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みずうみ

「死んだ人のことをあれこれ悪く言うなんて、ちょっと不謹慎すぎはしませんか。もし私が恭ちゃんで、今この場に幽霊として留まって葬式の様子を眺めていたりしたものなら、この場に居る全員の枕元に立ってやるって思いますけど」
 私がそう言うと、会場は水を打ったように静まり返り、しばらくの間気まずい沈黙が流れた。もう良い年をした親戚一同の、ちらちらと伺うような視線が飛んでくる。当たり前だが、どれもこれも決して好意的とは言い難い。
 やっぱりあの子も、ちょっと変わっているから……とでも言いたげな目。そういうものを一身に受けながら私は、ああそうか、恭ちゃんはきっと、こういうものが鬱陶しくてたまらなかったのだ、とぼんやり思った。
「あんたは何も知らないからそんなことが言えるのよ、真純。この子は本当に冷たい子だよ。冷たくて恐ろしいくらいだった。親の死に目にすら会おうとせずに、いつも自分の世界に閉じこもってわけのわからない絵を描いてさ。わざわざこの子の家まで出向いて、インターフォンを鳴らしたのに無視されて、取り合ってもらえなかった時の私の気持ちがわかる? 本当にみじめで、悲しかった」
「でも、恭ちゃんはお母さんたちに、あらかじめそう宣言して閉じこもったんでしょう? 皆と関わるのはもうやめます、放っておいてください、って」
「そんな滅茶苦茶で我儘なこと、許されるはずがないでしょ!? 家族のことをほったらかして生きるなんて、良心のある普通の人間にはできやしないんだ。真純、あんたってこの子によく似ているわよ。自分は他人に関与されたくありません、全部自分でどうにかするので放っておいてください、って顔しちゃってさ」
 母は言った。
 こういう凝り固まってしまった身内に対する憎悪のようなものは、いっそ凶器にさえなり得るのだな……と私は思った。何年も、何十年も抱え込んで、母の中で恭ちゃんは家族という垣根を越えて、すっかり悪者になってしまったのだ。そして、その悪者の恭ちゃんを庇おうとする私も、もちろん悪者なのだろう。
 実の母親に先のような発言をされてしまえば、流石の私でも傷つく。けれど黙っておいた。もうこうなってしまえば、私にできることは何もない。
 恭ちゃんは母の十五も年の離れた弟で、関係性で言えば私の叔父に当たる。私と年がそんなに離れていないことから、退屈な親戚の集まりの場で、昔はよく恭ちゃんに引っ付いて回っていた。
 恭ちゃんは親戚中からいつも怪訝な目で見られていた。私が十四歳の時、二十五歳だった恭ちゃんは、おばあちゃんの三回忌で伯父さんにぶん殴られていた。殴られた恭ちゃんは頬を撫でながら、
「うわ、痛い」
 と、間の抜けた表情でそう言い放った。
 緊迫感とかけ離れた、その間抜けな一言が可笑しくて、思わずブッと噴き出して笑うと、その場に居合わせた親戚一同は私を睨んだ。思えばあの時から私は、“恭ちゃん側”の人間とみなされていたのだろう。そしてそんな私に対して、唯一恭ちゃんは微笑みかけた。
「恭ちゃん、なんで殴られてんの? 伯父さんに何て言ったの?」
「遠い場所に行くことにしたから、もう関わらないでくださいって言ったんだ」
「遠い場所って? ていうかその発言、なんか死ぬみたい」
「死なないよ! 遠い場所っていうのは、遠い場所さ。俺はね、真純。もう全部やめることにしたんだ」
「なにを?」
「最近ずっと考えていたのだけれど、」
 恭ちゃんはいつも、なになになんだけど、という言葉を、なになになのだけれど、と、妙に畏まった口調で言う。その馬鹿丁寧な感じが、私は密かに好きだ。綺麗だな、と思うのだ。
「心が目に見えて、しかもそれに形があるのだとしたら、スタンダードなのがハート型とするだろ?」
「はあ」
「でも俺は、ぐにゃぐにゃで生まれてきてしまったんだ。わかるか? それでさ、世の中はハート型の人たちが暮らしやすいようにできている。べつにそれが悪いことだとは全然思わない。ただ、ああ俺には適していないなって思うんだ。だって、ハートの枠組みにハマるようにできている物事に、ぐにゃぐにゃのものしか持っていない俺が無理やりそれを押し込もうとしたら、痛い! ってなるだろ?」
「うーん……まあ、なんとなくわかったよ。じゃあ、恭ちゃんは、自分に適していない世の中で生きるのをやめるってこと?」
「そうそう、真純は賢いな。それに、言ったことを言ったままに捕らえてくれる。それってすごいことだよ」
「そうなの?」
「ああ、そうだよ。皆深読みするのが好きだから、本当のことを言っても伝わらないことばかりなんだ。俺はいつもそうだ」
 恭ちゃんは言った。
「さっきだって、俺は嘘なんて一つも言っていないし、誠実に、自分の胸の内を洗いざらい話した。でも駄目だった。俺はべつにあの人たちのことが憎いわけじゃないんだ。むしろ心から愛しているよ。たまに腹が立つこともあるけどさ」
「愛しているなら、傍にいればいいじゃない」
「そうできたら、本当は良かったんだけどね。真純、君のお母さんは優しくて愛情深くて、俺はとても好きだけれど、でも俺はもうあの人とも関わることはできないんだ。そう決めたから。それで、きっとあの人は俺のことを酷く憎むと思う。そうなったとき、お前が傷つくのだけが心配だよ。身近な人が浮かべる憎悪の表情って、それだけで、なんだかもう……中々しんどいものだからさ」
「大丈夫。私、結構図太いから。ねえ恭ちゃん。私とだけは会ってくれない? 恭ちゃんの暮らしを滅茶苦茶にしたりはしないって、約束するから」
 私が言うと、恭ちゃんはまるでそう言われるのをはじめからわかっていたみたいにそっと笑って、
「ありがとう。でも俺、やるって決めたんだ。悲しいし、苦しいけれど、そうでもしないときっと、生きていけないから」
 と言った。
 恭ちゃんはそれから、とんでもない山奥の、湖の近くの小さな平屋のようなものをどうにかこうにか購入して暮らしはじめたそうだ。母がもうほとんど執念で居場所を調べ上げて、何度も何度も訪問しては会ってもらえずにすごすごと戻ってきた。
 恭ちゃんに面会を拒否された当初は静かに涙を流したり悲しんでいたりした母だが、回数を重ねるにつれてその表情がしっかりと憎悪に変わっていくのを私は見た。そしてその表情は驚くほど醜くて、悲しかった。ああ恭ちゃんはこの顔を私が目撃するのを危惧していだのだな……と、呑気にジャンプを読みながら私はそう思った。
 あれから十一年。私は、恭ちゃんが失踪した時と同じ年齢になった。
 恭ちゃんは家の中で死んでいた。三十六歳という若い年齢でこの世を去った恭ちゃんの遺体は、清潔で、健やかそうだった。心筋炎という風邪と見分けの付きづらい心臓の病気で亡くなったそうだが、あれこれ言われても私にはよくわからなかった。
 ただ、そうか……心臓がやられてしまったのか、と、恭ちゃんの鼻のてっぺんを見ながらぼんやりそう思った。
「そんなにあいつを庇うのなら、家の片づけを任せてもいいかい。大きな家具は業者に頼むからそのままで構わない。そのほかの小物の中で大切そうなものを避けてくれ。金目のものがあったら持って行ってくれて構わないから」
 いつの日か恭ちゃんをぶん殴った伯父さんが、ただ淡々と私にそう言った。もうほとんど投げやりな言い方だった。早くこの出来事を終わらせて日常に戻りたい、という気持ちがひしひしと伝わってくる。
「わかりました、引き受けます」
「ちょっと! 兄さん、真純に変なこと頼まないでください。感化されてこの子までおかしくなったらどうするんですか!」
「大丈夫。私、ちょうど仕事を辞めたばかりで時間もあるし、自然が綺麗なところへ行きたいと思っていたの。それに……私は恭ちゃんのことを本当に好きだったから、弔いの為にもどうか行かせてほしい。どうせ皆行きたくないんでしょう?」
 私が言うと、母は心底イライラした顔になった。
「あんたは私たちと関係性が違うからそんなに呑気なことが言えるのよ」
「うん、そうかも。でもそれならそれでいいじゃない」
 尚もぶつぶつと文句を言い続ける母を、伯父さんたちがまあまあと窘めた。本当に行ってくれるなら有難いことだし、自分たちのような高齢の者には片付なんか厳しいのだから、若い人に任せようじゃないか。
 そんな風にやいやい言い合う身内の声を遠くに聞きながら私は、恭ちゃんが眠る棺にそっと視線を移した。
 ねえ恭ちゃん。散々な言われようじゃん。

   結局自分たちが片づけをする労力を嫌がり、私は無事恭ちゃんの暮らしていた家へ赴く許可を貰った。近頃は働きづめで人間関係にもすっかり疲弊していたし、一度どこかで思い切り一人になりたいと思っていたのだ。
 恭ちゃんが暮らしていた家は、神奈川県の端の端の山奥にひっそりと佇んでいる。
 比較的栄えている大きな駅からレンタカーを借りて一時間ほど道を走ると、辺りは驚くほど静かになっていった。そして、こんな山奥に母は何度も一人で訪れたのか、と、その執念にも唖然とした。
 しばらくすると、一気に視界が開けて、正面に堂々とした出で立ちの水の塊が現れる。そう、人はそれを湖と呼ぶのだけれど、ただあまりにその光景が美しく、湖なんて一言で言い表していいものか……と憚られるほどだった。
 恭ちゃんの家はそんな美しい湖のほとりにあった。近くに車を停めて、玄関扉を開く。当たり前だが室内はしんと静まり返っていて、そしてどこか黴臭かった。
「お邪魔します」
 一言そう声をかけて、気休めではあるが手を合わせてから靴を脱ぎ、室内に入る。
 恭ちゃんはここで、一人で死んだのだ。とても静かに、誰にも看取られることなく。幸いも遺体は近所の人がすぐに発見してくれたので、腐敗してどうにもならないようなことにはならなかった。
 家の中は驚くほど片付いており、処分しなければならないものなんてほとんどなく、片付作業はあっという間に終わった。まるで死ぬのを最初からわかっていたみたいだな……なんて思って僅かに背筋がひんやりとした。恭ちゃんならそれもあり得る。
 縁側に座ると、真正面に湖が見えた。とんでもない濃さの光を放って輝いている。そういうのを見ながらしばらくぼやっとしていると、ざっ、ざっ、ざっ、と遠くから足音が聞こえてきてドキンとした。
 誰? こんなところにわざわざくるような人なんて、ちっとも思い当たらない。
 身構える私を他所に、木の影からひょこりと現れたのは美しい女の人だった。その人は、怯えた顔で縁側に腰かける私を見ると、心底驚いたような顔で「えっ!? ど、どなた?」と言った。
「え……この家の住人の、親戚の者です。片付に来たのですが……」
「あ、ああ! そうですか! ごめんなさい、失礼しました」
「あの、あなたは……?」
「私は、この先にある文具店の娘で、弥生と言います」
「え……じゃあ、叔父の遺体を見つけてくださった、」
「はい、その通りです」
 私は慌てて立ち上がり、「失礼しました! その節はどうも……!」と頭を下げた。しまった。お世話になった近所の人に御礼をお渡ししなくちゃな……と考えてはいたものの、実際に持ってくるのをすっかり忘れていた。
「いえ、そんな、かしこまらないでください。恭介さんには大変良くしていただいていたんですから」
「……え、そ、そうですか」
「はい。あの、失礼ですがお名前は?」
「あ、すみません。姪の真純と申します」
「ああ、じゃあなあたが!」
 弥生さんはパッと花が咲いたように笑って駆け寄ってきた。
 ふわふわの長い髪に、ぱっちりとした大きな目に長い睫毛、薄い唇と驚くほど白い肌。弥生さんは、同性の私でも思わずどぎまぎしてしまうほど美しかった。
 こんなに綺麗な人が、恭ちゃんと親しかったなんて、一体全体どういうことなんだろう?
「恭介さんからよく話は聞いていました。姪の真純さんはとても賢くて良い子だって」
「いえ、そんな、恐縮です……あの、失礼ですが、叔父とはどういう……?」
「ああ。いえ、ごめんなさい。べつにそんな、ロマンティックな関係ではなかったんです。本当にただのご近所さんってだけで。でも、この家に恭介さんが住んでいるっていう事実が、不思議と私の……いえ、皆の気持ちを明るくさせていたんです」
「はあ」
「いつも通る道に、三回に一回くらいの確率で出くわすことができる猫がいて、その猫を見かけた朝は、ようし、今日も頑張ろう! って思えたりするじゃないですか。恭介さんってそんなかんじだったんです」
 ちょっと変わった人だな、と私は思った。けれどべつに嫌な感じは全然しなくて、思いのままに生きてきたらこうなりました、とでもいうような、むき出しの愛らしさのようなものが弥生さんにはあった。
「真純さん。あなたにお渡ししたいものがあるんです」
「え?」
「ちょっと待っていてくださいね。あなたの伯父さんの家なのに、我が物顔で入ってしまってごめんなさい」
 弥生さんはそう前置きをしてから靴を脱ぎ、縁側から室内に入って居間の畳をきょろきょろと見回した。なんだなんだと驚く私をよそに、ああこれだ、と小さく呟くと、一枚の畳を引きはがす。
 そこにはクリアケースにいれられた一枚の絵が隠されていた。手際よくそれを回収すると、弥生さんは「はいこれ」と私に差し出してきた。
「あなたにって」
「……叔父が、私に?」
「ええ。恭介さん、決して誰かのために描いたりはしない人だったのだけれど、これはあなたの為に描いたって言っていたわ」
 震える手でそれを受け取る。
 私には芸術のことはてんでよくわからない。けれど、今この手で掴む一枚の絵が、とんでもなく美しいものだ、ということはよくわかる。
 それは水の絵だった。川のようにも、湖のようにも、海のようにも見える。鮮やかな青を基調としていて、どこからか差し込む陽の光が救いの手のように水中に差し込み、小さな魚たちが群を成してどこかへ向かって泳いでいる。
  そしてその絵からは、どこか死の匂いがした。
  具体的に何がどう、とは言い切れないが、私は恭ちゃんがこの絵を描き始めた時、もうそろそろ自分が死ぬのだということをはっきりと理解し、意識し、その上で制作にあたったのだということが何故だかよくわかった。細い背中がキャンバスに向き合い、一心に色を重ねていく姿を思い浮かべると叫び出したいほど悲しい気持ちになった。
「あの人、寂しい人だったけれど、でもちゃんと全部自分で決めて生きているってかんじがして、かっこよかったな。真純さん、その絵、どうか大切にしてください。本当は私が欲しいくらいなんですから」
 私は、ぎゅっと両腕で絵を抱きかかえながら、ただ小さく頷いた。
 恭ちゃんの家の勝手のわからない私に代わって、弥生さんが淹れてくれたお茶を飲みながら、私たちは縁側でぽつぽつと話をした。
「恭介さん、やっぱり近所の人たちとも積極的には関わろうとはしていなかったのだけれど、でもちゃんと善良な人だっていうのが不思議なくらいわかったから、私たちもそっとしておいてんです。だってそうでもしないとあの人、またどこかへ行ってしまう気がして」
「わかります。……じゃあここは、叔父にとって天国も同然だったんでしょうね。自分の近くで、自分とは関係のない人間が、自分と深く関わろうとせずに、勝手に生きてくれている、なんていうのは」
「うわあ、凄い」
「え?」
「今の言葉、恭介さんそっくり。ていうか、いつだったかにそんなようなことを言っていた気がする。真純さん、あなた本当に恭介さんそっくりね。恭介さんそっくりで、とても尊くて、そしてささやかなのね」
 弥生さんはそう言って、優しく微笑んだ。本当に優しい表情だった。
 私はなんだか何も言えなくなってしまって、ただ小さく微笑み返した。そうして二人で湖を眺めた。圧倒的な輝きを放つ水の塊。恭ちゃんは毎日あの偉大な存在を前にして、何を思っていたのだろう?
「私実は、何年か前までは東京で働いていたんですよ」
「え? そうなんですか」
「ええ。でも……苦しいことがいくつか重なって、ここへ戻ってきた。そうしたら、近所の空き家に買い手がついて人が入った、って噂になっていて。……こんなに覚悟を決めて、やると決めたらやる、一人になると決めたらなる。そうして誰にも甘えずに、けれど他者を憎むでもなく、ただ誠実に暮らしている人がいるなんて! って……あはは! なんだか、色んな事が急にばからしくなっちゃって」
「叔父が、弥生さんの心を少しでも救ってくれたのなら、姪として誇らしいです」
 ふふ、と小さく笑って、私はそう返した。
 その晩、私は恭ちゃんの家に泊まることにした。怖くないと言えばうそになるが、不思議と気持ちは安らかだった。それになにより、恭ちゃんは幽霊として化けて出るような、そんなずるずると後を引くような消え方はしないだろう、という妙な信頼があったのだ。
 目を瞑って耳を澄ませると、微かに水が流れるような聞こえた。
 それが、遠くに浮かぶ巨大な湖から響く音なのか、それとも、摩訶不思議なことに枕元に寝かせた絵から響く音なのか、私にはわからない。
 
  わからないけれど、その音は子守歌の様に優しく私を包み、見守った。
 

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