも昔のようにとはいかなかった。
 昔。ぼくと海がまだうんと小さかった頃。
「満くんが来るの、久しぶりねえ」
「そう、ですね」
 二階建ての、大きな一軒家。リビングにはいつも日差しが差し込んで、窓から外の庭がよく見える。置かれている家具も使われている食器も何もかも、うちと違う。海の家は、どこか遠い外国に来たように思わせる何かがある。
 そして、そんな異国じみたリビングのど真ん中に、真っ白い祭壇が置いてある光景は、一瞬ぎょっとしてしまうほど奇妙だった。
「四十九日まで、お骨を置いておくのよ」
 ちょっと照れたような顔で笑う海の写真が、黒い縁の写真たての中で陽の光に照らされて光っている。たくさんのお菓子や手紙、海が使っていたユニフォームやボールなんかも置いてある。
 ここに、海の骨がある。
 急に、ずしん、とお腹の奥底で何かが質量を増したような気がした。海のために捧げられたすべてのお供え物たちが、ぼくに対して「お前のせいだ」「謝れ!」と言っているようだ。
 そして同時に、もし自分だったら? と考えてしまう。そんな自分に嫌気がさした。
 もし死んだのがぼくだったら。こんなにたくさんの人に惜しまれはしなかっただろう。母さんと父さんは悲しむかもしれないが、でもそれまでだ。
 だったら、
 だったらぼくが――。
「満くんが無事で、海はきっと喜んでいるわよ」
 優しい声。ハッとして顔を上げると、おばさんが潤んだ目でぼくを見ていた。海によく似た、宇宙みたいに大きな目。ぼくはなんだかたまらないような気持ちになって、「そんなの、でも、」と口ごもってしまう。
 ぼくはおばさんに促されるままお線香に火をつけて、海の遺影と遺骨に向き直った。
 なんだか変なかんじだ。この家を出て、自分の部屋に戻ればきっと、ふわふわ浮かんだ海が「遅かったな」とか「早く宿題片付けろよ」とか言ってくる。
 海はもういないのに。
「あのね、満くん」
 お洒落なティーカップに紅茶を注ぎながら、おばさんは言った。
「ごめんなさいね、私、やっぱりまだ気持ちの整理がついていなくて……あなたのことを見るととても辛いの。あなたのことが憎いとか、そういうわけじゃまったくなくて、あなたを見ると、その横に海もいるんじゃないかって、そう思うの」
 ごめんなさいね、とおばさんはもう一度謝った。謝る必要なんてまったくないのに。謝らなければいけないのは、ぼくの方なのに。
「いつか海が、綺麗なお嫁さんをつれてきて、そのお嫁さんとの間に可愛い子供が生まれて、私はおばあちゃんになる。海とお嫁さんが仕事で大変な時は孫の面倒を見てあげたり、食事を作りに行ってあげたりする。私ね、そういう未来を、当たり前みたいに夢みていたのよ。私……」
「すみませんでした」
 たまらなくなって、ぼくは頭を下げた。胸が張り裂けるように痛い。痛くて痛くてたまらない。
 ぎゅっ、と拳を握りしめて、手のひらの中にそういう痛みを全部閉じ込めるようにしながらじっとしていると、おばさんはハッとしたように「や、やだ、違うのよ!」と言った。
「本当に違うの、ごめんなさい。あなたにそんな顔をさせたかったわけじゃなくて……私は、私はただ、」
 おばさんは言った。
「昨日までの当たり前が、今日も同じように続くとは限らない、なんて、そんなこと、わかりきったつもりでいたの。でも……でも、だからね、満くん。だからこそあの子のしたことは、本当に尊いことだったと、そう思うわ。ねえ満くん、覚えてる? あなたと海が、初めて出会った時のこと」
 ぼくは俯いたまま首を横に振った。
「そうよね、あなたもあの子も、まだうんと小さかったもの。あの子ったら、ふふ……おかしい! あなたのこと泣かせちゃったのよ、初対面で! あ、ごめんなさい、笑い話じゃないわね」
 涙をぬぐいながら、それでも優しく笑うおばさん。ぼくはそっと顔をあげた。夕陽が窓から差し込んで、きらきらと光って見える。
「あなたももちろん悪くないんだけど、あの子も悪くなかったのよ。ほらあの子、目つきが悪いでしょう? それで多分、あなたびっくりしちゃったのね。わあわあ泣いて、お母さんの元へ走っていって。四歳くらいだったかしら?」
「そ、そうでしたっけ」
 当たり前だが、覚えていない。ぼくは誤魔化すようにティーカップに口をつけた。生ぬるくなっていて、けれど緊張してカラカラの喉には心地よかった。
「最初はどうなることかと思ったけど……やだ、ごめんなさい」
 おばさんはまた涙を拭ってうつむいた。
 帰り際、おばさんはぼくに何度も「また遊びにきてね」と念押しするように言った。その表情が本当に優しく、そして悲し気で、ぼくは何も言えなくなってしまった。
 海、お前、やっぱり馬鹿だよ。大馬鹿だ。
 岡崎先生と進路の話をしていたのが遠い過去のことのように思える。すぐ隣に自分の家があるのに、なんとなく帰る気になれなくて項垂れた。
 そんなことしたって、苦しくなるだけなのに、海に訪れるはずだった未来を想像してしまう。
 きっと、県内で有数の偏差値の高い高校に難なく合格して、華々しい高校生活をスタートさせる。サッカー部に入って、たくさん友達を作って、チームのエースになる。須賀さんはあまり勉強が得意ではないようなので(これはぼくの主観的な意見ではなくて、そういう噂を耳にしたのだ)、別々の高校に通いながらも交際を続ける。
 そのままやっぱり賢い大学に進学して、教師や周囲の仲間からも期待されながらどこか大手企業に就職する。
 結婚して、子供を産んで、その子供は海に似てとびきり美形で――。
 
「お前は俺が死んだことを嘆いているんじゃない。俺の未来が失われたことに対して、もったいない、って悔やんでいるんだ」
 
「えっ」
 声が聞こえた気がして振り向いても誰もない。夕陽に照らされて不気味なくらい色濃く伸びる、ぼく自身の影がゆらゆら揺れているだけだ。
 途端、その影ににんまりと三日月型の歯が現れて、嘲るようにこう言った。
「お前は残酷な奴だよ」
「自分のことしか考えていないんだ、いつだって」
「俺が死んだことなんて本当はどうでもいいと思っている」
「ただ罪の意識から逃れたいだけだ。お前はいつもそうだ。目の前のものをちゃんと見ないで目を逸らす」
「や、やめろ、違う!」
「……み、満くん?」
 声をかけられてハッとした。
 心臓が信じられないくらいドキドキいっているし、冷や汗をかいている。慌てて背後の影をもう一度見る。何の変哲もない、黒い模様だけがそこで揺れていた。
「大丈夫? どうしたの?」
「あ、いや……」
「顔、真っ青だよ。何かあった?」
 近づいてきた女の子のことが一瞬誰だかわからなくて、ぼくは怯えるように一歩下がったが、それがつい先日知り合った少女、岬さんであることがわかると、なんだか少しホッとした。
「み、岬さん」
「こんにちは。……ねえ、こっち来て!」
「えっ!?」
 岬さんは笑ってぼくの腕をぐいぐい引き、近くにあった公園に足を踏み入れさせた。問答無用でブランコに座らされる。
「あ、あの、」
「待っててね」
 そう言い残すと、岬さんは公園から出て行ってしまった。唖然とするぼく。どうしよう、なにこれ? 何の時間なんだ? 
 言われるがまましばらく待っていると、岬さんは缶ジュースを二本抱えて戻ってきた。
「はい、あげる」
「え、でもそんな、」
「いいのいいの! この間のお礼。それに君この間、なんか落としていたでしょ、ジュースみたいなの」
「あ……う、気づいていたんですか」
 バレていた。格好がつかないな。
 なんだか照れ臭いような気持ちになって、ぼくは目を逸らした。
「じゃあほら、乾杯しよう、乾杯」
「乾杯って……何に対してですか?」
「え? うーん……私たちの青春に、かな?」
「はあ?」
「かんぱーい!」
 こん、となんともいえない微妙な音が鳴って、缶どうしがぶつかり合う。
 プルタブを開ける。岬さんがぼくにくれたのは桃の味のするサイダーだった。こんな可愛らしいパッケージの飲み物、自分じゃあまり買わないから、新鮮だな。そんな風に考えながらちびちびと飲み口に口をつけていると、「この間はありがとね」と小さく声が飛んできた。
「あ、いえ……あの後、大丈夫でしたか? その……」
「ああ、うん、平気。うちいつもああなの」
「そう、ですか」
 カテイノジジョウ、ってやつか。
「君は? なんだか、幽霊みたいな顔してたけど」
「いや、ちょっと……嫌なことがあって」
 嫌なこと、という言葉を選んでしまったことに対して、瞬時に後悔した。
 どこが嫌なことなんだ? 海のことを考えるのは、嫌なことなんかじゃないはずだ。それどころか、きちんと向き合っていかなければいけないことだ。
 なんだか頭が痛くなってきて、文字通り頭を抱えた。
「なになに、どうしたんだい。岬さんに話してご覧よ」
「……人に話せるほど、簡単な話じゃないんです」
「人に話せるほど簡単じゃないって話ほど、人に話して簡単にしちゃった方がいいと思うけどな。まあいいけどさ、言いたくないなら、それで」
 そう言って、MA―1のポケットに片手をつっこむ岬さん。相変わらず頬に貼られた絆創膏が痛々しい。ぼくはなんだか気になって、「あの、」と口を開いた。
「その……頬のやつ、どうしたんですか?」
「え? ああ……お母さんにね」
「え」
 お母さん? お父さんじゃなくて? 
 ぽかんと口を開いて唖然としていると、岬さんは長い睫毛を伏せながら口を開いた。
 岬さんの話は壮絶だった。漫画やドラマの話を聞いているみたいだった。
 お酒に酔ってよく岬さんに手をあげる父親。外面は良くて、会社では重役を担っている。母親は忙しい父親に内緒でホストクラブに通いつめ、若い男にお金を貢いでいる。まだ幼い弟がいて、その面倒は岬さんが見ている。両親は岬さんと弟のことを目をかけないので、もちろんお金も寄越してくれない。岬さんは毎日、学校に行く暇がないくらいアルバイトに明け暮れて生活しているそうだ。
「だからこの間、君がお父さんに立ち向かってくれた時、私嬉しかったよ。私……ずっと自分には価値なんてないんだ、って思っていたから」
「そ、そんなことないです!」
 ぼくは言った。思いのほか大きな声が出て、自分で自分にぎょっとした。
「岬さんに価値がないとか、そんなこと絶対にないです。だって岬さんは何も悪くないし、それどころか、アルバイトをしてお金を稼いで、その上弟さんの面倒まで見て……!」
「そう、かな」
「そうですよ! 少なくともぼくはそう思います。だって、ぼくなんて……」
 気づくとぼくの口は、今まであったことを洗いざらい話していた。
 辛い境遇に居て、それでも笑顔を絶やさない岬さんにならなんでも話せる気がした――いや、そうじゃない、それだけじゃない。ぼくは岬さんに、自分の話を聞いてほしかったんだ。
 父さんが出て行ってしまったこと。母さんがぼくに気を遣って、壊れ物でも扱うみたいに接してくること、それがとてもしんどいのだということ。村岡たちの万引きの現場を目撃してしまって、そのせいで目をつけられてしまったこと。
 そして、その末に海が死んでしまったこと。
 流石に、その海が幽霊になって自分の周りをさ迷っている、なんてことまでは話せなかった。だけど全て言い終えた時、ぼくの心の中にずしんと沈んでいた重石のようなものが、ほんの少し軽くなった気がした。
 岬さんはうんうん頷いてぼくの話を全部聞き終えると、
「……息苦しかったねえ」
 と、そう言ってちょっとだけ笑った。
 その言葉が、すとん、と自分の中に落ちてきて、じんわりしみこんでいくような気がした。
 そうだ、ぼくは息苦しかったんだ。
 この数か月の間だけじゃない。本当はずっと、ずっと息苦しかった。
 喉元にいつも誰かの手が添えられていて、何かある度に容赦なく力を込めてくるような、そんな感覚で過ごしていたんだ。
 気づくと右目からほろりと一粒涙が零れ落ちて、慌ててそれを拭った。岬さんは何も言わない。茶化しもしないし、大丈夫? と顔を覗き込んでくることもない。ただ黙って、空の缶をぺこぺことへこませるだけだ。
 ぼくにはその距離感がありがたく、そしてとても心地よかった。
 帰り際、ジュースごちそうさまでした、と頭を下げるぼくに、岬さんは「いいんだよ」と優しく笑った。
 ここで別れたら、次、いつ会えるかわからない。今日はたまたま、運がよく会えただけで、次回もそうとは限らない。
 ぼくは岬さんにまた会いたかった。自分と同じ、どうにもならないような悩みを抱えている岬さんと一緒に居ると、なんだかほんの少しだけ気持ちが楽になる。それはもしかして、ものすごく愚かなことなのかもしれないけれど、でもそうならそうで構わない。
 今まで一度だって振り絞ったことがない“勇気”とやらを、ぼくは精いっぱい振り絞った。
「あ、あの、また会えますか?」
 言った直後にハッとした。アルバイトもあるし、弟さんの面倒も見なくちゃいけない忙しい岬さんにこんなことを言ってしまっては迷惑かもしれない。配慮が足りなかっただろうか? 
「え? うん、もちろん!」
 岬さんは一瞬驚いたように目を丸くさせた後、にっこり笑った。嬉しそうな笑みだったのでほっとした。
 連絡先を交換して、ぼくらは別れた。スマホの通話アプリに並ぶ、数少ない友達一覧に、岬さんの名前が追加されている。そういうことは、きっと簡単に友達を増やせる人たちにとっては些細なことなのだろうけれど、ぼくにとっては思わずじんとするほど幸せなことだった。
 その日、家に帰っても海はぼくの前に現れなかった。
「海?」
 暗い室内で、ぽつんと名前を呼んでみても、返事がない。どこかに行っているのだろうか? それとも、消えてしまったとか――。
 不安になって起き上がり、カーテンを開くと神崎家が見えた。おじさんがいつも使っている車が車庫にない。まだ帰っていないのだろう。
 窓を開ける。冬の冷たい空気が頬を冷やす。空を見上げると星がひとつ眩しいくらいにきらりと光っていた。あれは確か、北極星のポラリスだ。あの星に向かって歩き続ければ北へたどり着くのだと、海が教えてくれた。
「海、消えちゃったの?」
 呟いた言葉はやけに白々しく冬の空に溶けた。
 何をいまさら。海は死んだんだ。――でも、消えたわけじゃない。
 消えるって、どういうことだろう? 
 ぼくは頭の中で、水中でぷくぷく浮かぶ泡を思い浮かべた。ぱちんと弾けて、元から何もなかったみたいに消えてしまう。そうしていつしか何事もなかったかのように、広い海の藻屑になる。
 海が死んでも、海がぼくに教えてくれたことはぼくの中で生き続ける。
 それは、水泡が弾けて消えるのとどう違うんだろう?
 
 
   4
 
 
 水嶋くんが引っ越してきたのは、それから数日後のことだった。
「水嶋透です、北海道から来ました。よろしくお願いします」
 ぎょっとしてしまうくらい背が高くて、その大柄な体系のわりには顔つきはのほほんと優しい。
 童話の世界から出てきた、優しい熊。
 彼に対するぼくのイメージは、そんなかんじだった。
 水嶋くんは最初、教卓の近くの席を指定されたが、高い身長が後ろの席の人の妨げになり、それなら後ろの席がいいだろう、と、ちょうど空いていたぼくの横の席へやってきた。
 ぺこん、と会釈をされたので、ぼくも会釈を返す。その間、ぼくらの間に会話はなかった。
 休み時間、水島くんの周りには人だかりができた。
 行きかう多種多様な、けれどありきたりな質問たち。どこから来たの? 家はどこ? どうして引っ越してきたの? などなど。
 会話の中で水嶋くんは、やっぱり優しく笑いながら、何の悪気も無しにこう言った。
「俺、でかいからさ、後ろの席にしてもらえて助かったよ。でも、窓際の席だったらもっとよかったのになあ。あそこの席の人は今日、休みなの?」
 しん、と一瞬で静まり返る室内。みんなが、すぐ横に座るぼくに意識を向けている、ということがわかる。
 ぼくはなんだかいたたまれなくなって、席を立った。背後から、水嶋くんの「え、なに、みんなどうしたの?」という戸惑いの声が聞こえて、ちょっと不憫に思えた。
 休み時間が終わるぎりぎりに教室に戻ると、水嶋くんが何か言いたげにちらちらとぼくを見てきた。海のことを誰かに聞いたんだろう。
 嫌だな。誰かに何かを一方的に思われるのは、本当に疲れるし居心地が悪い。
「あ、あのさ!」
 だから放課後、掃除当番の仕事であるゴミ捨てを終えて、校舎裏の手洗い場で手を洗っている時に声をかけられ、ぼくはちょっと顔をしかめてしまった。
「その……さっき、ごめん。俺、聞いたんだ、その、君と、神崎くんのこと」
「ああ、そう……」
 じくり、と胸が痛む。
「べつに、君が気にすることはなにもないよ。わざわざありがとう」
「あ、いや、それだけじゃなくてさ!」
 水嶋くんは言った。
「君さっき教室で、本読んでたよね?」
「え? う、うん」
「俺……すっげー、って思ったんだ!」
 は?
 馬鹿にされているのかと思って思わず眉根を寄せる。独りぼっちで本なんか読んで、ネクラなヤツ、とか、そういうことを言いたいのか? けれど水嶋くんの表情はあくまで真っすぐで、間違ってもぼくのことを馬鹿にしているようには見えない。
「俺も本、好きなんだ。母さんが読書家でさ、家にたくさん本が置いてあって……」
「はあ」
「あ、いや、ごめん、俺急に、うざいよな。ほんとごめん」
「いや、べつに……」
 なんなんだ、急に。
 学校で、こんなに長時間人と話しをしたのは久しぶりだ。いや、普通ならこれくらいの雑談をするものなのだろう。でもぼくにはあまりに新鮮で、戸惑ってしまう。いや、これくらいで戸惑うなよ、ぼく。
「あのさ、皆がわいわい騒いでいて、その騒がしさの渦に巻き込まれているのに、その中で自分の世界を確立するのって、めちゃくちゃ難しくない?」
「あー……」
 言いたいことはわかる。
 でももはやぼくにとってそういう感情は、今更感がすごいのだ。そういう感情は、クラスの一員として居場所がちゃんと確立されていて(水嶋くんの言葉を借りて言うのなら、渦に巻き込まれていて)、はじめて成り立つ。
 ぼくが黙り込んでいると、水嶋くんは気まずそうに「なんか、変なこと言ってごめんな」と言った。
「いや、その……全然変なことじゃないよ。ただぼくは、」
 ぼくは、自嘲気味にちょっとだけ笑いながら言った。
「水嶋くんの言う、“みんな”の世界に入れないから、自分の世界にしがみつくしかないんだ。……ただ、それだけなんだ」
 我ながら情けないことを言っている。でも事実だ。
 やることのない休み時間。ただぼうっとしているだけでは変な目で見られる。前の授業の復習をしたり、次の授業の予習をすれば真面目だとかガリ勉だとかいわれるし、かといっていちいち席を立つのも面倒臭い。
 どうして皆、授業と授業の間の、たった十分だかそこらの休憩時間に、わざわざ友達のところへ集まったりしようとするんだろう。そんなに話題が尽きないものなのだろうか。ぼくにはよくわからない。そういうことが、たまにものすごくみじめなように感じる。
 でも、本を開けばそういう世界から自分を切り離すことができる。たったの十分。そのちっぽけな時間、ぼくに居場所を与えてくれるのが本なのだ。
 まあ、そんな複雑かつ面倒な思いを水嶋くんに話せるはずもなく、「ま、まあ、そんなかんじ」なんてよくわからない言葉を最後に話を閉め、逃げるようにその場を後にした。「あっ、」という水嶋くんの声を背後に聞きながら。
「あんな話、初めて聞いたぞ、俺は」
「うわ、海」
「うわとはなんだ、うわとは。人を幽霊みたいに」
「……幽霊だろ」
 ぼくが言うと、海はそのツッコミを待っていました、とでもいうように笑った。
 海と話すのは数日ぶりだ。海がまだ、消えずにこの世界に幽霊としてとどまっている、ということに、少なからずホッとした。
「随分久しぶりな気がするけど」
「幽霊といえど、俺だって忙しいんだ」
「ふうん……」
「なんだよ、そんなに寂しかったのかよ」
「いや、数学の授業の時、海が居たら助けてくれたのになあ、って思うことが何回かあって」
「……俺はドラえもんじゃないぞ」
 不服そうな顔の海が可笑しくて、ぼくはちょっと笑った。そういえば、海とはあまり、こういう雑談のようなことはしてこなかった気がする。
「お前が席を立っている間、クラスの奴ら大騒ぎだったぜ。お前と俺のこと、あることないこと騒ぎ立てて話してさ」
「うん、想像つくよ」
 気にならないと言ったらウソになるけど、でも、影でこそこそ指をさされて何かを言われるのには慣れている。
「ねえ海。今日数学の課題出てるんだけど、手伝ってくれない?」
「やなこった」
 海はそう言い残して、ぽんっ、と消えた。そんなファンタジーな消え方もできるのかよ、とぼくは驚き半分、感心半分で海が居た場所を見つめた。
 翌日、登校すると水嶋くんは、体を小さく丸めるようにして、読書をしていた。大きな手が小さな文庫本を両手でつかむと、まるでおもちゃのように見える。
「あ……おはよう、川野くん」
「お、おはよう……ふふっ」
「えっ? な、なんで笑うの?」
「いや……なんでもない」
 頭上にクエスチョンマークを浮かべる水嶋くんを他所に、ぼくは鞄を置いて席につき、一限目の授業の準備をはじめた。
 水嶋くんが読んでいたのは『赤毛のアン』だった。
 熊みたいに大きな水嶋くんが、赤毛のアン。そのギャップがなんだか可笑しく、けれど可愛らしいような気がして、ぼくは笑った。
 転校生というステータスの物珍しさで、水嶋くんはしばらくの間よく声をかけられていた。そのたびに、本にしおりをはさんで顔を上げ、丁寧に受け答えをしてからまた読書を再開させる。
 クラスメートたちはそんな水嶋くんのことを影でこそこそ言うでもなく、ただそういうキャラなんだな、と都合よく解釈をしたようで、彼が読書をしている時にはあまり声をかけてこなくなった。多分、こういうことがこの間彼自身の言っていた“自分の世界を確立させる”ということなのだろう。
「やってみたら案外、どうってことなかったんだな」
 三階踊り場の掃除当番。箒でゴミを掃き集めていると、水嶋くんはぽつんとそう言った。
「なにが?」
「だから、その……学校で本を読む、ってこと」
「ああ」
「川野くん今、そんなこと、って思っただろ」
「え? うーん……うん、思った、かも」
「そんなこと、じゃなかったんだよ。俺にとってはさー」
 水嶋くんは言った。埃っぽくて薄暗い踊り場で、やれやれと肩をすくめるようにしながら。
「みんなと違うことをするのって、すごい疲れる。自分がしたくてしているはずなのに。でも俺、この一件でちょっと大人になった気がする、うん」
「なんだそれ」
「あ、また笑った! 川野くん君、俺のことよく笑うよなあ!」
 言葉のわりに全然怒った様子でもなく、水嶋くんはそう言って、「まったく」と肩をすくめた。
 よく笑う、なんてはじめて言われた。昔から、愛想がないとか何考えているんだかわからない、とか、そういうことばかり言われてきたから。
「川野くんは、どんな本が好きなの? 好きな作家は?」
「え? ……うーん、なんでも好きだけど、でも、推理小説が好きだな」
「あー、好きそう」
「でもぼく、あんまり頭良くなくて。探偵が種明かししているシーンを何回読んでも、いつもいまいち理解できないんだ」
「なにそれ、推理小説の面白さ半減じゃん!」
「そう、本当にそうなんだよ」
「変なヤツだなあ、君って」
 水嶋くんは笑った。嫌味っぽくない、真っすぐな言葉だったので、不思議と心地よかった。
 ぼくなんかに、一歩踏み込んで色んなことを聞いてくれる水嶋くん。誰かと好きなものの話をするのなんて久しぶりだから、胸の奥がむずむずする。けれどなんだか、今ならぼくでも踏み込むことができるような気がして、思い切って口を開いた。
「赤毛のアン、ぼくも好きだよ」
「え……」
「親友のダイアナが、いちご水と間違えて葡萄酒を浴びるように飲んで、酔っ払うシーンとかあったよね」
 小学生の時だかに読んだ記憶を引っ張り出しながらそう言うと、水嶋くんの目がみるみるうちに輝いていった。
「そのシーンをチョイスするなんて、君、やるなあ!」
「あ、ありがとう」
「俺、はじめて飲むお酒は絶対葡萄酒って決めているんだ。だって、ダイアナが水みたいにごくごく葡萄酒を飲み干すあのシーンって、本当に魅力的だろ? すごく美味しそうに書かれていてさ……あーっ、早く飲みたいなあ!」
「おい、お前ら、間違っても未成年飲酒なんかするなよ」
 ぼくらの会話に、急にそんな野太い声が飛んできたので驚いてしまった。振り向くとそこには、むっつりと怖い顔をした隣のクラスの林先生が立っていた。
「そんなことしたらただじゃおかないからな。いくらお前たちが、俺のクラスの生徒じゃないとしてもだ」
「もししたら、どうなるんですか?」
 水嶋くんの愚かな質問に、林先生はにっと笑って、
「ぶん殴って半殺しにする。さあさっさと片付けろ、お前たちくらいだぞ、こんなにもたもたしているの」
「え、」
 本当だ。気づけば周囲には全然人がいなくなっていた。
 このご時世、ちょっとうるさい保護者に聞かれたら大問題になりそうな発言を残して、林先生は去って行った。ぼくらはその真っ赤なジャージに包まれた後ろ姿を見送りながら、顔を見合わせて小さく笑い合った。
「葡萄酒ってさ、要はワインのことだよね」
 自然と一緒に帰る流れになって、ぼくがそう言うと、
「ワインじゃなくて葡萄酒! その方が、なんか、響きがわくわくするだろ」
 と、水嶋くんは主張した。
 ぼくらはその放課後を境によく話をするようになった。
 朝、登校すればおはようを言い合ったり、授業中わからないところがあれば相談したり、休み時間にちょっとした雑談をしたり、放課後は途中まで一緒に帰って、また明日、と手を振ったり。
 水嶋くんと話すようになってから、クラスメートたちとも少しずつ話をするようになっていった。以前はぼくのことを遠巻きに、まるで腫物でも触るかのような態度で接してきていた奴らも、ぼくらが昨日見たテレビの話をしていれば「あ、俺もそれ見た」と話しに入ってきたり、それこそ単純に「おはよう」とか「またな」を言ってくれる。
 きっと、今を生きるぼくと同い年の中学生からしたら、そういうことはとんでもないくらい平凡で、当たり前のことなのだろうけれど、ぼくにとってはなんだか足元がふわふわするくらい、嬉しいことだった。
「ねえ海」
 虚空に向かって声をかけても、返事はない。
 近頃海はぼくの前にあまり現れなくなった。ぼくが、自分無しでも生きて行けるのかを見届ける、なんて言っていたのに。まあでも、海だってぼくなんかの地味な生活をずっと見ているのもつまらないのだろう。
「……ぼく、お前の言う“清く正しい”生活、できているかな」
 いくら呼びかけても、海はいっこうに姿を現さなかった。
 けれどその晩ぼくは、不思議な経験をした。肌寒い冬の夜、その声はぼくに囁きかけてきた。
 
「――宇宙船スプートニク2号に乗せられた犬の名前を、知っているか」
 
 海の声だ。低くて落ち着いていて、でもどこか悲しそうな声。枕元に立って囁いている。
 これは夢? 現実? そんなことすらよくわからない。
 ただ、信じられないくらい瞼が重くて、金縛りにあっているみたいに体が全然動かなくて、そのくせ意識だけははっきりとしている。ぼくの体はその時まるで、海の声を聞くためだけにあるみたいだった。
「ただ街中をさ迷っていただけの野良犬が、人間に捕まって、宇宙に飛び立ちたいなんていう浅ましい夢を実現させるための実験台にさせられた」
 何? 何の話をしているの?
「宇宙空間に、たった一匹で放り出されて、わけもわからないまま死んだ犬のことを、俺はたまに考えるんだ」
 宇宙に、一匹の犬。
 ぼくは頭の中でその様子を思い浮かべた。真っ暗闇の中、きらきら光る星々と、遠くに見える青い惑星。そんな中をさ迷う、孤独な犬。
「今じゃ宇宙飛行士なんていう職業は、聞き馴染みがないほどわけのわからないものじゃなくなって――宇宙に人が飛び立つなんてことは当たり前みたいに受け入れられている。でも、人間のせいで死んだ犬の名前を知っている奴は滅多にいない」
 確かに、ぼくも知らない。でも、海はどうして知っているんだろう? それに、一体何が言いたいんだろう?
 瞼が開かないせいで顔なんて見えないのに、海が悲しそうな顔をしている、ということが、ぼくには何故かはっきりとわかった。
「――俺にはそういうことが、たまにものすごく辛く思えるんだ」
 そう言うと、気配が遠ざかっていくのを感じた。しばらくすると徐々に体が動かせるようになってきた。そっと瞼を開く。わずかに開いたカーテンの隙間から、月明かりが差し込んで部屋の中をぼんやりと照らしている。
「……海?」
 呼びかけてみても、やっぱり返事はなかった。
 
 
    5
 
 
「お前、最近おばさんと話したか?」
「は?」
「飯の時だっていつも静かだし……ちょっとでいいから話してやれよ」
 翌朝、いつも通り神出鬼没に現れた海は、開口一番そう言った。
 そんなことより、昨夜のはなんだったんだとか、ぼくになにか言いたいことがあるんじゃないかとか、そういうことがぐるぐると頭の中で渦巻いたが、海がいっそ悲しそうな顔でそんなことを言うので、ぼくは何も言えなくなってしまった。
「聞いてんのか、おい」
「いだっ」
 ぎゅっ、と鼻をつままれて、痛みに目をつむる。思い切りつままれたのでひりひりする。恨めしく思いながら仕返ししようと手を伸ばすと、ぼくの手はやはり宙を切った。
「くそ……卑怯だ、やり返せないなんて」
「ふん」
「ていうか、なんで海から触ることはできるのに、ぼくから触ることはできないのさ。それっておかしいよ、不公平じゃないか」
「おかしいし、不公平だな、確かに」
 海はそう言うと、けらけら笑って「じゃあな」と消えた。
 なんなんだ、一体。
 今日は土曜日で、特に用事もない。なにをしようかな、とぼんやり考える。とりあえず、もう一回くらい寝ようかな。まだ九時前だし、あと三十分くらい寝たって罰は当たらないだろう……。
「満、ちょっといい?」
 こんこん、と控えめに扉が叩かれて、ややあって遠慮がちに扉が開いた。
「なに?」
 普通に言葉を発したつもりだったのに、思いのほか尖って響いて驚いた。ぼくの機嫌が悪いとでも思ったのか、母親は一瞬躊躇した後、「ごめんね、朝から」と小さくて消え入りそうな声で言った。
「あのね、今日、お休みでしょう? それで、よかったら、ごはん外に食べに行かないかなって……」
「え」
「嫌だったらいいのよ、もちろん。でも、最近あなたとゆっくり話せていなかったでしょう?」
 母親と二人で、土曜日に外食。
 クラスメートに見つかったら嫌だなとか、話すことないのに気まずいなとか、そういう紋々とした感情が一瞬で胸に浮かんだ。なにより、怯えるようにぼくに話しかけてくる母親を見ていると、何故だかむかむかとしてしまう。
 ――清く正しい生活。
 頭の中で、海の言葉を思い浮かべた。清く正しい生活をしろ。それに、今朝の海の顔を思い出すと、ここで母親をつっぱねるなんてこと、ぼくにはできっこない。そんなことをしたらきっと海は、心底軽蔑した、とでもいうようなあの目を向けてくるだろう。
「……わかった、行くよ」
「え……え? いいの? 本当に?」
「うん。……でも、あんまり近場にしないでよ」
 誰かに会ったら恥ずかしい、というぼくの気持ちを理解したのか、はたまた理解はしていないけれどなんとなく察したのか。母親は「ええ、もちろん!」と微笑んだ。
 それじゃあ洗濯物を干してくるから、その間に準備をしていてね。心なしか弾んだ声でそう言い残して、母親は去っていった。ぼくは小さくあくびをして、それからぽすん、とベッドにあおむけに倒れんだ。
 真白い天上がぼくを見下ろす。面倒だな、とか、このまま寝ちゃいたいな、とか、やっぱり断ればよかった、とか、そういう感情が胸に湧く。
 スマホをちらりと確認すると、水嶋くんからメッセージがきていた。
『起きた? 今日も一日頑張ろう!』
「なんだそれ」
 思わず、ふ、と笑ってしまう。そして、小さくこぼれたその笑みが助走にでもなったかのように、よいしょ、とごく自然にベッドから起き上がることができた。
 のろのろと服を着替えて、洗面台へ向かう。顔を洗ってから鏡を見ると、頭のてっぺんのほうがちょっと跳ねているのに気が付いた。
 ぼくはその日、久しぶりに櫛をつかって髪を梳かした。
「あのね、あなたはもしかして嫌かもしれないけれど」
 父親が置いていった車を運転しながら、母親は言った。
「昔、三人で行ったお座敷の和食屋さんあるでしょう?」
 そんな店日本全国どこにでもあるだろ、と思いながらも、ぼくは「ああ」と頷いた。おぼろげにだが覚えがある。
「あそこで食べた、月見うどん。お母さんなんだか、むしょうに食べたくなっちゃって……」
「いいよ、ぼくはどこでも」
「本当? ありがとう、満」
 べつに、お礼を言われる筋合いは全然ない。ぼくがお金を払うわけでもないし。
 けれど、本当にホッとしたように微笑む母親の横顔を見ていたら、そういうひねくれた気持ちは薄らいだ。
 今ぼくが座っているこの席は、元々母親の定位置だった。
 父親が運転をして、その横で母親がぽつぽつと父親に話しかける。たまに後ろを振り向いてぼくに何か言ってくる。酔ってない? とか、お腹すいたでしょう、とか、そういう何気ないことを。
 けれど今、運転席に父はいない。助手席にはぼくが座って、後ろの席は空っぽだ。狭い車内は、ぼくら家族が一人欠けたのだということを、ありありと示すかのようだった。
「お母さん、運転下手でしょう、ごめんね」
「……べつに」
 母親はぼくによく謝る。なんとでもないような小さなことで、あるいは、べつに謝る必要なんてどこにでもないようなことで。
「……下手じゃないよ」
 ぼくがそう付け足すと、母親は「……そう?」と小さく言った。ぼくはずっと窓の外を見ていたので、その時の母親がどんな顔をしていたのかはわからなかった。
 お昼の時間には少し早いからか、休日のわりにお店は空いていた。ぼくらが二人で店に入ると、大学生くらいの女性の店員さんがやってきて、ぼくらを席まで案内した。
 案内された席に着いた時、がんと頭を殴られたような気分になった。
 お店の中は不思議な構造をしていて、中央にちょっとした庭園のようなものがあり、それを囲むように席が配置されている。
 そして、その小さな庭園には悠然とした佇まいの藤の木がそびえている。今はシーズンじゃないので花は咲いておらず、裸の枝が寒々しく伸びているだけだが、ぼくはその枝に、毒々しいほどの紫の花が咲き誇っているのを錯覚した。
「懐かしいでしょう、ここ」
 よっこいしょ、と腰かけながら母親が言う。ぼくは返事をせずに、ただじっと樹を見つめた。
「あの木、春先になるととっても大きな熊蜂が群がって大変なのよね。硝子超しにぶんぶん飛び回る様子を、あなた夢中になって見つめていて……」
「……うん、覚えてる」
 幽霊みたいに綺麗な藤の花に群がる、大きな蜂。外をぶんぶん飛び回って、それを目で追いかけるのが楽しかった。あんまりにも夢中で外を覗くものだから、頼んだ食事がすっかり冷めてしまって、
「目先の食べ物より、硝子の向こうの花と虫の方が大事なのか」
 と。父親が呆れたように言っては笑った。そういうことが、確かにあった。すっかり忘れてしまっていたけれど。
「外食なんて滅多にしないんだから、たくさん食べなさい」
 母親は当初の宣言通り月見うどん――の、ミニ海鮮丼セットを注文し、ぼくは煮魚の定食を注文した。
「お肉にしなくていいの? ほら、かつ丼とかあるわよ?」
「いいよ。魚、好きだから」
「そう? じゃあ、食後にデザートも食べなさい。ほら、あんみつとかもあるわよ」
「……食べられそうだったらね」
「食べ盛りなんだから、それくらい余裕でしょ!」
 ぼくらの会話が済んだのを見計らって、店員さんが注文をとりにきた。
 食べられそうだったら、と言ったのに、母親は喜々として「食後にあんみつを持ってきてください」と注文した。かしこまりました、と、微笑ましいものでも見るようにぼくらの注文を聞いてくれた店員さん。ぼくはなんだか恥ずかしくなってきて顔を逸らした。やっぱり、来なきゃよかったかもしれない。
「満と二人で外出するのなんて、久しぶりね」
 しんみりとした口調で母親は言う。
 多分、親と子のコミュニケーションとやらをとりたいのだろうけれど、そういう歯の浮くようなもののことを考えるだけで、ぼくはげんなりしてしまうのだった。
 でも、ここまで来てずっとぶすくれているわけにもいかない。必要最低限「そうだね」と返すと、母親は「満が今日、一緒に来てくれて、本当によかった」と話を続けた。
「ここ数か月、色んなことが重なって、ちょっと疲れたでしょう?」
「べつに……疲れたとか、そういうんじゃなくて、」
 上手く言えない。
「あのね、こんなこと満に話すべきかどうか、ずっと迷っていたのだけれど、」
 もごもごとするぼくに対して、母親は言った。
 多分、父親の話をされるのだ。そう思い込んで思わず身構える。けれど耳に飛び込んできたのは、ぼくの予想と百八十度違う言葉だった。
「お母さんね、実は最近、病院に通っていたの」
「は?」
 初耳だ。そんなこと、全然気が付かなかった。
 病院? ぼくは真正面に座る母親の顔をじっと見る。顔色は……べつに、良いとも悪いとも言えない、いたって普通だ。特段やつれたようにも見えない。真っすぐぼくを見るくっきりした二重は、残念ながらぼくには受け継がれなかった。
「……病院って、何か精神的なやつ?」
「いいえ、違うわよ。まあ、それも考えたけどね」
 考えたんだ、やっぱり。
「でも、そうじゃなくてね、お母さんちょっと前から、胸のところに、ぽこっとしたふくらみがでてきていて……しこり、って言った方がいいかしら」
「えっ」
「乳がんの検査にね、行っていたの」
 いらっしゃいませー、と遠くで声がする。お昼時が近づいてきたからか、徐々に人が増えてきたようだ。ぼくは、母親の次の言葉をじっと待った。けれど母親は呑気にお茶を一口すすって、「ああ美味しい、ほうじ茶ってたまに飲むと本当に美味しく感じるわね」なんて言っている。
「そ、それで?」
「え?」
「どうだったんだよ、検査の結果」
「ああ、結局、悪性の腫瘍じゃなかったの。放っておいても大丈夫、って」
「あ、そう……」
 なんだよ! 
 大きな声でそう叫びたいのを、ぼくはぐっと我慢した。
 一瞬、頭の中で色んな想像が駆け巡った。母親がもし、いなくなってしまったら? ぼくには家族が居なくなるんだ、今度こそ。そう思うとなんだか急に心細くなって、けれどそういう気持ちを絶対に悟られたくなくて、「脅かすなよ」と呟いた。放った言葉は情けないくらい小さく響いた。
「あのね、お母さん、お父さんが家を出て行って……それから、満が、学校で辛い目に遭っていた、ってことを、後から知って、それで、海くんがいなくなってしまって。なんだか悪い夢でも見ているみたいな気分になって……それでね、あの時は本当に、消えてしまいたい、って思ったの。なんだか、自分が情けなくて、許せなくて」
 窓の外にちらりと一瞬だけ視線を向けてから、母親は続けた。
「でも、自分の体に異常を見つけて、もしかしたら悪い病気かもしれない、って思った時、たまらなく怖かった。それでね、その時思ったの。人間っていうのは、良かれ悪かれ、上手いことできているもんだなあ! って」
「……なにそれ」
「だって、消えてしまいたい、なんて思っていたのに、いざ自分が本当に消えてしまうかもしれないって思った途端、私……消えたくない、死にたくない、って、そう思ったの。現金よねえ」
 ぼくの頭の中に、あの夜のプールサイドがフラッシュバックした。
 ――消えたくない、死にたくない。
「海も、」
「え?」
「海も、きっとそう思ってた」
 俯いて、両ひざの上に置いた拳をぎゅっと握りしめながらそう零す。ぼくの言葉に、母親が息を呑むのが空気で伝わってきた。
「満」
 穏やかな声。いつもおろおろと、こちらを窺うようにしか話しかけてこない母親が、その時ばかりは凛として見えた。
「私、こんなことを言うのはもしかして人として失格かもしれないけれど……でも、あなたが無事で、本当に良かったと思っているの。ごめんなさい、本当に……」
 薄く隈のできた目元に浮かぶ涙をぬぐいながら、母親は続けた。今度はぼくが息を呑む番だった。
「海くんに感謝してもしきれない。どうか、二人とも無事でいてほしかった。痛い目や、辛い目に一切遭わずに、ただ元気で毎日笑っていてほしかった。海くんとあなたはちょっと違うタイプだったから、もしかしてずっと仲良く、なんていうのは難しかったかもしれないけれど、でも大人になってもたまに連絡を取り合って、お互いの結婚式には当たり前に招待し合うような、そんなお友達どうしになっていくんだろうなって、そう思っていたの」
「……うん、」
「や、やだ、本当にごめんなさい。本当に辛いのはきっと、あなたの方なのに」
「いや……あのさ、ぼく、ずっと言いたかったことが、あるんだけど、」
「え? な、なに? なんでも言ってちょうだい」
「ぼ……ぼくのせいで、」
 ぼくは言った。情けなく震える声を飲み込むように喉を上下させてから。
「ぼくのせいで、父さん、出て行っただろ。……ぼくが、余計なこと言ったから」
「え……」
「ごめんなさい」
 やっと言えた。ずっと言いたくて言いたくて、けれど色んな事が嫌で、気持ち悪くて、面倒くさくて、蓋をしていた言葉。
 本当はずっとわかっていた。母親は何も悪くなってこと。むしろ、ぼくが余計なことさえ言わなければ、平穏な主婦として今も生活できていたのに、それなのに――
「あ……あんたって子は!」
「え」
「満が謝ることは何も、一つも、これっぽっちもないわよ! むしろ私たち……あなたを、深く傷つけてしまって、」
「ちょ、ちょっと、」
「……あのねえ!」
 ひと際大きな声で一度そう区切り、
「お母さん、本当はずっと気づいていたのよ。そのうえで知らんふりしていたの」
 零れ落ちる涙をすかさずぬぐいながら母親はそう言った。真っ赤な目と鼻で、「はーあっ!」なんて大きなため息をつきながら。
 気づいていた? 
 そのうえで、知らんふりをしていた?
「何年あの人の妻をやっていたと思っているのよ。そんなこと全部お見通しよ。あんな年の離れた、若い女の子にうつつを抜かして……」
「ちょ、ちょっと待ってよ。わかっていたんなら、どうして……」
「綺麗な理由を言うのなら、今の生活が壊れて、家族がバラバラになるのが嫌だったから。……綺麗じゃない理由を言うのなら、見ないフリをして事が過ぎ去るのを、じっと待っていた方がラクだと思ったから」
 汚い理由、と言わないところがずるいよなあ、とぼくはちょっと思った。
「でも、このまま今回の一件をなんとか見ないふりして見過ごしても、きっと……今後の生活の中で、必ず歪が生まれていたと思う。だって私はもうあの人を、“妻子があるくせに若い女をそそのかす、どうしようもない奴”としか見ることができなかったもの。ねえ満、不思議ね、一度そうやって、まるでコンタクトをはめたみたいに相手のことを決めつけてみてしまうと、もう何も知らない頃のようには戻れないのよ」
「それじゃあ……結果的に、良かったって、思ってる?」
「まさか! 良かったなんて思わないわよ。だって離婚したのよ? それに、あなたに事の顛末を委ねるような形になって……最悪だったと思う。いえ、思う、なんて甘えたことは言わないわ。最悪でした」
「なんだよ、それ」
 ずる、と、セーターの上に羽織っていた上着が落ちてきた。
 なんだか頭が痛い。痛くて痛くて割れそうだ。顔をしかめるぼくに対して、どこかすっきりしたような顔の母親は「なにはともあれ、こうやって話ができて、本当によかった」と微笑んだ。
 ちょっと待ってくれよ、もう終わりみたいな言い方しちゃってさ。
 あんたら大人はそうやって、上手な言葉を選択して、自分の感情に上手に名前をつけて収束させられるのかもしれないけれど、ぼくは違う。ぼくは――。
「満」
 母親がぼくの名前を呼ぶ。
「あなたの気持ちを話してくれて、ありがとう」
 ――ああでも、もうこの人を悲しませてはいけないな。
 びっくりするほどはっきりと、そう思った。そして、そう思うと同時に目の前の母親のことが急に小さく、頼りなく見えた。こんなことははじめてだった。
 自分は病気かもしれない、と怯えて、けれどそれを誰にも相談できず一人で病院へ行き、一人で診断結果を聞き、そうして一人で安堵した母親。その間もぼくに対して変わらない態度で接していた母親。
 ぼくはなんだか、目の前のこの小さな母親が、誰にも付き添われず病院の待合室で俯いて座っている姿を思い浮かべて、じん、と胸の奥の方が熱くなった気がした。恐怖と安堵と、そして自分に対する情けなさがないまぜになって、なんだか泣きそうだった。
 そんな風に考えを巡らせながら、神妙な顔をして食べた煮魚の定食。食後に運ばれてきたあんみつを、母親は当たり前のように自分の手元に置き、
「え? だって満、いらないって言ったじゃない」
 と。不思議そうな顔をして言った。
 ……いらないとは、言っていないんだけどなあ。
 けれど、ぱくぱくもぐもぐと食事をたいらげる母親を見ていると、不思議とほっとした。
 
 
    6
 
 
 母親と話をした夜、ぼくは夕飯の配膳を手伝った。たったの二人しかいない食卓で、配膳、なんて大袈裟な言い方をするのも変かもしれないが。ご飯をよそったり、飲み物を運んだりしただけだったが、母親は嬉しそうだった。
 スマホを確認すると、水嶋くんからメッセージがきている。
『八時から漫才グランプリの決勝戦やるよ!』
 水嶋くん、漫才好きなんだ。いや、好きそうだな、確かに。
 頭の中に、ぽやんと気の抜けたあの笑顔を思い浮かべて、ふふ、と笑みがこぼれた。普段は母親と同じ空間に居るのが気まずくて、食事を食べたらすぐ自分の部屋へ引っ込んでいたが、水嶋くんとの共通の話題が欲しくて、ぼくはリビングにとどまった。
「お茶飲む?」
「あ、うん……」
「お母さんも一緒に見ていい?」
「うん」
 何か手伝うべきだろうか、とそわそわして振り向くと、母親は「いいのよ、座ってて」と笑った。少しして、熱いお茶の入ったマグカップを二つ持って机に置き、またキッチンへ戻っていった。
「ねえ、これなんだけど……」
「うわ、でか」
「この間買ったんだけど、どうにも食べきれる自信なくて……ずっとしまっていたの。開けちゃわない?」
 心なしかわくわくした表情の母親が持ってきたのは、大袋のポテトチップスだった。しあわせバター味、と間の抜けた黄色のフォントで書かれている。バター味はわかるとして、しあわせってなんだ?
 べつに断る理由もなかったので、ぼくは頷いた。母親は喜々として大袋のポテトチップスの封を開けた。
 お笑い番組なんて、久しぶりに見たな。ぼうっとしながら水嶋くんに返事を打つ。水嶋くんは案外スマホを使いこなしているようで(今時の中学生なら当たり前なのかもしれないが)、えらく返事が早かった。
「誰と連絡とっているの?」
「え……と、友達」
 そう断言することが、なんだか照れ臭いような気がして、ちょっと言いよどんでしまう。
 母親は一瞬驚いたように目を丸くさせた後、
「そう……よかったね」
 と、微笑んだ。
 ぼくの日常はそれからしばらく、驚くほど穏やかに過ぎていった。学校へ行けば水嶋くんに会える、というのは、ぼくの平凡な人生でこれ以上ないくらいの救いだった。
 それに、ずっと息苦しさしか感じていなかった自宅にいるのも、今はそんなに辛くない。
 けれどやはり、夜になるとあのプールサイドのことを思い出しては、水中に沈められたかのように呼吸が上手くできなくなってしまう。海は相変わらず居たり居なかったり、姿を現したと思えば木の葉のようにひらりと消えてしまったりを繰り返す。
 そうしてその日はやってきた。
 海が死んで、四十九日目の朝。
 白くてつるんとした壺が、土の中に埋まっていく。ぼくはその様子を、ただじっと見つめていた。おばさんが泣き叫びながら海の名前を呼んで崩れ落ちる。
 イコールで繋がらない。
 あの壺の中に納まる海の骨と、神出鬼没に現れてはぼくの頭を小突いてせせら笑う海が。ぼくの周りを飛び回る海も、いつかあの壺がぼくらの目に届かない地中に埋まるのと
 同じように、どこか遠くへ行ってしまうのだろうか。
「なあ満」
 おばさんの背中にそっと片手を添えながら、海が言った。色素の薄いさらさらの髪が風に揺れている。風は海に触れることができるのか、とぼくはぼんやり思った。
「母さんが泣いている。でも俺は、背中をさすってやれない」
「……ごめ、」
「ばか、やめろ」
 ハッとした。そうだ、忘れていた。海が最初にぼくに言った“決まり”を。
 こんなに簡単に忘れて、口を滑らせそうになるなんて、ぼくは最低なヤツだ。
「なんか、眠い。頭がぼうっとする」
「え」
 お寺の中で、正座して和尚さんの話を聞いている間、海はぼくの背中に自分の背中を預けてこんこんと眠りについた。
 確かに海が触れている背中からは、何の温度も伝わってこない。ただ何か、重いものがよりかかっている、という感覚だけがある。外から漏れる陽の光がやけに眩しく感じる。ぼくはじっと座って、背中に触れる感覚に神経を集中させた。
 気づけば、ほろりと涙が頬に伝って落ちて、慌ててそれをぬぐった。
 海に、申し訳ないと思っている。本心で、心の底からそう思う。
 けれど、それと同時に――どうか海に許してほしいと願う、あさましい自分がいることに気が付いた。
 幽霊の海がぼくの傍にいてくれることは、心強い。ぼくのことを心配してこの世界に残ってくれているというのなら、心底ありがたいと、そう思う。
 けれど同時に、近頃ぼくは、海を見ると辛くなる。
 海が死んだというのに、のうのうと生きている自分が、ものすごく汚い奴みたいに思えたり、水嶋くんと話して笑い合っている時、視界の隅で海が浮いているのを見ると、浮かべていた笑みを慌てて引っ込めたりしてしまう。
 与えられるべき罰で、受けるべき制裁だといわれれば、確かにそうだとぼくも思う。
 けれどぼくは――海を見て辛くなる、ということが、そのこと自体が、たまらなく苦しいのだ。上手く言えないけれど、ぼくの中で海は、思い出すと辛くなるような存在じゃなくて――
「……ごめんな」
「え?」
 振り向くと、そこにはもう、海はいなかった。さっきまで寄りかかられていた背中が、わずかにじんと熱を持っている。
「満くん、ちょっといいかしら」
「あ、は、はい」
 ぼうっと虚空を見つめていたぼくに、瞳に涙をたくさん浮かべたおばさんが声をかけてきた。おじさんの姿がない。きょろりと周囲を見回すと、居心地悪そうに端の方で座っていた。
 おばさんはぼくを部屋の外に連れ出して、お寺の、薄暗い廊下の行き止まりで立ち止まった。
「まず、今日はありがとう。海もきっと、喜んでいるわ」
「いえ、そんな……」
「村岡くんたちのことだけど」
 おばさんの声は真剣だった。ぼくはその名前を聞いた時、体の中心に刀を突きつけられたような気持ちになった。
「五人とも、あなたに謝りたいって言っているの。過ちを犯してしまったことを、反省しているって」
「え」
「でも私、勝手に断ってしまったの、ごめんなさい」
 ぼくはびっくりしておばさんの目を見た。どこか虚ろな、大きな瞳。何かきっかけさえあれば、今すぐにでも蹲って泣き出してしまいそうだ。
「もしそんなことをさせて、更生の余地がある、なんて思われでもしたら? 経過観察処分にされてしまうのよ。そんなの、耐えられるわけがないじゃない? だから、だから私……」
 おばさんは、けほっ、とせき込んだ。何かよくないものを吐き出すみたいに。
「海しかいなかったのよ、私には、もうずっと」
 ぼくはその時、気づいてしまった。おばさんの左手の薬指に、いつも誇らしげに輝いていた指輪が外されている。
 いや、まさか、そんな。だって海の家はいつも仲が良さそうで、幸せそうで、ぼくにはそれが羨ましくて――。
「……とにかく、そういうことだから。満くん、あなたがもし、あの子たちと話をしたいと思っていたようならごめんなさい」
「あ、いや、ぼくは……」
「さあ、もう戻らないと」
 そう言って、真っ赤な目で無理やり笑ってから、おばさんは足早に去っていった。
 薄暗い廊下の隅で、ぼくはしばらく茫然と立ち尽くした。一歩でも動いたら、なんとかバランスを保って生きているこの世界の足元が崩れてしまうような気がした。
「うう……うううううっ」
 気分が悪くなって蹲る。
 少し前に、須賀さんと話した日に考えたことが、再び頭に浮き上がる。
 ――ぼくは、海の人生を奪ってしまっただけじゃない。
 ――他の人の人生からも、海を奪ってしまったんだ。
「……最低だ」
 
 
 翌日、ぼくは風邪を引いて寝込んだ。
 なんだか急に、色んなことに対する疲れがドッと押し寄せてきて、頭がぼんやりと働かなくなった。頬が熱くて、そのくせ寒いような気がして、熱を測ると三十七度九分という中々の高熱をだしていたので驚いた。
「満、お母さん仕事に行ってくるけど……本当に一人で大丈夫?」
「平気だよ、小さい子じゃないんだし」
「そう……? なるべく早く帰って来るかね。おかゆ、お鍋に入っているからちゃんと食べて、薬も飲むのよ。水分もちゃんと摂ってね。それから……」
「うん、うん、わかったから」
 不安そうな母親を半ば無理やり送り出して、ぼくはよろよろと自室に引っ込んだ。
 何も食べる気になれない。お腹の奥底の方で何かがぐるぐる渦巻いているような気がする。気持ちが悪くて、心細いような気持ちになって、けれどその気怠さが今のぼくには心地よくもあった。
 昨日の、おばさんの顔が頭から離れない。大粒の涙を両目に浮かべて、それでも真っすぐにぼくを見ていた。そして、何の装飾品もつけられていない、まっさらな左手。
 たまたま外していただけかもしれない。そうだ、うちの両親だって、何もそんなに四六時中指輪をはめていたわけじゃなかった。それに、海の両親はぼくの前ではいつも仲が良さそうにしていたし……。
 けれど、昨日のおじさんの、あのなんともいえない居心地の悪そうな顔を思い出すと、なんだか色んなものが急にリアルに思えてくる。
 誰もおじさんに話しかけようとしていなかった。昔はそんなことなかったのに。海の家は親戚が多くて、なにか行事があるごとに賑やかにしていた。そうだ、そういえば近頃はそういう賑やかな声が神崎家から聞こえてくることはめっきりなくなっていた。これはどういうことだろう? どうしてぼくはそういうことに、引っかからなかったのだろう。
「……泣いてんのか?」
 枕元に気配がした。けれど、瞼が重くてうまく持ち上がらない。
 泣いてなんかない、これはなんか、熱の時の生理現象だ。どういう仕組みかは知らないけど。そう言い返したいのに言葉が出ない。
 額にひんやりと冷たい感覚が触れる。なんともいえない、不思議な寒気がぼくを包んだ。冷たくて気持ちいい。
「なあ、四十九日法要は、死んだ人が、極楽浄土に行けるかどうかの裁きを行う日なんだ」
 海は言った。
「俺はどこにも行けないな」
 どうして? 
 ぼくはのろのろと瞼を開いた。そこにはやはり、海が居た。跪いて、ぼくの顔をそっと覗き込んでいる。海はぼくと目が合うと、困ったようにちょっと笑った。
「お前、寝顔不細工だなあ」
「うるさいな……ねえ、海。聞きたいことが、あるんだけど」
「父さんと母さんならもう駄目だ。まだ籍はいれたままだが、いずれ別れるだろう。あの家も、売りに出すってさ」
 すらすらと、まるで用意されていた台本を読むみたいに、海は言った。
 もう駄目? 別れる? 売りに出す?
「べつにそんな、珍しいことじゃないだろ。今じゃ夫婦の三組に一組は離婚してるんだ。現にお前の家だってそうだったろ」
「そ、そんな……だって、あんなに仲が良さそうだったのに……!」
「そう見えていたんなら、父さんの思惑通りだな」
 がん、と思い切り後頭部を殴られたような気分になって、言いかけていた言葉が逃げていってしまったみたいに何も言えなくなってしまう。
 海はなんとでもないようにそう言った。それどころか、こんなに大事な話をしているのに、顔色ひとつ変えない。
「目に見えているものだけが全てじゃないんだ、満」
 なにそれ、どういうこと?
 黙り込むぼくの目を、海はじっと見つめた。あの時と同じ目をしている。いつか、神崎家の玄関の前で茫然と立ち尽くしていた時と同じ、心も感情も何もない、空っぽみたいな目。
 幽霊みたいだ。
 ぼくは率直に、そう思った。そして、海のことをはじめて怖いと思った。
 ぼくのそんな恐れを察したのか、海はすぐにいつもの調子で「なんてな。星の王子様みたいなこと言っちまった」と笑った。
「り、理由を」
 ぼくは言った。情けなく声が震えている。
「理由を、教えてよ。だって、ぼくは……」
「……聞いたって面白くもなんともないぞ」
「面白くないなんて、そんなの、当たり前じゃないか! ぼくが言いたいのは、海はぼくに、そんなこと一度だって言わなかったし、」
「わかった、わかったから熱くなるな」
 むきになって体を起こすぼくを、海はいなしてやれやれと溜息をついた。
「……聞いてもお前、傷ついたりするなよ。お前が傷つく必要は一個だってないんだから」
 そんな風に、やけに優しい前置きをしてから、海は口を開いた。
「父さんは、その、あー……ちょっと気性が荒くて。昔はそんなことなかったんだが、何年か前から、母さんに手を上げることが多くなったんだ。それも、俺が学校へ行っている間とか、寝ている隙に。俺に対しては良い父親ぶるんだよ。なんでも買ってくれたし、色んなところへ連れて行ってくれようとしたし……。俺は最初、両親の不穏な空気とか、気づかなかった。本当に全然気づかなかったんだ。でもさ、」
 海は言った。俯くと、男子にしてはちょっと長い髪が頬に垂れる。
「小学校の卒業式、お前覚えてるか? 母さん張り切ってたくさん写真を撮ってさ、でも、あの人機械音痴だから、ちゃんと保存できていなくて……」
 そんなこともあったな。ぼくはぼんやりと過去を思い浮かべた。
 卒業式の夜、海のお母さんがうちに謝りにきた。満くんが写った写真も保存できていなくて、後日差し上げますとお約束したのに、申し訳ありません……。真っ青な顔して深々頭を下げるおばさんに、母親が慌てて「そんな、大丈夫ですよ!」とフォローしていた。
 ぼくはそれを見て、おばさんは大袈裟な人だなあ、と不思議に思ったんだ。
「あの夜、俺、聞いてしまったんだ。顔を真っ赤にして息を荒げる父さんが、母さんを口汚く罵っているのを。母さんは泣いていた。でも俺、二人のそんな様子、見たことなくて。怖くて、動けなくてさ。父さんはべつに、母さんが写真をちゃんと撮れていないことに怒っていたんじゃなくて……なんか、不思議だけど、怒鳴る理由を見つけて喜んでいるように見えたんだ。……なあ満、」
 海は言った。
「父親の、そういう顔を見るのは、中々辛いもんだぜ」
 海の顔が泣き出してしまいそうに見えたので、ぼくは何も言えなくなってしまった。こんな顔ははじめて見た。いつも飄々としていて、余裕そうで、それでいてたくさんの人に囲まれていた海。
 海が幽霊じゃなかったらぼくはきっと、励ますように手を握っていたと思う。けれどできない。海に向かって手を伸ばす。相変わらずぼくの手は宙を掻く。海は、自分の体をするりと通り抜けたぼくの手を目で追いかけて、諦めるようにため息をつくと、
「まあ、とにかく、そんなかんじだ。俺が死んで、あの二人は一緒に居る理由を失ったのさ。枷が外れたと言ってもいいくらいだ」
 と、話を締めくくった。
 それじゃまるで、海が枷だったみたいじゃないか。
 どうしてそんな悲しいことを言うんだ。そう言いたいけれど言えなかった。
 海は多分、ずっとそう思ってきたんだ。自分のことを、枷だって。
 それは、どんなに辛いことだろう?
「さあ、もう寝ろよ。早くよくなれ。水嶋とかいう奴が心配してるぞ。それに、おばさんだって、お前が良くならないと仕事に手がつかない」
「待ってよ、ぼくはまだ、」
「寝ろ」
 そう命令されると、途端体が重くて、だるくて、眠くてしょうがなくなって、瞼が自然と落ちてきた。嫌だな、寝たくない、心細い。こんな気持ちのまま眠りについたって、悪夢を見るに決まっている。
 それに、目が醒めたら海がいなくなってしまっている気がして、それがたまらなく怖い。
 けれど、ぼくのそんな恐れをやすやすと見抜くように冷たい手が伸びて、そっと額に触れてきた。ひんやりしていて心地良い。
 案の定ぼくは夢を見た。良い夢とも、悪い夢ともいえない、不思議な夢だった。
 そこは、たくさんの光が手に届かないほど遠くに輝く真っ暗闇だった。遠くに、宝石のような煌めきを放つ碧い惑星が見える。
 そこに一匹の犬が放り出されて、炎を上げて灰になったかと思えば、灰の中から子犬が産まれる。子犬は、どこか窮屈な場所からやっと解放されて喜ぶように、千切れんばかりに尻尾を振って、大はしゃぎで宙を駆けていった。
 遠ざかる犬の背中を、ぼくはただぼうっと見つめていた。
 
 
   7
 
 
 風邪が完治して、大事をとって数日休んでいた学校へ復帰すると、「うおっ、おはよう。もういいのか?」とクラスメートに声をかけられた。こんなこと、今までになかったのでぼくは驚いて、しどろもどろに「あ、うん、まあ」と答えた。
「川野くん、おはよー! 体調どう?」
「もう全然いいよ、ありがとう」
「そっかあ。元気になってよかったよ。川野くんが居ない間、俺、なんか心細くてさあ」
「なんだそれ」
 そっけなくそう返したものの、水嶋くんの言葉は数日間沈んでいたぼくの心を喜ばせた。
 何の変哲もない日常。朝が来れば目を覚まし、朝ごはんを食べたり食べなかったりしてから学校へ通い、授業を受け、家に帰る。
 この途方もない日々は、いったいどこへ向かっているんだろう?
「あ、川野くん」
 昼休み、トイレに行った帰りで須賀さんに声をかけられた。
 須賀さんは一緒に居た友達に「先戻ってて」と一言言って、ぼくに向き直る。
「風邪引いていたんでしょ、大丈夫?」
「え、あ、うん……どうして知っているの?」
「あんた、廊下側の席でしょ。居ないとすぐわかるわよ」
 当たり前みたいにそう言って、須賀さんはにやっと笑った。髪が少し伸びて、前に話した時よりお姉さんぽく見える。
「最近どう?」
「どう、って」
「あんた、色々背負い込んでそうだからさ。……まあ、あたしが言うのもなんだけど」
 確かに。以前、ぼくに向かって泣きわめきながら「あんたのせいで海は死んだ」と迫ってきた須賀さん。あの時はあんなに取り乱していたのに、今はすっかり落ち着いている。
 時間が流れたんだ、ぼくらの間で、着実に。
 時間が流れれば考えは変わるし、髪だって伸びるし、ぼくらは成長期だから背だってぐんぐん伸びる。けれど海にはそれがない。ぼくは、耳の下あたりまで伸びて、ショートボブくらいになった須賀さんの髪を見ながら、ぼんやりとそう思った。
「あのね、あんたのせいじゃないわよ、その……海が死んだの」
「え……」
「だって、あんたも被害者でしょう。一歩間違えば、あんただって死んでいたのよ。だから、その……何か思い詰めているようなら……」
 もごもごと、言いづらそうに須賀さんは俯いた。上手い言葉が見つからないのだろう。けれどぼくには彼女の言いたいことがわかる。ぼくを、励まそうとしてくれているのだ。
「とにかく! 海はあんたが自分のことでずうっと思い詰めたりなんてしたら、悲しむと思うわよ」
「……うん、そうだね」
 悲しむ、とはまた違うかもしれないが。でも、須賀さんの言うことは的を射ている。
「彩音、なに話してるんだよ」
「あ、ごめんマサ!」
 ひょこっ、と教室の扉から、坊主頭の男子が顔を覗かせて、須賀さんに向かって声をかけたかと思うと、ぼくのことをじろりと睨みつけた。
 ……彩音? マサ?
「す、須賀さん、彼は」
「え? あたしの彼氏」
「彼氏!?」
「そうよ、何驚いてんの? ……言っとくけど、あたしは海が死んだからって、そのことに囚われていつまでもふさぎ込んだりはしない。あんたから見たら薄情に見えるかもしれないけど、でも……これがあたしにとっての弔いでもあるの」
 須賀さんはそう言って、
「海のこと、大好きだったから、大好きだったっていう気持ちを大事にしたいの。だからあたし、もう暗い気持ちでいるのをやめたの」
 と、微笑んだ。
 何か、抱えきれないものを自分の中で昇華させて、その末にえいやっ、と起き上がったんだ。須賀さんの笑みはそれくらいの気迫のようなものがあった。
 凄い人だ。
 最初は、海がどうして須賀さんと付き合っていたのかよくわからなかった。確かに顔は可愛いけど、でも、騒がしくて、正直苦手だと思った。
 でも須賀さんは、騒がしいだけじゃない。芯の強い、とびきり魅力的な女の子だった。
 こうして近づいてみないときっと、そういうことをぼくはずっとわからないままだった。一人の女の子の――いや、同級生の魅力に気づかず、先入観で決めつける。それはきっと、とてももったいないことだ。
 海はショックを受けるだろうか? それとも、とっくに知っているだろうか?
 そんなことを紋々と考えていたら、その日の授業はいつの間にか終わっていた。いつものように、水嶋くんと一緒に途中まで一緒に帰る。
「ねえ水嶋くん、あのさ」
「ん?」
「その……ぼくと、海……あ、いや、神崎のこと、クラスメートに聞いたんだろ」
「あー、うん」
「それなのに、どうしてぼくに話しかけてくれたの? 自分で言うのもなんだけど、ぼく、クラスで浮いていたし……ぼくなんかと仲良くしたら、自分まで浮いちゃうとか、思わなかったの?」
 水嶋くんは、ぴた、と足を止めて、まじまじぼくを見た。それから、うーん、とちょっと考えるようにした後、
「あのさ、俺、実は前の学校でいじめられていたんだ」
 と、なんとでもないような顔で言った。
 は? いじめ?
 驚いて俯いていた顔をあげると、水嶋くんはいつも通り穏やかな笑みを浮かべている。身長差が二十五センチもあるので、自然と見下ろされる形になる。けれど全然高圧的な感じがしない。
「い、いじめが原因で転校してきたの?」
「え? あーいや、違うよ。親は俺がそういう目に遭っているって、全然知らなかったし。ていうか、多分いじめなんて大袈裟な言葉を使うまででもなくて……うーん、なんていうのかな」
 そしてそのまま歩き出す。穏やかな河川敷を、ぼくらは歩いた。冬の川がうっすら夕陽に照らされて、鈍く光っている。
「俺、いじられキャラってやつだったんだよ。嫌だとかやめてとか、そうやって拒絶できなかった自分も悪かったんだけどさ。こんな図体だから、よく目立つし、それを理由にからかわれたり、嫌だなって思う言葉をかけられることなんてしょっちゅうだった。でも俺、言い返せないんだ。心底面白いとでもいうように、一緒に笑うことしかできなかった」
 水嶋くんは言った。
「場をしらけさせるのがたまらなく怖かったんだ。みんなが笑っている、楽しんでいる、だったら俺も笑わなきゃ、楽しまなきゃ、って。そうやって無理していると、なんか、段々苦しくなってきてさ……現実世界がたまらなく嫌で、よく本を読んだ」
 はは、と小さく笑って頬を掻く水嶋くん。ぼくは何も言えなくなって、黙って彼の大きな背中を見つめた。
「親父の仕事の都合で転校することが決まった時、すごくホッとしたんだ。それで、新しい学校では静かに暮らそうと決めた。友達なんて作れなくたっていいじゃないか、って。それで、転校初日、君が俺の隣の席にいて、騒がしい教室の片隅で、黙々と本を読んでいるのを見て……あはは! 友達なんて作れなくてもいい、なんて思っていたのに、思ったんだよ、俺。この子と友達になりたいなあ、って」
「……なんだそれ」
「みんなの世界に入れないから、自分の世界にしがみつくしかない、って、そう言ったよね、川野くん」
 ぼくは頷いた。
「あのさ、みんなの世界、なんていうものは、どこにもないんだと俺は思うよ。ただみんな、そういうものがあるって、錯覚している。そして、その目に見えない枠のようなものからはみ出さないように、必死になってる。俺もそうだった。でも――自分の世界を持っている奴って中々いない。俺はね、何も君と無理して話を合わせたり、気が合わないと思うのに一人が嫌で仕方なく一緒にいたりする関係になりたいんじゃないんだ。そういうのはもうじゅうぶん。俺は、君と、友達になりたかったんだよ」
 水嶋くんの言葉は真っすぐで、まっさらだった。こんな風に真正面から、友達になりたかった、なんて言われたことなんてなくて、ぼくはなんだか胸の奥がじんと熱くなって、黙り込んでしまう。
 ぼくが何も言えないでいると、水嶋くんは、
「な、なんて、ちょっとヘンだよな、俺」
 と、照れを隠して誤魔化すように笑った。
「うん、ちょっとヘンかも」
 だからぼくも笑った。笑いながら、水嶋くんと友達になれて本当によかった、と思った。
 ぼくらは成長する。背が伸びたり、髪が伸びたり、顔つきや言葉遣いが変わったり、そうして変化しながら日々を過ごす。
 ぼくはもう、大丈夫だ。
 ねえ海、本当だよ。
 
 
   8
 
 
 その日の晩、久しぶりに岬さんから連絡がきた。
 連絡先を交換してから、週に一、二回のペースでメッセージのやり取りをしていたが、ここ最近はそれもぱたりと途絶えていたのだ。
『お父さんに殴られた』
『お母さんは私をいらない子だと思ってる』
『毎日アルバイトばかりで寝る暇もなくて大変。』
 彼女の生活は相変わらず、昼ドラもびっくりなほど壮絶なようだった。ぼくに何かできることはないだろうか、と考えては、中学生で、アルバイトすらできない自分に何ができる? と非力な自分に嫌気がさす。その繰り返しだった。
 けれどその日は、いつもと違った。流石に黙って見過ごすわけにもいかず、ぼくは家を飛び出した。
『死にたい』
 そのメッセージを見た途端、ぼくの頭の中にはあのプールサイドが浮かび上がった。
 藍色のアウターを大急ぎで羽織って、彼女の居場所なんて全然わからないくせに辺りを探しまわる。コンビニ、その近くの細道、一緒にジュースを飲んだ公園、駅前の賑やかな広場……。
 思い詰めた彼女が、本当に身を投げてしまったらどうしよう?
 ぼくはもうほとんどパニック状態でそう考えた。
 その時、目の前を見知った顔が横切った。
 気の強そうな、まだ若い男。派手な茶髪で、耳にはいくつもピアスを開けている。
 ――岬さんの、お父さんだ。
 ぼくは、破けそうなほど早く鳴る心臓を押さえつけるように深呼吸をして、岬さんのお父さんの後ろをつけた。そうする他、彼女に近づく手立てはない。
 真っ赤な上着を羽織った背中を、見失わないように追いかける。どんどん住宅街に入って行く。このまま、家の場所をつきとめることができれば――
「オイ! お前、何している!」
「え、ひ、ひいっ!」
 曲がり角を曲がったところで、急に胸ぐらを掴んで怒鳴られて、ぼくは怯んだ。
 岬さんのお父さんは、顔を般若のように歪ませてぼくを見た。それから、「……あ? お前、この間のクソガキ!」と声を荒げる。
 恐ろしくて腰が抜けてしまいそうだった。けれど、言わなくちゃ。聞かなくちゃ。岬さんのことを。
「あ、あんたは最低だ!」
「……はあ?」
「じ、自分の娘に手を上げて、ロクにお金も渡さずに放置している! 岬さんが、どれだけ、どれだけ辛い思いをしていたか……!」
「……おい、岬が俺の娘だと?」
「そうだ! それとも、岬さんは娘なんかじゃないって、そう言うのか!?」
 こんなに大きな声、はじめて出した。
 岬さんのお父さんは、驚いたような顔をした後、すぐにハッとして、
「俺に娘はいねえ! 岬は俺の妹だ!」
 と、言った。
 目の前の男――岬さんの、兄だと名乗ったその人は、心底怒った、というように顔を真っ赤にさせて喚いている。「俺はまだ二十七だ!」「女子高生の娘がいるように見えんのか!?」。そのどの言葉も、ぼくの耳にはロクに入ってこない。
 お兄さん?
 でも、岬さんは前に、この人のことをお父さんだって――
「……岬に騙されたんだよ、お前」
「は……」
「虚言癖って知ってるか? あいつの話すことの九割はでたらめさ」
 ぼくは、ぽかん、と口を開いて、何も言えなくなってしまった。
 虚言癖? なにそれ? 岬さんが? どうして?
「この間も、嘘ばっかついて学校でトラブってよ。父さんと母さんが学校に呼ばれて大変だったんだ。いい加減にしろ、って説教してたところに、お前がきた」
「……そんな、まさか、だって、」
「怪我もしてねえのに頬にでかい絆創膏なんて貼って……俺には到底理解できないね。あいつがなにをしたいのか」
 パッ、とようやく体が解放されて、冷たいコンクリートにしりもちをついた。
 ――息苦しかったねえ!
 いつかぼくに、そう寄り添ってくれた時の笑顔を思い浮かべる。そうだ、ぼくが岬さんに話をすることができたのは、岬さんも同じ傷を抱えていると思ったからだ。
「……乱暴なことして悪かったな。お前、うちの妹にもう関わんねえほうがいいと思うぞ」
 岬さんのお兄さんは顔を伏せて、
「あいつには、本当のことなんて一個もないんだからよ」
 と、吐き捨てるようにそう言った。
 ぼくは頭の中で、岬さんのあの妙に落ち着いた、それでいてどこか寂しそうな横顔を思い浮かべた。
 ぼくのことを、ずっと騙していた? 岬さんが?
 確証が欲しくて、ぼくは思い切って岬さんにメッセージを送ってみた。
 いつもアルバイトや弟の世話で忙しいはずなのに、返事はすぐに返ってきた――いや、そんなまさか。嫌な予感はひしひしと僕の胸に渦巻いて離れない。
『今から会えますか?』
『うん、大丈夫』
 十二月の夜。冷たい風が容赦なくぼくの体を冷やす。
 岬さんからメッセージがくると嬉しかった。同時にいつも心配だった。けれど、そのやりとりの全てが嘘かもしれないなんて、そんなの――ぼくにはあまりに衝撃すぎる。
 以前二人でジュースを飲んだ公園に向かう。岬さんはまだ来ていない。ぼくはなんだかそわそわと落ち着かなくて、空を見上げた。今日は新月だ。おまけに曇っていて、月どころか星も全然見えない。
 祈るような気持ちで俯いていると、足音が近づいてきた。どくん、どくん、と心臓が鳴る。
「やあ、こんばんは」
「……こんばは」
「寒いねえ。そんな薄着で大丈夫?」
 飄々とした態度の岬さん。相変わらず頬に絆創膏が貼られている。
 もし、ぼくが今、彼女の頬に手を伸ばして、隠された頬を暴いたのなら――
 いったい、どんな顔をするんだろう?
「あの、その、」
 冷たいブランコに腰かけながら、ぼくはしどろもどろに口を開いた。体温がぐんぐん奪われて行って、指先がとんでもないくらい冷たい。
「……メッセージ、見ました。だ、大丈夫ですか?」
 結局、踏み込む勇気がなくて、こんなことしか言えない。
 岬さんは「うん、心配かけてごめんね」とにっこり笑った。
「お父さんの機嫌がすごい悪くて……お母さんも助けてくれないし、私は弟を守るので精いっぱいで。誰も私のことは守ってくれないの。そういうことが、なんか急に、しんどくなっちゃってさ」
「そう、ですか。あの……弟さんって、今いくつなんですか?」
「え? あー……小3、かな」
「結構、離れてますね……」
 もちろん一概には言えないが、本当に仲の悪い夫婦の間に、そんなに年の離れた姉と弟ができたりするものだろうか?
 ぼくはもう何も聞きたくなかった。両手で耳をふさぎたい。放たれる言葉のひとつひとつが、とても薄っぺらく感じて、そういうものを聞いているのが辛かった。
 岬さんは尚も話し続けた。お父さんの暴力がどれだけ酷いか。お母さんがどれだけ冷たいか。アルバイトがどれだけ大変か。ぼくは相槌を打つことも、頷いたりすることもなく、ただ彼女の話に耳を傾けた。こんなんじゃ、聞き相手はぼくじゃなくて、自販機だって成り立つ。
 そんな風に考えていると、岬さんは最後にぽつん、とこう言った。
「私、何で生まれてきたんだろう。もうしんどくて……死んじゃいたい」
 ひゅ、と自分の喉が鳴ったのがわかった。
 死んじゃいたい? 本当に?
 ぐらぐらと、お腹の底でマグマでも煮立っているみたいに体が熱い。さっきまでの寒さがウソみたいだ。ぼくはつい先日まであんなに魅力的に思えていた目の前の彼女のことが、急に嫌になってきた。
 自分より年上で、壮絶な環境にいて、それでもにこにこ笑っている、ちょっと不思議なお姉さん。
 ぼくのなかで作り上げられていた、岬さんへのそんな淡いイメージは、がらがらと音をたてて崩れ落ちてしまった。
「死んじゃいたいって、本当にそう思いますか」
 ぼくは言った。声は低く唸るように響いて、自分の声なのに驚いた。
「うん、思うよ」
「……どうしてそんな酷いことが言えるんだ」
「え」
「あなたのこと、信じていたのに」
 怒りたいのに怒れない。
 今までの人生で、怒るということをしてこなかったから、やり方がわからないんだ。
 飛び出した言葉はあまりに情けない上に、捨てられた子犬みたいに頼りなく響いた。それでも、後ろめたいことのある岬さんには効果てきめんだったようで、震える声で「な、なにを言っているの?」とぼくに言った。お互いに、あまりに情けない声だった。
「あなたが、自分のことを話してくれるのが嬉しかった。寄り添ってくれているんだって、そう思った。辛い境遇にいるのに、いつもにこにこしていて、すごいと思った。でも……あなたはぼくのことを騙したんだ」
 岬さんは、目を大きく開いて、真っ青な顔で茫然と僕を見た。
 情けない顔。目の前にいるのは、本当に岬さんなのか? 叱られた子供みたいな幼い表情で、口を閉ざしている。
「べつに、騙されたことに対して、怒っているんじゃない。いや、やっぱりちょっとはむかつくけど……でも、そうじゃなくて、そんなことより、ぼくは今、悲しいんだ、すごく」
 ぼくにくれた言葉の、どこまでが本当で、どこからが嘘だったのだろう?
 そういうことを考えだすと空しくなる。そして、ついさっきお兄さんに言われた言葉を思い出す――岬さんには、本当のことなんて、一つもない。
「み、満くん、言っている意味がわかんないよ」
 震える声。泣き出してしまいそうな表情。そんな顔をされると、なんだかぼくがいじめているような気持ちになるじゃないか。
「あ、あなたのお兄さんに会ったんだ。あなたが、虚言癖だって、そう言っていた」
 ぼくが言うと、岬さんはまた目を丸くさせて、少しずつ、少しずつ、崩れ落ちるように俯いていった。長い髪が頬に垂れる。肩が小刻みに震えている。そういうのを横目で見ながらぼくは、可哀想な人だ、と思った。
「なんで……なんでよお!」
 岬さんはみっともなく涙を流して、両手で顔を覆いながら、そう言った。
 もう一秒だってこの空間に居たくない。けれど、こんな暗い場所に女の子を一人で置いていくわけにもいかない。ぼくは黙って、自分のつま先をじっと見つめた。
 寒い。寒くて寒くて、凍えそうだ。
 しばらくすると岬さんは、幽霊のようにゆらりと立ち上がって、尚もブランコに座り続けるぼくに正面から向き直り、
「――ごめんなさい」
 と、頭を下げた。
 長い髪が一直線に地面に向かって垂れて、ホラー映画に出てくる幽霊のように思える。
 夜の公園。月も星も見えない、ぼくら以外に人もいない。ぼくはなんだか、妙に冷静になって、「聞いてもいいですか」と口を開いた。
「ぼくのこと、騙してやろうって思いましたか?」
 岬さんは首を横に振って否定する
「じゃあ、あなたの言葉をいちいち信じるぼくを見て、愉快でした?」
 否定する。
「ぼくに同情して、嘘をついたんですか?」
 否定する。
「じゃあ……じゃあなんなんだよ!」
「特別になりたかったの!」
 勢いよく顔を上げた岬さんは、思わず腰が引けるほど怖い顔をしていた。眉根を寄せて、目に涙をいっぱいためて、鼻と頬を真っ赤にさせている。頬に貼られた真新しい絆創膏が白々しい。
 特別になりたかった? 
 そんな、それだけの理由で?
 目を丸くするぼくのことを、いっそ睨むように鋭く射貫いて「くだらないって、そう思っているでしょう」と喚いた。
「でも私本気なのよ、命がけでそう思っていたの。……あなたが、私の手を引いて連れ出してくれた時、私本当に嬉しかった。ようやく特別になれるって、そう思ったの」
 そう言うと、火がついたようにわっと泣き出した。
「私ね、止まらないの。駄目だってわかっているのに、全然止められないの。可哀想な子を演じればみんなが同情してくれる。それに、物語のヒロインはいつも悲劇を背負っているでしょう? だから私も背負いたかったの。辛い境遇にいる陰のある女の子になりたかった……本気で、なりたかったの」
「……なんだよ、それ」
「もう全然止められないの。一度嘘をつくと、その嘘がバレないようにするためにまた嘘をつくしかなくなるの。そうして何層も何層も嘘が重なっていって、気づいた時には取り返しのつかないことになっているの。私……私、ごめんなさい。それでも、あなたのことを傷つけるつもりはなかったの。本当に、これっぽっちも、なかったの」
 結果的にぼくは傷ついたんだから、そんなこと今更言われても白々しいだけだ。
 けれどもし、あの日、岬さんがぼくを見つけてくれなかったら? 
 満くん、どうしたの? ってぼくを呼び止めて、ジュースを奢ってくれて、そして――
「……わかった、あんたも息苦しかったんだ」
 ぼくは言った。
「息苦しさを紛らわせるために、あんたがとった手段が嘘をつくことだったんだ。……もういいよ、ぼくこそ、責めるようなこと言って、ごめんなさい」
「え……わ、私のこと……許してくれるの?」
「……岬さんがぼくにかけた言葉が、例え嘘ばかりだったとしても、僕があんたの言葉に救われたってことは事実だから」
「救う……?」
「覚えてないの?」
 ふふ、とぼくは笑った。寒くて、顔の筋肉が上手く動かなくて、間抜けな笑みだったかもしれない。
「あのさ、岬さん。それじゃあ正直に答えてほしいんだけど」
「う、うん。何?」
「暴力を振るうお父さんも、ホストにお金を貢いで岬さんに見向きもしないお母さんも、まだ幼くて岬さんが守ってやらないといけない、手がかかる弟も――存在しないってことでいいの?」
 ぼくの言葉に、ごしごし、とMA―1の袖で目元をぬぐう岬さん。次に顔を上げた時、目元が可哀想なくらい真っ赤になっていて、けれどそんなことは全然気にならないくらい真っすぐな目をしていた。
「お父さんは旅行会社の支店長で、いつもにこにこしていてすごく穏やかな人。最近髪が薄くなってきたことを気にしているの。お母さんは郵便局のパートをしていて、毎朝早くに出勤して、昼くらいには帰ってくる。最近通販にはまりだして、よくわかんない便利グッズを買い込んでは三日で飽きて放置してる。弟なんていない。いるのは年の離れた兄だけ。兄は、見た目も言動も乱暴だけど……でも私が問題を起こすと、いつも一番に飛んできて叱りつけてくれる。今年結婚して、お嫁さんのお腹の中には赤ちゃんがいる」
「最高じゃんかよ!」
 ぼくは言った。大きな声で、心から、そう叫んだ。
 岬さんは、ふふ、と恥じたように笑って、
「そうでしょ」
 と、短く言った。
「大事にしなよ、岬さん。失ってからじゃ遅いんだ。ぼくは、そういうことをよく知ってるから」
「うん……うん、」
「話してくれて、ありがとう」
 ぼくがそう言うと、岬さんは潤んだ瞳で花が咲いたように笑った。
 悲劇のヒロインなんかじゃなくて、いいじゃないか。そのままの岬さんが一番素敵だ。
 もしかしてこれからも彼女の癖は抜けないかもしれない。けれど、彼女自身の葛藤を、そして胸の奥底にある平凡すぎるくらいの願いを曝け出したということは、とても大きなことだったんじゃないかとぼくは思う。
「ねえ満くん、お願いがあるんだけど」
「え?」
「私のこと、抱きしめてくれないかな」
 そのお願いに、一瞬ドキリとしたが、ぼくを見つめる目があまりに真っすぐだったので、無粋な気持ちは吹き飛んだ。無言で頷いて両腕を伸ばす。岬さんはそっと、何かを確かめるようにぼくの胴に腕を回した。
 暖かい。
 ――この人は、生きているんだ。
「……ぼくの、友達が」
「うん」
「死んじゃった話、しましたよね」
「……うん」
「信じられないかもしれないけど、そいつ、幽霊になってぼくの周りをさ迷っているんです」
 言うと、腕のなかのぬくもりはぴくりと肩を揺らした。数秒の沈黙の後、
「信じるよ」
 と、恐ろしいほど真剣な声が返ってきた。
「そいつは、ぼくのことが心配だから、ぼくが“清く正しい”生活をしているのを見届けるまでは成仏できない、って、そう言ったんです」
「……今もいるの? ここに」
「いえ、今はいません。四六時中一緒に居る訳じゃなくて……でもぼくが困ったときとか、心細い時とかに現れてくれる」
「ふうん……」
「そいつが、ある日ぼくに枕元で言ったんです。宇宙に一匹で放り出されて死んだ犬の名前を、知っているか、って」
 ぼくは言った。
「あいつは……海は、いつも意味のわからないことばかりするんだ。ぼくのことを、あのプールサイドで助けたのだってそうだ。おまけに死んでからも、ぼくの傍にいるなんて、」
「……ライカ」
「え?」
「宇宙にたった一匹で放り出された犬の名前。――ライカっていうのよ」
 岬さんは言った。答え合わせをするような口調で。
「自分がものすごくくだらなくて、とるにたらない存在に思えて、消えてしまいたくなる時、私、思い浮かべるの。宇宙にたった一匹で浮かぶ孤独な犬のこと。……それで、どんなに心細かったろうって、切なくなる。浅ましいって思われるかもしれないけど、そうしているとなんだか、ほんの少しだけ気持ちが落ち着くの。」
 岬さんが、ぼくの腕からそっと抜け出す。
 大きな目はもう涙に濡れていないし、情けなく泳いだりもしていない。
「……ねえ満くん」
 諭すような優しい声。
 はじめて出会った時、あるいは、この公園でジュースを奢ってくれた時とまったく同じ、しっかり者のお姉さんの顔で彼女は言った。
「そのお友達、よっぽどあなたのことが大切だったのね。いや……大切なのね」
「え……」
「そんな風に思い合える友達がいるって、すごく素敵なことよ。これは嘘じゃない、本心でそう思う」
 岬さんがぼくに何かを伝えたがっていて、けれど絶対にそれを口にしようとはしない、ということが、なぜだかよくわかった。
 途端、電撃が走ったように色んな憶測が頭の中で飛び交った。
 これまでの人生のこと、海と交わした何気ない会話、学校のこと、家族のこと――。
「……海」
 十二月の空の下。
 ぼくは、幼馴染の名前を小さく呟いた。
 
 
 
   9
 
 
 べつに最初から仲が良かった訳じゃない。出会ったばかりの頃なんて、むしろ全然話さなくて。ていうか、中学生になってからだって、仲が良いというよりは、昔からの習慣でただなんとなくずるずると話しているようなもんだったし。
 新しい街に引っ越してきたとき、ぼくは幼いながらに憂鬱で憂鬱で仕方がなかった。おじいちゃんとおばあちゃんの家が近くにある、のどかな田舎に帰りたかった。背の高い建物や灰色の地面や行きかうたくさんの人々が怖かったし、憎いとすら思った。
 そんなある日、隣の家へ引っ越しの挨拶へ連れて行かれた。大きくて綺麗な新築の一軒家が、ぼくの臆病な心をさらに怯えさせた。
「ほら、満、お隣の海くんよ。ご挨拶しなさい」
「……こんにちは」
 母親の後ろに隠れながらそう言うと、幼い海はただ短く、
「こんにちは」
 と言った。
 鋭い目が、ぼくのことを睨んでいるように見えて、ぼくはなんだかたまらなく怖くなって、大泣きしたんだ。そうだ、どうして忘れていたんだろう。あの時の海の驚いた顔。同時に、なんだコイツ? とでもいうような怪訝そうな目。
 べつに海の目が怖くて泣いたんじゃない。いや、もちろんそれもあったけれど。
 でも、あれはただのきっかけに過ぎなくて、ぼくはもう幼いながらに人生というものが嫌で嫌でしょうがなくて――憂鬱がはちきれて泣いたんだ。そういうことって、誰にでもあるだろう?
 海は最初ぼくに関わるのを嫌そうにしていた。その頃から既に人気者だった海は、ぼくみたいな薄暗い奴を傍に置きたくないみたいだった。ぼくだって海と一緒になんていたくなかった。
 大人たちにはすぐ比べられるし、なにより自分のことがものすごくくだらない存在に思えてくるから。
 けれど、いつからだったか覚えていないが、海がぼくにほんの少しだけ優しくなった時期があった。本当に些細な変化だったけれど。幼いながらに、不思議だな、と思ったのを覚えている。
 
 すっかり雲が晴れて、ご丁寧にちらちらと星が瞬いている。寒空の下、あの恐ろしい夜を繰り返すかのように、ぼくは校舎へ足を踏み入れた。あんな事件があったというのに、相変わらずの手薄な警備で、フェンスを乗り越えればあっさり侵入することができた。
 プールの水は抜かれていて、ぽっかりと大きな穴が空いている。ぼくにはそれが、巨大な落とし穴のように見えた。
 3、と太い文字で書かれた飛び込み台の上に、海はいた。
 こちらに背をむけて、ポケットに手をつっこんで、ぼんやり空を見上げている。ぼくの足音が近づくと、ゆっくりと振り向いて、
「よっ」
 と、軽く言った。
 本当に、間抜けなくらい軽い言葉だったので、ずるりと肩の力が抜けた。
「あの女子高生と、上手くいったみたいだな」
「……見てたのか?」
「ああ、見てたさ」
 海は飛び込み台の上であぐらをかくようにして座り、膝の上に肘を乗せ、頬杖をつくようにしながらそう言った。
「あのさ、海」
「悪い噂を耳にしたことがあるヤツだったから、どうなるもんかと思っていたんだぜ」
「ぼく、お前に聞きたいことがあるんだけど」
「しかし、転校生といい、あの女子高生といい、おばさんのことといい、人間関係が順調そうでよかったじゃないか」
「ぼくみたいな愚図のことを、どうしていつも助けてくれたの?」
「この調子じゃあ、清く正しい生活を送る、なんていうのも夢じゃないかもな」
「ぼくはいつも、海に助けられてばかりで、何もお返しができなくて、」
「もう俺がいなくても大丈夫だな」
 しん、とあたりが静まり返る。
 ぼくは海の目を見た。宇宙みたいに大きくて、きらきら輝く不思議な目。うっすら透ける体は、星明りを散りばめたように光って見える。
「――お前がいなくて大丈夫なことなんて、今までも、これからもないよ。海、お前が死んで、ぼくは寂しい。寂しくて寂しくてたまらない」
「……そんなことはない。お前の生活を見ていて思った。お前はこれから成長する。背が伸びて、教養がついて、やりたいことや得意なことを見つけてそれを伸ばして、友人や恋人を作り、家族を大切にして、そうやって生活していくんだ。お前の人生は、俺なんかいなくたって成り立つ。そんなの、当たり前のことじゃないか」
「……それでも、そこに、居てほしかったんだよ。海。成り立つとか成り立たないとか、そういうことじゃないんだ」
 ぼくはどうしようもない愚図で、こんな時に上手な言葉の一つも出てこない。
 海に何か言いたいのに。伝えたいのに。そういうことが悔しくてたまらない。
「ねえ海。お前の心残りって、本当にぼくがちゃんと生活できるか、見届けることだったの?」
「……最初にそう言っただろ」
「ぼくに何か、言いたいことがあるんじゃないのか」
 ぼくが言うと、海は目を丸くさせた後、バツが悪そうに顔を逸らした。動揺しているみたいだ。
 いつも飄々としている海の、こんな顔を見るのははじめてだ。
「べつに、言いたくないなら言わなくてもいいけど。でも、ぼく……嫌なんだ。だってなんだかぼくら、いつも見えない壁に遮られているみたいだったじゃないか。そう感じていたのはぼくだけじゃないだろう?」
「……お前になにがわかるんだ」
 喉の奥から絞り出すような声。泣き出すのを我慢しているみたいに震えている。
「いいか、もうそれ以上何も言うな。俺は、こんなみっともない姿、今まで一度だって、誰にも晒してこなかったんだ。それなのに、最後の最後でお前みたいなヤツに見抜かれてたまるかよ」
「どうして隠そうとするんだよ! 海はいつだってみんなの人気者で、頼りになって、理想を具現化したみたいなヤツで――でもそれって、そこに海の本心はあったの? 望まれるまま、みんなの世界に合わせていただけじゃないか!」
「黙れ!」
 海は両耳を塞いで蹲る。こんな声はじめて聞いた。何か失敗をして呆れられたり、小言を言われたりすることはしょっちゅうだったけれど、怒鳴られたことは今までで一度だってない。
 ぼくは海にそっと近づいた。震える手を、背中を、撫でてやりたくてもそれができない。呆気なく宙を掻く自分の指先が憎らしい。
「……どうして、俺はお前に触れられるのに、お前が俺に触れられないのか、知りたいか」
 うん、知りたい。
 ぼくは小さく頷いた。
「俺の気持ちが、一方通行だからだよ」
 海はそう言うと、片目から一粒だけ、ほろりと涙を流した。
 こんなに長いこと一緒にいたのに、海の涙を見るのははじめてだ。
 ぼくは何も言わず、目の前で弱弱しく俯く幼馴染を見つめた。悲しくて、苦しくて、辛くて、どうにかなってしまいそうだ。こんな気持ちははじめてだった。
 けれどそんなの、海の痛みに比べたらどうってことないはずなのに。
「馬鹿、なんでお前が泣くんだよ」
 ああそうだ、ぼくは海に謝らなくちゃいけない。多くの人々がそうするように。ぼくらもいたって普通に、このやり取りを完結させなければいけない。
 それは、ぼくにとって、そしてなにより海にとってどれだけ辛いことだろう。
「……ばかだなあ、早く言えよ」
「言えるわけないだろ。……それこそ、墓場まで持っていくつもりだったんだ。いや、ある意味それには成功したとも言えるな」
「なんでぼくなんだよ」
「……俺が聞きたいよ、そんなこと」
 海は顔を上げて、真っすぐにぼくの目を見た。もう涙は浮かべていない。何かを決意した、力強い眼差しがぼくを射貫く。
 そっと手が伸びてきて、指先が一度優しく頬に触れたかと思うと、思い切り鼻を摘ままれた。
「いでっ」
「お前みたいな、愚図でのろまで、すぐ泣くし、不細工だし、特別賢いわけでもないヤツのことを、毎日思った俺の青春は、本当に、馬鹿みたいだったよ。……辛くてたまらなかったんだ、満」
「……うん」
「ホッチキスの針」
 海は言った。
 ホッチキスの針? 
 急に出てきた場違いな言葉に、ぼくは目を瞬かせた。
「小学生の頃、お前、使えなくなったホッチキスの針をわざわざセロハンテープにくるんで捨てていただろ」
「え……そうだっけ」
「そうだよ。なんでそんな面倒なことするんだ、って聞いたらお前、すごい小さい声で、『ごみを持って行ってくれる人が、怪我をしないように』って言ったんだ」
 海は言った。
「……俺は、あの言葉を聞いた時、教室の喧騒が全部遠くにいってしまったように感じたんだ。時間が止まったんだよ。あんなこと、はじめてだった」
「そ……」
 それだけ?
 もしかして、それだけのことで海は、ぼくのことを好いてくれたのか? たったそんなことで?
 唖然としていると、海はようやくぼくの鼻からパッと手を放して、「悪いかよ」と悪態をついた。
「俺がお前に惚れるのには、特別で、劇的な理由がなくちゃいけないのか? 他のやつらと同じように、ただなんとなく好きになっちゃいけないのかよ」
「い、いや、そんなことは……ただ、びっくりして」
「……ふん」
「でもお前、須賀さんと付き合っていただろ」
「ああ、そうだな。だから言っただろ。お前が、彩音と話したって聞いた日、悪いことしたな、って」
「……須賀さんのこと、好きじゃなかったのに付き合ってたの?」
「好きになれると思ったんだ」
 ザァ、と冷たい風がぼくらの間を容赦なく吹き付ける。けれど不思議と寒くない。
「お前、自分が死ねばよかった、なんてもう思うなよ。俺はお前が助かってくれて心底良かったと思っている。……あの晩、もし死んでいたのがお前だったら、」
 海は言った。
「あいつらを全員ブッ殺して、俺も死んでた」
「ぶ、物騒だなあ」
「そうだろ? よかったじゃないか、七人死ぬ予定が、一人で済んで」
「……そんな言い方するなよ」
「お前が言わせたんだぞ、全部。言うつもりなんてなかったのに。……だから、責任をとれ、満」
 立ち上がる。海は真っすぐぼくを見下ろしている。その目が、ほんの少し切なそうに歪んでいて、ぼくは胸がいっぱいになってしまう。
「お前はこれから成長する。まったく、友達なんて作れない、なんて言っていたくせに、ちゃんとできているじゃないか。いつかあいつと一緒に葡萄酒でも飲みながら、たまにでいいから、俺のことを思い出して話してくれ。あんな奴いたな、って。それだけでいいよ、俺は。それだけで……どんなに、どんなに救われるか」
「海、ぼくは、」
「うじうじ泣くな、鬱陶しい」
 どうしてそんなことを言うんだ。最後の最後まで、酷いじゃないか。
 ぼくは涙で歪む視界の中で、真っすぐに海を見た。
「あのさ、海。一個だけいい?」
「なんだよ」
 すう、と息を吸い込む。
「……お前、人にあんだけ口うるさく言っていたくせに、寝癖がついてるぞ」
「は?」
 ぼくは、手をのばして海の頭にそっと触れた。柔らかい髪が、風に揺られながら指先を滑る。
 海の顔が歪む。苦しそうに、悲しそうに、けれど幸せそうに。
「ごめんね、海。ありがとう」
 
 
 エピローグ
 
 
 じわじわと鬱陶しく鳴き続ける蝉の声を玄関の外に聞きながらぼくは、靴紐を結んでいた。暑そうだなあ、嫌だなあ、と憂鬱が背中に圧し掛かる。
「満、早く行かないと遅れるわよ」
「うーん……はあい」
「もう! 行きたい高校があるからって、あんなに意気込んでいたのに!」
「わかったわかった、怒んないでよ、行ってきます」
 のろのろと腰を上げて玄関を出る。刺すような陽があまりに眩しくいっそ痛いくらいだ。
 あれから時間が経って、ぼくは三年生の夏を迎えていた。この半年で、思い出したかのように身長が伸びて、水嶋くんくらいまでは流石にいかないが(彼はなんと187センチもある)、もうすぐで170センチに届きそうなくらいになった。ぶかぶかだった制服は、すっかり体に馴染んでいる。
 今日は夏休みだけど夏期講習があるので、制服を着て学校へ行かなければならない。干上がったアスファルトの上を一歩一歩踏みしめるように歩きながら空を仰ぐと、抜けるような青空が広がっていた。
「満くん、私の学校くれば? 単位制で、伸ばしたい教科とか、興味のある授業を多くとったりできるよ」
 そう声をかけてくれたのは、岬さんだった。
 べつに岡崎先生に言われたからではないが(ちょっとだけそれもあるかもしれないけど)、ぼくは段々、文章を書くということの面白さに目覚めてきて、なんとか将来の仕事に繋げられたらなあ、なんてぼんやり考えていた。
 ちょうどそんな時、未来がひょいと顔を覗かせ、手招きするかのような誘いを受けて、やってみようかな、と気持ちが傾いたのだ。
 岬さんは実は絵を描くのが得意らしく、特殊な学校の中でも更に特殊な美術コースに通っているのだそうだ。
 ぼくが入学する時には、彼女はちょうど入れ替わりで卒業してしまうので、一緒に学生生活が送れないのはちょっと残念だなと思う。
 元々得意ではなかった勉強が、ちょっとやそっとやる気を出したからといって急に得意になるわけでも、劇的に成績がのびるわけでもなく、ぼくは現在、毎日ひいひい言いながら勉強をしている。テストが駄目ならせめて内申点を、と四苦八苦し、ノートを綺麗に書いたり、授業態度を気にしたりまでしている必死ぶりだ。まあ焼け石に水かもしれないが……。
 ちゃんと生きるというのは、大変だ。
 清く正しく、誰からも花丸を貰える人生なんて歩めるはずがない。
 けれど、そうあろうとすることは、誰にでもできる。
 学校に到着して、プールのフェンスの前で一度歩みを止めた。透明な水が張って、太陽に反射し、きらきら光って見える。
「おーい、満!」
「あ、おはよう、透」
「おはよー。今日も暑いねえ!」
「うわ、汗だくじゃん!」
「俺、汗っかきなんだよー」
 そんな風に、けらけらと笑いながらぼくらは校舎に足を踏み入れた。
 だるくて、しんどくて、憂鬱で、小さなことで怯えたり、気分が沈んだり。中々疲れるぼくらの日常は、たまにくじけてしまいそうになるけれど、それでも進んで行くしかない。そういうことを繰り返して、ぼくらは大人になるんだ。
 
 ねえ海。
 もうすぐお前の身長を抜かすよ。

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